浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

雨が降らない!!

2024-07-30 20:10:37 | 日記

 東北地方は大雨で洪水が起こり、たいへんな災害になっている。関東地方では雷雲が発生し、短時間に雨が降る。

 しかし浜松地方は、雨が降らない。ひたすら太陽が照り続け、気温を上げ続けている。一日中、猛暑が続く。エアコンなしには、何もできない。眠ることすらできない。気候変動は、ここまできているのかと、思わざるを得ない。

 昨日、デモクラシータイムスをユーチューブでみていたら、テレビでは猛暑のこと、花火大会、猛暑の中で売れているものはかき氷だなどと、現象だけは追うが、猛暑の原因、気候変動については報じない。テレビから流れてくるのは、報じても報じなくてもいいようなどうでもよいようなことばかりで、おもしろおかしく報じるばかりである。

 テレビは愚民をつくるというが、その通りだ。

 さて、こう晴天が続くと、畑もカラカラである。キュウリやなす、エダマメ、にんじん、オクラなどをつくっているが、夕方、今では6時頃になっている(それ以前には、畑には行けない!)が、畑に水遣りに行く。近くの農業用水からバケツで水を汲み、水をまく。水を遣らないと、生長しないし、実もできない。

 行く度に目についたところの雑草をとる。スコップで除草するところを掘り、そのあと草を抜く、その際、畑の土は乾ききっているので、風があれば土が飛ぶ。

 また庭の花々も疲弊している。朝夕、水遣りをしているが、花があまり咲かない。高温と日照りで、花々もぐったりしている。

 年々高温化が進んでいる。夏の農作業は、一昨年までは午後4時過ぎにはできていたが、昨年夏はまったく無理になった。5時頃行っても、せいぜい15分程度の作業しかできなかった。今年はやむなく、最近は6時頃から始めるようになったが、1時間はできなくなっている。

 農作物を栽培している畑には、夏草が伸びている。世話ができなくなっているのだ。

 こういう事態が進行しているのに、政治はそれには見向きもしない。政治家はせっせとカネ集めに奔走し、官僚はマイナ保険証など無理難題を庶民に押しつける。利権確保のためである。世界の指導者は、気候変動には目もくれず、兵器や弾薬を増産して戦闘が行われているところに売ってカネ儲けに励む。

 人類は、破滅に向かっているとしか思えない惨状である。

 

 

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政治家の質

2024-07-30 13:00:13 | 政治

 国レベルでも、地方レベルでも、政治家の質がかなり下がっている。

 まず石川県の馳知事。「「県民はゴミじゃない」石川県・馳知事「低所得者が避難所に滞留」配慮ない発言に「恥知事」集まる批判」の記事。

 能登半島地震が起きてから、この知事に対する批判が続いているが、石川県民は、そういう人を知事に選んだということでもある。

 また自民党の広瀬めぐみ議員。自民党とカネは、永遠に続く。

 そして北海道の議員。 さらに、兵庫県知事

 

 みんなみんな自分自身を特別な人間だと思い込み、奢りの塊となって政治活動というか私欲を満足させる行動をとっている。

 選挙民は、もっともっと賢くならなければいけないと思う。

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金原(明善)家異聞

2024-07-30 08:55:08 | 近現代史

はじめに

 金原明善(1832~1923)についての研究会に参加した。そのレジメで、「「偉人」金原明善を捉え直す必要がある」と記しながら、例会では「偉人」ということばが何度も使用されていた。また「いま、金原明善に熱い視線が注がれている」とあるが、さてどこで注目されているのだろうか。

金原明善と地元

 私の実家は浜松市中野町にある。昔からの地名で言うと、萱場村である。
 萱場村は安間村の東隣に位置する。実家から明善生家は 100 メートルほどだ。安間村から天竜川堤防に行くには、萱場村と中ノ町村を通って行かなければならない。天竜川に接するこの地域(中野町)では、明善に対する評価は高くはない。
 明善家の本家は、萱場村にある。村は異なっていても、両家は隣り合っている。本家の金原家は、JR 天竜川駅ちかくにある日蓮宗の名刹妙恩寺(建立は 1311 年とされる)と深い関係にある。妙恩寺における地位は、金原本家が上にくる。そうであっても、長い間、明善家の方が経済的に豊かであった。言い伝えでは、明善家は高利貸により財産を殖やしてきた、明善自身も、生家の前で、東海道を浜松方面に行く者にカネを貸し、たくさんの利息をとったということも聞いている。明善は「高利貸しだった」という記憶が、地元では強い。こういう記憶が残されているということは、明善の治水事業は、地元の支持の下になされたものではないということを表しているのだろう。
 この問題については、斎藤新さんが『近代静岡の先駆者』(静岡新聞社)の「金原明善」の項目で、「・・明善が、「愛国」に熱中するあまり、地域社会との間の信頼関係を培うことができず、そのために有志による天竜川改修事業という彼の構想が頓挫した」と指摘していたこととつながっていく。またみずからの全財産を捧げて改修事業に取り組もうとしたという言説であるが、明善家の家産は治河協力社解散時に返還されている(斎藤さんはこの治河協力社についても、その私的性格を指摘している。重要な指摘である)。また『明治前期地方政治史研究』下(原口清、塙書房)にも、明善と地域社会との対立についての言及がある(283~5 頁)。なお同書には、明治 14 年から 16 年までの静岡県の四大河川の堤防費国庫補助金下付請願運動(国庫補助金は明治 14 年に打ち切られた)の説明があり、その請願運動に対し明善は、「頓着なし」、「評議には」関与していないという報道が紹介されている(289 頁)。
 明善を「偉人」とする言説が、今も尚、浜松市内の学校で教えられている。「偉人」とは「すぐれて立派な人。すぐれた能力、性格などを備え、偉大な業績をなし遂げた人。」(『日本国語大辞典』)と定義されている。
いったい、明善はいつ頃、どのような経緯から「偉人」とされるようになったのか。私は、天竜運輸、天龍木材など地域に於いて様々な事業を展開した明善を、「偉人」とするよりも、実業家として顕彰すべきではないかと思う。

金原醇一と明治社会主義

 金原本家には、明治社会主義と深い関係をもった金原醇一がでている。金原醇一(1886 ~ 1969)は、浜名郡中ノ町村萱場に生まれた。いつの頃からか社会主義に関心を抱き、大逆事件の際には警察の取り調べを受けた。
 金原醇一(以後醇一とする)を最初に紹介したのは杉山金夫で、本稿は、杉山の調査を土台に、新たに私が調べたものを付け加えて記すものである。
 醇一は、中ノ町村長などを歴任した金原鉄平の次男として生まれ、日露戦争に志願兵として参戦した。醇一がどのような経緯で社会主義に近づいたのかはわからないが、1907年 九段坂下ユニバーサリスト教会での社会主義夏期講習会(8 月 1 日~ 10 日)に参加し、幸徳秋水、堺利彦、また地方の社会主義者とも交流し、とりわけ信州の新村忠雄と懇意となった。

※この講習会の内容は以下の通り(『週刊社会新聞』第 10 号、第 11 号、1907 年 8 月
4 日、11 日による)。
田添鉄次 社会主義史(5 時間)/幸徳秋水 道徳論(4 時間)/堺利彦 社会の起源(5時間)/山川均 社会主義の経済論(5 時間)/片山潜 労働組合(5 時間)/西川光次郎 同盟罷工の話(4 時間)、会費 80 銭、臨時一回聴講券 10 銭で、講習会の出席者は、毎夜 80 余名。懇親会は 8 月 6 日 11 時から、角筈十二社で開催され、来会者 40 余名、片山、田添、森近、幸徳の演説、福田英子の二弦琴演奏。その後十二社杉林の中で写真撮影が行われ、5 時頃散会した(その写真は、『幸徳秋水全集補巻 大逆事件アルバム』にあり、新村、醇一の姿もある。なお辻潤も参加していた)。


金原醇一の足跡

 杉山は、大逆事件で処刑された新村忠雄(金原宅へ宿泊もしている)、森町三倉の中川栄太郎、池田村の杉村光市との交流を記しているが、処刑された新宮のドクター大石誠之助の「住所氏名録」にも醇一の名は記されている(大石のそれには、静岡県内の 23 名の氏名が記されているー後掲)ので、醇一は各地の社会主義者等と幅広く交流していたことがうかがえる。
 醇一はその後、『社会新聞』、『熊本評論』にも原稿を送っている。『社会新聞』については杉山が紹介しているので、『熊本評論』をここに掲げる。


※☆遠州だより(『熊本評論』24 号、1908 年 6 月 5 日)
勇敢なる未見の同志熊本評論社諸兄足下、僕此度当地の同志杉村氏と倶に、遠陽同志同盟の組織中に有之候/今や東西の同志諸兄、猛闘奮迅頻りなる時、独り我遠陽の地は寥淋閉塞の状態に空過する久候、亦以て僕等冷顔坐視に不忍、僭越を冒して、遠陽同志諸兄に此の結盟の義を諮り、聊か以て此の大主義大理想に盡さんと致すものに候、敬曰(5 月 20 日 浜名郡中野町に於て)

☆『熊本評論』25 号(1908 年 6 月 20 日)
熊本評論社諸兄足下、吾が微弱なる遠陽同志同盟も漸次其の議論趨向を宣言して広く労働者、青年の糾合に努め隠密の間大動力の養成に勉め、以て機を窺、変に乗じて大いに事を為さん宿志に候。/諸兄足下、今の世革命を叫んで天下に咆哮せんとす、必ず先づ労働者伝導の緊急なるは言を俟たずと雖ども、亦須らく青年に融通せずんば在るべからず候。/夫れ青年は高潔熱誠也、真摯敢為也、則ち是れ吾人が旧守頑迷なる白髪の老年に説くを欲せずして、只管青年伝導を口にする所以にて候。

 また醇一は、新村忠雄が編集発行人であった高原文学会の会員となり、同会発行の『高原文学』」(第一巻第四号、1908 年 10 月、長野市で発行)にも「本能論」という文を載せている。
醇一が具体的にどのような活動をしたのかはよくわからないが、書簡や投稿などによれば、杉村と社会主義者の組織として「遠陽同志同盟」(遠陽同志会という異なる名称もある)を結成しようとしていたことは判明する。

大逆事件とその後

 大逆事件とは、1910 年 5 月各地で多数の社会主義者,無政府主義者が明治天皇暗殺を計画したとの理由で検挙され,翌年 1 月 26 名の被告が死刑その他の刑に処せられた事件であるが、醇一も拘束され、取り調べを受けた。杉山の調査によれば、親族らが大審院宛ての嘆願書を提出したり八方手を尽くしたという(明善がそのために動いたという事実は確認されていない)。その後、掛塚の中村喜三郎方に謹慎していた。
 醇一は、のちに平野紙店の婿養子となり、実業家への途を歩むことになる。醇一は紙店だけでなく、妻の父の山林経営にも関わっていく。その傍ら美術分野にも進出し、渡辺崋山等の文人画などを収集する一方、醇一は自適斉素芸(そうん)と称し、みずから南画も描いていた。
 平野家は、その後丸八製材所を経営し、さらに不動産業(丸八不動産)にも進出していった。醇一をはじめとした平野家は、多くの美術品を収集し、それらを展示する美術館として、1989 年平野美術館を開設した。それらの事業は継続され、現在に至っている。


おわりに

 「金原家異聞」として、明善と醇一を紹介した。明善も醇一も実業家として生きたといってよいだろう。明善は「偉人」とされたことから、学校教育でも取り上げられ、明善生家を訪問する者も多い。また膨大な史料が一橋大学に寄贈されたことにより、研究者にも注目されている。
 醇一は、社会主義に目覚め、また大逆事件の荒波に呑み込まれそうになったあと、実業家として生きた。醇一が収集した美術品は、今も平野美術館で展示されている。しかし残念ながら、醇一に関する史料は多くはない。
 私としては、明善よりも醇一に関心を持つ。何故に醇一は、社会主義に傾倒したのか。その交友関係はどうであったのか・・・・。明治の時代にあって、社会主義者は少数者であった。そうした少数者に着目することが、歴史研究の醍醐味だと思う。

※大石誠之助「住所氏名録」 (注)□は解読不能のため
磐田郡長野村前野 和泉幸市郞/沼津通横町 (死亡) 中村岩次郎/遠州掛川町□町 120川島 武/浜名郡中の町村かやば 金原醇一/磐田郡池田村池田 杉村光市/榛原郡萩間村白井 中田新平/安倍郡長田村手越 44 近藤恵寿子/静岡市北安東 27(京都へ) 延原天民/静岡市梅屋町 石井浜吉/浜松利町 413 ノ□ 谷 忠行/静岡市両替町 3 丁目 栗生末治/引佐郡麁玉村 伊藤□泉/遠江榛原郡御前崎灯台 小林栄造/沼津町城内 130 山本/安倍郡長田村赤目川 鈴木辰五郎/静岡市本通り1 長谷川吉蔵/静岡市一番町 12 □井準治/磐田郡佐久間村中部 斎藤白露/周智郡三倉村一之瀬 中川栄太郎/榛原郡御前崎村御前崎灯台 杉(?)生繁卓/小笠郡掛川町掛川 内藤長之助/磐田郡二俣村川口 和田のぶ子/田方郡田中村 中島省一

 

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