一字、一字を追いながら読む。わたしの脳裡に、光州でおきたことが、そしてその事件が人間に何を刻印したか、それがおぼろげながら像を結ぶ。
韓国の国家権力の、想像を超える激しい暴力。その荒れ狂う暴力の前に、人間として敢然と立った人びと。その暴力は、ただそこにいたという人びとを含めて、人びとの命を奪い、さらに生き残った人びとに、消すことの出来ない「記憶」を残した。その「記憶」とは、こころのなかの「記憶」だけではなく、みずからに振るわれた暴力の、からだの「記憶」でもある。
『少年が来る』にでてくるのは、少年・トンホに関わった人びとである。虐殺された人びとの数からすれば、数少ない人びとの肖像ではあるが、かれらの生と死は、光州市民が体験した荒れ狂った暴力の象徴であるといえよう。
この本には、暴力とはいかなるもの・ことなのか、暴力が人間の命を破壊するだけではなく、たとえ生き残ってもこころを破壊するのだということを、明確に伝えている。
「暴力」について考えようとする場合、この小説を読まないと始まらないというほどに、暴力を描いている。
そして暴力に抗するものは何であるのかも示唆する。それは「良心」。「この世で最も恐るべきものがそれです。」(140頁)と、記されていた。
わたしは、道庁に残った人びとは、全斗煥の命令に従い押し寄せてきた戒厳軍の兵士と撃ち合ったと思っていたが、
「・・(道庁に残った市民軍の)大半の人たちは銃を受け取っただけで撃つことはできなかった。」
とある。そのような立場に、もしわたしが立ち会っていたとするなら、おそらくわたしも引き金を引けないだろう。
文中に「つまり人間は、根本的に残忍な存在なのですか?」(163頁)という問いがある。
たしかに、韓国軍兵士は「残忍」だった。その兵士も、人間なのだ。そしてあまりに非道な暴力をふるわれながらも、「良心」にしたがって生きた人びとも、人間なのである。
人間は、ほんとうに不可解なのである。
拷問の叙述がある。読んでいて、日本の特別高等警察が植民地時代の朝鮮半島に「導入」し、それがそのまま続いてきたのではないかと思った。
重い、重い小説である。著者のハン・ガンには、文字で表した世界のその背後に、無限の、この光州の出来事に対する想念があるはずだ。その想念の世界を知るためには、一度読むだけでは不可能のように思える。
ハン・ガンがノーベル文学賞を受賞したが、今、世界ではウクライナ、ガザその他で暴力が吹き荒れている。暴力を振るう者たちが、自分自身の暴力がいかなるものかを知るために、『少年が来る』は最良のテキストとなるであろう。