浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】那須田稔『もう一つの夏』(木鶏社)

2016-01-08 12:02:53 | 
 那須田さんは児童文学作家。これも児童文学なのだが、大人でもじゅうぶんに楽しめる。楽しめるということばでは表現できないのだが、適当なことばがみつからない。考えさせる児童文学とでもいえようか。

 この作品の舞台は、中田島海岸だ。東京から一郎という子どもがやってきて、そこでいろいろな体験をするのだが、そのなかでもっとも重要なモチーフは、朝鮮人少年キムとの出会いである。

 海岸の砂浜の規模や、防砂林としての松林の北側にい草畑や養魚場がひろがっているという情景は、1940年代後半から1950年代前半か。戦後であることはまちがいなく、また戦争直後の混乱や貧困からは脱しているから、50年代だろうか。

 中田島海岸の自然をバックに、一郎とキムとの出会いとその二人が織りなす葛藤や協調、それが主要なテーマであり。当時置かれていた朝鮮人の歴史的状況が描かれていて、子ども同士は、民族や国籍が異なっていても、人間としての交流が自然にできていくことが、おそらく著者の体験だろうが描かれる。

 もちろん朝鮮人に対する差別はここにも描かれているが、しかしその差別は自然には生じないのであって、社会的差別の存在が人びとに浸透していった結果差別が行われるのである。もちろん一郎には差別的な発想は微塵もない。

 一夏の体験を、豊かな表現のなかで切り取り、当時の歴史的社会的な文脈の中に描ききるという作品で、描かれたその世界に、静かな主張がある。

 先日読んだ『シラカバと少女』と、共通するものがある。

 よい本だ。次は『ぼくらの出航』を読む。
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【本】堀川惠子『裁かれた命』(講談社文庫)

2016-01-07 12:17:39 | 
 昨日久しぶりに書店に行った。本はほとんど通販で購入しているから、書店で買うことは少ない。しかし読むべき本は、実際に書店に足を運ばないと見つけられないこともある。

 文庫本の棚を見ていたら、堀川惠子という名を見つけた。テレビドキュメンタリーのディレクターとして数々の作品を制作し、またみずから取材し制作したドキュメントに関して書物にもしている。堀川の取材力、筆力には、感服している。ついでに女性では、黒岩比佐子、梯久美子らに感服している。

 『裁かれた命』。ボクはすぐに眠りに入らないため、毎夜布団の中に入ってから少し本を読む。昨夜この本を読みはじめたら、なかなか眠れなくなってしまった。読むのをやめ、とにかく寝たが、朝起きてから再び読みはじめた。この本には、あまりにもたくさんの事実が詰まっている。

 まず死刑の問題。これが主要なテーマであろうが、日本社会は今応報的な雰囲気が強く、刑罰が厳罰化されてきている。時代によって変化するというのも、法治主義の時代ではおかしいことではあるが、それが現実だ。

 しかし応報的に、死刑に値する犯罪を犯したから死刑にする、という短絡的な判断はいかがなものかという気持ちはずっとボクは持ち続けている。大学で被疑者の権利などについてみっちりと学んできているので、そうした発想には違和感をもっている。

 この本の主人公は、検察のエリートであった土本武司である。1966年、ひとりの主婦が殺された。犯人は若者であった。長谷川武である。逮捕された後彼はすらすらと犯行を自供し、当時の量刑観から死刑相当であると、捜査検事であった土本は判断した。

 第一審の判決は死刑、そして第二審。長谷川は、みずからを罰すべく死刑を甘受していたが、国選弁護人となった小林健治は、誠実に調査した結果、死刑に値しないのではないか、死刑判決を受けた長谷川は生きるべきではないかと考え、そのために手弁当で尽力した。しかし二審も死刑判決だった。そして上告。しかし棄却され確定した。

 長谷川は拘置所で、みずからを凝視し、小林や土本に手紙を書き、そのときそのときの心境を書き送る。そこにはみずからの罪を悔い、誠実に生きようとする青年の姿があった。だが、死刑は執行された。

 土本は、この本の著者堀川の取材結果に沿いながら、その青年の逮捕後の軌跡、そしてその青年のまわりの家族や関係者らの生の軌跡を知る。土本は、ひょっとしたら、若い駆け出しの検事であった自分の当時の判断は間違っていたのではないかと思い始める。

 ひとつの犯罪には、単にその犯罪を起こした者の責に帰すことができない様々な家庭的な、社会的な背景が存在する。人の罪を判断する、裁くということは、簡単ではないことがよくわかる。

 裁判員制度が発足してかなりの時間が経過している。人を裁くという重さ、そして死刑という刑罰がもつ大きな限界、ボクらはそれを見つめなければいけないだろう。死刑を求刑したり、死刑判決を下した法曹関係者は、いつもその判断の重荷を背負いながら生きている。その重荷を、ボクらは知らなければならない。

 とてもよい本である。堀川の本はすべて読むべき本である。

 なお、この本を、殺された被害者の家族に読んでもらいたいと思う。

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北朝鮮のこと

2016-01-07 08:59:35 | 国際
 今日の新聞は、北朝鮮の「水爆実験」の記事がほとんどである。しかしボクは、北朝鮮の「水爆実験」が成功(?)したとは思っていない。はたしてそれだけの技術力があるのか疑問だからでもある。

 しかしとにかく北朝鮮は、核保有国と国際的に認知されたいのである。それが嘘であっても、である。

 以前、某出版社の仕事で、戦後の韓国、北朝鮮の歴史を調べたことがある。もう5年以上前に原稿を渡しているからどうなったのかはわからないが(もし出版されるとするなら、買い足さなければならない代物だ)、北朝鮮の国際関係を調べていて、とにかく国際的にはほとんど無視されても仕方がない、それこそ小国であり、また問題を多く抱えている国家が、国際的に認知されること、とくにアメリカに対してその存在を認知させようとする並々ならぬ努力で一貫している、というのが感想であった。石油もなく、地政学的にも無視されても仕方がない国が、アメリカに対してその存在を必死にアピールする、それが北朝鮮の外交政策である。その原動力になっているのが、「金王朝」を存続させることである。

 朝鮮戦争でアメリカと戦争し、その戦争は「休戦」しているだけであって、講和条約が結ばれたわけではなく、いまだその戦争は終わっていないのだ。朝鮮戦争の際には、北朝鮮にはソ連や中国があった。しかしソ連は崩壊し、中国は北朝鮮を積極的に支えてくれるわけではない。いわば孤立無援である。その北朝鮮が、落日期にあるとはいえいまだ大国であるアメリカと交渉しなければならない、下手をするとイラクやリビアのように軍事的に崩壊させられるかもしれないという恐怖の対象であるアメリカと交渉しなければならないのである。

 アメリカに対して、「俺たちを無視するな、俺たちは強いんだぞ」と強がりを言える根拠と言ったら、それこそ「核保有国」であることしかない。通常兵器をいくらもっていても、やはり「核兵器」をもたないと「対等」には扱ってもらえない。

 ちなみにこの考えは、日本の支配層も共有しているのであって、みずからを「強国」と国際的に認知してもらいたい彼らは、核兵器を持てないが故に原発と、そしてすぐに核兵器がつくることができるのだというアピールを国際的に発していたいのである。みずからを国際的に「大国」ではなく、「小国」と位置づけるようにすれば、問題は片付くのに・・・だからこそ、今年は日本の小国主義化を訴えていきたいと考えている。  

 
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2016-01-06 11:25:58 | 
 昨日書庫から、明治文学全集のうち、『明治社会主義文学集』の一、二をもってきた。日本近代に於ける「非戦」、「小国主義」について跡づけていこうという魂胆だ。

 今日、『パンとペン』の文庫本が届けられた。この本は買って読んであったのだが、某にあげてしまった。某は読んでいるのかしらん。堺利彦など明治の社会主義者について勉強する一環である。その延長線上に、大杉栄、伊藤野枝を視野に入れている。ぱる出版から今発売されているもっとも新しい『大杉栄全集』を購入している関係で、この全集を活かさないわけにはいかないからだ。今秋の講座でも、大杉を取り上げるつもりだ。

 さて、『パンとペン』とともに届けられたのが、『現代思想』臨時増刊号、特集は「パリ襲撃事件 新しい〈戦争〉の行方」である。鵜飼哲、板垣雄三の二氏の論文を読んだだけだが、これは買いである。世界の動きに関心を抱いている人士はこれを読まなければならない。1400円+悪税である。

 昨秋からの「戦争法」に関しても、安倍政権など日本国内だけの視点、あるいは日米関係の視点からだけではなく、まさに世界史的視点から考えていくための材料が記されている。

 世界は動いている、その世界をどう了解するのか、現在の情勢は、世界との複雑な連関の下にある。その一端に触れることができる本だ。

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奨学金

2016-01-06 08:52:50 | 政治
 日本の社会は、耐えることに慣れている人が多いように思える。「自己責任」ということばが大手を振っているように、貧しい家庭の子どもは貧しさに耐えながら、貧しさを引きずって生きていくことしかないと思わされているように思う。

 東京では、月50~250万円の家賃の賃貸マンションが不足しているという話を、この正月聞いた。ふつうの人びとは、家賃にそんなカネをつかえない。日本の格差は、ほんとうに拡大し、中層の一部が経済的上層に上昇し、中層の多くが下層へと剥落するという状況が続いているようだ。

 『中日新聞』(『東京新聞』)が、「新貧乏物語」の連載で、日本学生支援機構の奨学金を扱っている。同機構の奨学金は、往時の悪質サラ金と同じだ。少なくとも、同機構の奨学金はすべて無利子にすべきである。利子をつけるということは、貧しい学生にカネを貸してそれで利益を得るということである。

 これでは、ある種の「貧困ビジネス」である。

 大学卒業時に数百万から一千万余の借金を背負わせるなんて、酷だと思わないか。

 「自己責任」は、日本人のなかにある「やっかみ」をうまく利用し、日本国民を分断するためにつかわれている。

 福島の原発被害者らに、当然のように東電からカネがでる。当たり前ではないか。しかしそれをもらっていることを「やっかむ」。公務員の給料が高いといって攻撃する。公務員の給与は、その地域の平均的な水準でもある。公務員の給与が下げられれば、当該地域の賃金水準も下がっていく。

 相互の庶民の生活に寛容となり、庶民ではない支配層に対して手を取り合って抗議していく、そういう姿はなくなっている。「やっかみ」や「自己責任」が大きな力をもつ時代というのは、支配層の力が強いときでもある。

 しかし、その影で、たくさんの人が泣く。今日の慶應大の女子大生の生活には、嘆息しか出ない。日本は若者を、庶民を大切にしない。

 
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「使い捨て」

2016-01-05 17:07:00 | 社会
 昨年行われた保阪正康氏の講演、そのテープ起こしをやっている。保阪氏も当然、安倍の戦争政策には反対だ。講演の最初、そして途中でも、安倍の政策が引き起こす危険を指摘する。

 安倍が目論んでいるのは、戦争準備態勢の確立だ。戦争準備態勢というのは、戦争が起きたときすぐに軍のリーダーが主導権を握る態勢を準備するということになる。そうすると、平時の価値観が一掃され、戦時の価値観が支配的となる、戦争に勝つためにはそうせざるを得ないというわけだ。

 保阪氏は、その点に注意を喚起する。

 保阪氏はいろいろな例を挙げるのだが、たとえば8月6日ヒロシマで原爆が投下される。投下後、近在の旧制中学や高等女学校の生徒たちが広島市内に動員され、死体の片付けなどの仕事を担う。もちろん被曝する。

 ところが、広島の近くには、海軍兵学校がある。当時は3000人くらいいたそうだ。ところが彼らは動員されない。軍人として養成される彼らには、そのためにかなりのカネが投資されているというのだ。「使い捨て」にはできない・・・

 そして特攻隊。海軍兵学校など軍人を養成する機関に在籍していた者たちは、特攻にはならない。特攻になるのは、学徒兵や少年航空兵だ。「使い捨て」できる人間とできない人間がいる。一般人は「使い捨て」可能だ。

 そうした社会がつくられる、というのだ。軍隊による差別と選別。軍事的な価値が至上価値となる。

 1945年、日本はそうした社会と絶縁したはずだ。ところが、戦争を知らない、日々の鬱屈した情念をもてあましている者たちが、またそういう社会への転換を進めようとしている。

 誰が「使い捨て」の対象となるか。考えるべきだ。



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政治がやってくる

2016-01-04 08:47:10 | 日記
 今年の年賀状をみる。その特徴は、あまり政治に興味関心のなかった方から、このまま行くと日本はどうなってしまうのかという不安が記されていたことだ。

 ボクの年賀状はいつも二種類。ただ単に新年の挨拶を記したもの。これは子どもたちの婚家宛てに投函されるものだ。それ以外は、いつも平和に関する思いを記す。

 政治のことなんかに興味関心を持たずに生きていくことこそ幸せなことはない。政治はある種対立であるから、みずからの生活に対立(摩擦)をつくることになる。日々の生活のなかに、無用な対立や摩擦はないほうがよい。

 しかし第2次安倍政権は、アメリカ帝国、日本の経済界、官界と手を携えて、国民の日々の生活にどんどん入りこんでくる。その一つは税金だ。消費税。消費税は、大衆課税であり、逆累進制の反民主的な税である。庶民からカネを収奪しようという魂胆だ。

 そして対外的な戦闘行動に、日本人を参加させようとする。それはそうだろう。今後経済界は軍需品を輸出していくわけだが、売るためにはその性能を証明しなければならない。他国に売る前に、自衛隊に使用させてその効果を示さなければならないのだ。

 かくて我が国は、軍国主義的な体制へと移行していくことになる。その体制は、すでに各方面で整備されてきている。

 日本人は、かつての戦争で動員されるだけの、そして戦争でムダに死ぬことが求められる存在であったが、再びそうした姿がつくられていく。かつての戦争がそうであったわけだが、それに関してそうした日本をつくりあげた責任者に対する追及がなされてこなかったから、現在その責任者とさまざまにつながっている人びとが政治権力を掌握しているのだから(岸信介の孫が首相であるように)、国民をなめているのであろう。日本は、どんな悪いことをしても、責任が問われることはない、と思っているのだろう。

 「戦後70年」で「戦後」は終わり、2016年からは「戦前」あるいは「戦争直前」となるのであろうか。

 「戦後70年」が終わったからといって、やはりかつての戦争を追及することはしていかなければならない。残念ながら、日本国民はかつての戦争の責任者への追及がされなかったばかりでなく、戦争の実像がいまもって国民の歴史認識、戦争認識として定着していないからだ。

 ボクらは、侵略戦争と植民地支配を内在化させていた大日本帝国の歴史、日本近現代史を常に点検していかなければならない。ヤツらも、その歴史の中から一定の教訓を得ようとしているはずであるから、ボクらもそこから同じ過ちをくり返さないように教訓を得ていかなければならない。

 今年も日本近現代史の真実をめぐる闘争は展開されるだろう。その闘争に、今年もボクは参加していくつもりだ。かつての戦争を引き継ぐ者たちが、政治的にやってくるからだ。



 
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【本】山本義隆『私の1960年代』(金曜日)

2016-01-03 20:55:12 | 近現代史
 将来を嘱望されていた山本義隆。社会や政治、学問のあり方に開眼してしまった彼は、ただ単に学問研究に専念するという道を選ばなかった。もと東大全共闘議長。『朝日ジャーナル』を読んでいたボクのところに、彼の動きは否応なしに入ってきていた。

 しかし学生運動の波が引いていく中で、いつしか彼の名も消えていった。ところが、『磁力と重力の発見』で大佛次郎賞を獲得するなど、突然ボクの視界に入ってきた。そうか予備校の先生をしていたのか。

 予備校には、学生運動をしていた優秀な人たちが、入りこんでいた。その業界だけが、過去のそうした運動経験などを問題にしなかった。彼もそうであったのだ。

 ボクはその本は読んでいないが(『十六世紀文化革命』は読んだ)、やはり出てきたかと思った。とにかくとてつもなく優秀な学者の卵であったから、当たり前だと思った。岩波書店の編集者で会った故吉野源三郎(この人については、ボクが尊敬する人の一人だ。岩波新書の『同時代のこと』はすごい名著であると今も思っている)の娘さんの家庭教師であったということも、吉野の本で知っていた。

 本書は、東大闘争のことだけではなく、日本に於ける科学技術の近代史が記されている。この点でたいへん参考になったことは先ず記しておこう。日本では、科学と技術がセットで欧米から輸入され、その科学技術は資本と軍事によって推進されてきたこと、その際に東大などがその先頭に立ってきたことなどが記述されている。その記述のために、彼はたくさんの本を読み込み、どうせなら『近代日本の科学技術史』として出版したらどうかと思うほどだ。

 本書でボクがもっとも関心を持ったことは、東大闘争がどう収拾されていったのか、ということ、そして彼がその後どういう生き方をしてきたかということである。前者については、実はあまりその関係の本を知らない。
 東大闘争の収拾に関して彼がどう考えているかを読み、あの収拾方法が欺瞞的であったことがよくわかった。

 彼のほうが年齢はずっと上だが、同じ時代の空気を吸っていたので、よくわかる、そして現在の日本社会のあり方に関する思いも同じだ。

 全共闘世代ということばがあるが、確かに1960年代後半から70年代前半は、学生たちが街頭にでたが、しかしそれとて全学生数からすれば少ない。そして街頭に出た学生たちの多くはその後、体制の中にきちんと入りこんでいった。
 この頃の志を持ち続けている人のほうが少ない。

 彼が、まだ志を持ち続けていることがわかっただけでも嬉しい。



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「朝生」のいかがわしさ

2016-01-03 14:40:41 | メディア
 テレビ朝日の「朝まで生テレビ」。ずっと前に一度だけ見たことはあるが、それ以外見たことはない。司会者の田原なる人物の司会のやり方が、あまりに専制的独断的で、見るに値しない番組だと判断したからだ。

 さて12月31日にも放映したようだ。番組の中で、自民党の区会議員が鉄工業経営者として意見を開陳したようだ。自民党の区会議員という肩書きをいっさい出さないで。

 さてその区会議員。以前からも出演していたそうだ。テレ朝のディレクターと昔から懇意にしていて、その関係からの出演だったそうだ。

 区会議員が自民党議員であることを隠して出演し、意見を表明したことが問題とされているが、テレ朝のディレクターの行動に問題があるのではないか。 


 まあ「朝生」という番組のいかがわしさが露呈したということだ。みなさん、見るのはやめよう。

http://buzzap.jp/news/20160103-omori-akihiko-asanama/
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奨学金

2016-01-03 09:24:33 | 政治
 今日の『中日新聞』に奨学金の記事があった。大学への進学が5割ということで、経済的に豊かでない家庭の子どもが大学へ進学している。日本の大学の学費は、私学はもとより、国公立でもなかなかに高い。今後は、文科省の方針で、学費を国公立大学も私学並みにあげていくようだ。となると、豊かでない家庭の子どもたちは、さらに多くの借金を抱えることになる。

 日本学生支援機構の奨学金には、無利子と有利子とがある。無利子の奨学金受給者は、有利子に比べると少ない。

 高等学校では、機構の奨学金を受ける希望をもつ高校生の申請を手伝っている。その際、親の経済状況などを資料として添付する。もちろんほとんどの高校生は、無利子を申請し、もし無利子の奨学金が取れない場合を考えて有利子のそれも申請する。

 どちらの奨学金を支給するかの判断は、学生支援機構が行う。ところが、その結果を見ると、なぜこの高校生が無利子ではなく有利子なのか、その判断に疑問を持つことがある。機構では、あまりきちんと精査しないで、適当に決めているのではないか。

 以前中国からの留学生の世話をしたことがあった。留学生は、日本にある奨学金を片っ端から調べ、そのなかから返済義務のない奨学金をさがし出して、うまい具合にそれを受給していた。

 奨学金といえば、日本学生支援機構の奨学金が代表的であるが、その奨学金は「学生支援」になっていない。逆に学生の未来を閉ざす役割を果たしているように思う。大学卒業時に、400万円から1000万円の借金を抱え、正社員でさえも低賃金という若者から返済させるというのは、あまりに酷である。

 日本は「豊かな国」とされていても、高等教育(全てのレベルの教育も)への国庫からの支出はあまりに少なく、また返済義務のない奨学金制度をもたない、驚くべき国家である。

 ボクは、多くの若者、いや返済している中年の人びとを苦しめている日本の政治に対する怒りが、あまりに少ないことを嘆く。

 来年度の予算でも、軍事費やアメリカ軍への「思いやり予算」などが増えている。あるいは大企業への補助金もかなり多い。

 我慢ばかりするのが「美徳」ではないのだ。



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片づけ

2016-01-02 10:39:54 | 日記
 今日わが家に従姉が訪ねてくるという連絡ありて、朝から片付けに奮闘せり。とにかくわが家は、本がわが部屋はもとより、あらゆるところに散在し、おそらく山辺健太郎の家もそうであっただろうと思われるほどの散らかりよう。

 31日に、わが部屋の本は分類して袋に詰め込んだりしも、それ以外のところにある本整理を待っている始末なり。

 『世界』という雑誌など、毎月買っている雑誌はなかなかの場所を占めおりしに、而して捨つるあたわず。今まで、この本はもう読むことなしと思いたりて廃品回収の箱に捨て去りし本の類、後になって必要となりしことままありて、捨つる決心つかずただただ溜まるのみ。

 いずれの時にか読まんと思いて買いおりし本、無数にあり。これとて我が輩のみならず、町田の住人にもあてはまれり。町田の住人は退職後に読まんと思い立ちてマルクスエンゲルス全集を購入、而して未だ段ボール箱を開きもせずにあると聞きし。

 「全集」なるもの、発売時には高くとも、本を買う、読む人どんどん減少しつつ在りしためか、古本屋にてもタダ同然の価格にて引き取りし。ために古書で「全集」を買い求めんとするや、その安きに驚けり。

 昔、我が輩が子どもなりし頃、いずこの家にても、大部の百科事典並びおりし。しかして今や、居並ぶ本なぞ見ることもなく、ただ大きなテレビだけが鎮座するのみ。

 時代の変転を、我が輩は慨嘆する。
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【本】『堺利彦伝』(中公文庫)

2016-01-01 20:04:11 | 
 ずっと以前に購入してあった。今日、2016年元旦に読む。今年は近代日本史に「非戦」を探らんとす。

 堺は社会主義者なり。しかしこの自伝にはそこまでは書かれて居らず。堺は豊前に生まる。士族の子なり。貧乏士族出身のひとりであるが、維新期の士族の子弟に見られる如く、彼らに教育を受けさせるべく家族縁者らが大いに奮闘せり。「立身出世」こそが目的なりき。

 堺も上京し、第一高等中学校に進学するも、ほどなく酒色に溺れ、カネというカネをつぎ込み、ついに放校となりき。かくて田舎に帰りしも、維新後の貧乏士族の面々は田舎に生き続けられず、家族共々大阪に出る。
 
 そこでまず教員となりき。しかし酒色は堺を離さざりき。かくて教員をやめ、雑文家となり、さらに兄の助力も得て新聞記者へ。しかして酒色は彼から離れることなく、また人間関係などで次々と社を変え、福岡、大阪を変転し、新聞記者をやめ毛利家の編輯所に入り、何と『防長回天史』編纂に関わる。この頃には結婚し放蕩からも脱し、その後『万朝報』に入る。

 この自伝は、ここまで。ここまでは社会主義の「社」の字もなく、無鉄砲な自由人でしかない。この後については、他書に依存せざるを得ない。

 この放蕩まみれの堺、その後の思想の変化を追わなければならぬ。

**************************************************************
 さて、堺の書いた本は、アマゾンのKindle版にかなりアップされている(ということは「青空文庫」にあるということ)、その他『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』という本は一度読んだが、その後人にあげてしまった。もう一度買わなければ・・・

 近代の思想家を追うことが、今年の課題である。
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音楽

2016-01-01 14:23:56 | 日記
 今ボクは、ベートーベンのヴァイオリン協奏曲を聴きながらこれを書いている。パソコンに安価なスピーカーをつけて聴いているのだが、音質についてはほとんどかまわなかった。生の演奏に比べれば、何をどうしようとあまり変わらないだろうという醒めた気持ちがあったからだ。

 最近、高額なイヤホンを手に入れた。それをつけて聴いてみたら、今まで聴いていた音楽とは思えないほどの重量感、音の厚みを感じた。ここまで技術は進歩したのかと、ただただ驚くばかりであった。

 こういう音を聴いてしまうと、人間は贅沢になるのか、もっとよい音をと思い始めた。


 昨日、ベートーベンの第九を聴いた。指揮者パーヴォ・ヤルヴィについては全く知らなかった。丁寧な曲作り、メリハリのきいた感情豊かな表現に特徴があると思った。

 
 最近音に敏感になってきたせいか、上空を飛ぶ自衛隊機の騒音が気にかかるようになった。自衛隊機の騒音は、まさに騒音そのもので、あってはならない音である。暴走族の諸君のつくりだす音と同じ。

 今日はその騒音はない。ずっとそうであってほしい。


 朝、目が覚めると鳥のさえずりに耳を傾ける。鳥のさえずりは平和の声だ。

 
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非戦の近現代

2016-01-01 13:44:02 | 日記
 昨年、歴史講座で近世から1945年までの歴史を語った。日本の歴史的伝統とは何かを指摘しつつ、日本近代はその伝統からの逸脱であったということを話したのだ。これについては2月にもう一度話す。

 日本の歴史を振り返ると、日本列島に住む住民が海を越えて侵攻していったということはない。神話の時代にはそうした話が記されているが、それが事実であったかどうかを確かめるすべはない。日本列島の住人が海を越えて侵攻した例は、秀吉の朝鮮侵略しかない。もちろん日本列島の中では、争乱は無数にある。だが、対外的な侵攻は、秀吉だけだ。

 秀吉後の江戸幕府は、平和的外交を追求した。朝鮮に対しても和を講じ、朝鮮通信使との外交があった。朝鮮通信使に対しては、幕府の華夷思想により、蔑視的な取扱いはあったようだが、総じて平和的な関係が続いた。

 明が倒れ、清が勃興する華夷変態の際、幕府に対して援軍の要請があったようだが、幕府はそれを断っている。

 また、幕府が唯一ヨーロッパ諸国のなかで外交関係を持ったオランダ。そのオランダは、ヨーロッパ情勢との関係で、平戸を拠点に海賊行為を働いていた。そのオランダの海賊行為をやめさせることによって、幕府はオランダを幕府の秩序の中に取り込んでいった。

 幕末においても、欧米列強が軍事的優位を背景に迫ってきたときも、幕府は、長州や薩摩と異なり、平和的な対応で一貫していた。

 しかしその薩摩・長州が政治権力を掌握したあと、日本の歴史的伝統とは異なり、近代日本国家はその初発から対外的な侵攻を開始した。そしてそれは1945年まで続いた。

 日本の歴史的伝統に、1945年は立ち返ったということになろうか。日本の伝統は「非戦」なのである。

 ところが、安倍政権とそれにつながる自民党と公明党は、その伝統を再び断絶させようとしている。


 ボクは今年2016年、日本の歴史的伝統から逸脱した近現代において、厳しい状況の中で「非戦」を訴えた人びとの主張と生き方を調べ、人びとに伝えていこうと思う。

 昨日、部屋を片づけた。床の上まで散らばった本やコピーの束を、系統的に袋に詰めて、いつでも取り出せるように整理した。そして、今年新しく始める「非戦の近現代」のテーマに基づく袋を用意した。すでに多くの本が用意されている。

 自分自身は、平和のために何ができるか、を考えるとき、10年ほど前までのように、地域で市民運動の中心となってデモや集会を組織することではなく、学問的なことで貢献しようと思う。

 10年ほど前、今もって理由は定かではないが、市民運動の中核から排除された。その時ボクは、「ボクの時代は終わったのだ」と思い込んでみずからを納得させた。最近、10年ほど前までのボクの姿を再現させようと、いろいろな人から声がかかる。そんなとき、排除された頃のことが思い出される。その時に突き刺さったとげは、まだ抜けていない。

 今年の年賀状にも、そうしたものがあった。しかし、とげは突き刺さったままなのだ。


 
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