浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

変わる 変わる

2016-01-18 16:18:20 | 日記
 実家の前を流れている小さな川、子どもの頃、掘ったところを水が流れているといった感じで、そこにはドジョウや、フナ、ニガヒラなどが生息し、夏にはよく魚とりをした。小学校の高学年になってその小川がコンクリートで囲まれるようになった。しばらくはフナもいたが、いつのまにかさかなは消えてしまった。

 今、その小川というか堀というか、すでに下水道が整備されているため水の流れは多くはない(まだ水田があるので農業用水としてつかわれている)その川を、今度は暗渠にするというので工事が行われている。

 その小川が道路を横断しているため、道路を掘り返していたところ、そこから材木がでてきた。おそらくずっと昔に埋められたものだろう。水分が多いところなので、それに守られて残されてきたのだろう。

 明日か明後日、家に入るときに渡った橋も壊される。ボクが幼い頃から渡っていた橋だ。

 車で走っていると、更地になっているところを発見する。それまでそこに何があったのかを思い出そうとするが、なかなか思い出せない。そういうところがいくつもある。

 20年くらい前、イギリスのエジンバラに行ったことがある。ロンドンから飛行機で行ったのだが、エジンバラの街に向かって降下していくとき、ボクは子どもの頃読んだ絵本を思い出していた。そこに描かれていた世界がそのまま残っていた。

 しかし日本は、どんどん変わっていく。変わることがあるべき姿であるというように、変わる、変わる。

 しかし、変わることがよいことなのかどうか、きっちり吟味するべきではないかと思う。平和な日常を生きていくことができるそういう状況は、維持されなければならない。

 今月号の『世界』に、沖縄の先島諸島における自衛隊の基地建設のルポが掲載されている。今まで軍事基地のなかったところに基地が建設される、もとは牧場だったり、ゴルフ場だったりしたところだ。そこにコンクリートの基地がつくられる。それらの地域は、大きく変わるはずだ。

 自治体の首長は、政府から多額のカネが落ちると歓びを隠さない。またそこに住む住民たちの一部も、そのカネに期待する。

 そんなにカネが欲しいのか!といいたくなるときもある。

 人は、理念よりも目の前のカネを欲しがる。そういう姿が、日本のどこでも見られる。確かにカネはばらまかれるが、そこには軍事基地や原発が立地する。

 カネよりも、貧しくとも平和な日常を生きていくことができればいいと思わないのか。カネの魔力が人びとを狂わせてきた歴史を思い起こすと、そうもいかないのかと思う。

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新国立競技場は建設できるか

2016-01-17 23:47:20 | 政治
 『世界』2月号は、「理念なきオリンピック」を特集している。

 そこで例の新国立競技場、ザハ案が捨てられて、隈案が採用されたが、施設規模が1割減らされただけで、計画敷地も縮小されず、建物の高さも変わらないという、要は国民から批判されたから変えたけれども、しかし中身は変えないということなのだろう。

 実際、ザハ案と比べて外見だけは変わっているが、中はほとんどザハ案と同じだという。

 それについて、リテラが興味深い記事を載せている。

http://lite-ra.com/2016/01/post-1898.html


 果たして、新国立競技場は建設できるのか。
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佐多稲子

2016-01-17 17:57:30 | 日記
 昨日今日はセンター試験だ。今日の新聞に昨日行われた試験問題が掲載されていた。「国語」という科目なのか定かではないが、小説として佐多稲子のそれがあった。

 佐多稲子はプロレタリア文学者であった。佐多は、姉の卒論が佐多稲子だったこともあって、彼女の本がたくさんあったのでほとんどを読んだことを記憶している。小説には社会性もあり、また女性らしい文体だと感じた覚えもある。

 センター試験に掲載された小説は、「三等車」である。昔の国鉄は、一等車から三等車まであった。一等車は、いうまでもなく今のグリーン車である。三等車は、したがって庶民が乗る。

 その庶民の乗る三等車で見たこと、体験したことを、佐多は記したのだろう。
 みずからも庶民であるという自覚をもっている佐多は、そこに乗ってきた親子連れの姿を描くのだが、彼らをみる視線は優しく暖かく、親子連れの姿を通して、その時代の庶民の生活を浮き彫りにする。また見送りに来た父親のがとるであろう行動や心境をも予測する。

 とても狭いところで起きた一コマを描いたこの作品は、さすがにプロレタリア文学者らしく、時代の相を描き出している。さらにそこに析出された庶民の日常をも推測させる。「貧困」。「貧困」により、家族が一緒に生活できないという現実。母子は遠く鹿児島まで行くのだ。三等車に乗って。

 佐多の作品には、余韻がある。父親のいない生活が鹿児島で、また始まるのだ。少年にとって、父親のいない生活はいかがなものだろう。

 人生はその後も続くから、その後の人生に思いを馳せる。その後の人生に幸多かれと思いながら、「三等車」を読み終えた。

 佐多の作品が採用されたことにうれしさを感じる。佐多の作品を、もう一度、読んでみようかなと思う。

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テレビメディアの「自殺」

2016-01-17 15:07:21 | メディア
 2016年は、テレビメディアが「自殺」した年として記憶されるだろう。新聞であろうとテレビであろうと、ジャーナリズムの本質は権力監視である。しかし、テレビメディアはジャーナリズムの世界から去り、現在は残されているスポット的な番組しかない。「報道ステーション」であり、「NewS23」であるが、今年の4月から、それらは大きく変わる。前者では、古舘が去り、後者からは岸井が去る。

 テレビメディアに残されてたスポット的なジャーナリズムがなくなれば、テレビはもはや見るに値しないものと化す。

 NHK、日本テレビ系列、フジテレビ系列のニュース番組は、すでにアベ政権の支配下入り、そしてテレ朝、TBSもその軍門に降る。

 日本のテレビメディアの北朝鮮化は止まるところを知らない。

 ファシズム国家への変転の完成時期が近づいている。もはや日本の未来には、暗雲が待つ。

http://lite-ra.com/2015/11/post-1733.html
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民間企業、礼賛の政治

2016-01-17 10:19:16 | 政治
 軽井沢でのバス転落事故は、未来のある若者の命を、無残にも奪い去ってしまった。本当に痛ましく、悔しい。

 今日の『中日新聞』一面は、この事故に関連して、バス会社イーヱスビーは運転者の健康管理の確認をせず、旅行を企画したキースツアーは法定運賃は27万円以上を支払わなければならないのに、同バス会社は19万円で請けたということだ。また運行指示書には、発着点しか記されていなかったという。

 何という杜撰な会社であることか。事故の二日前の13日には、行政処分さえ受けている。運転手に健康診断を受けさせていなかったことなどから行われたその行政処分も、所有しているバスの一台だけの運行停止で、それでは「処分」にはなっていないだろう。

 この事件について、行政の責任が大きいといわざるをえない。こういういい加減なバス会社による事故は今までにも起きている。「規制緩和」で、多くの民間企業が参入し、過当競争の中で価格が下落し、同時に安全がどこかへ消えていった。そういう事故が起きても起きても、実効ある規制を行政は行ってこなかった。何人が死ねば実効ある規制をするのか。

 民間企業は「合理的な」経営をするからといって、自治体などがおこなってきた業務を「民間委託」や「アウトソーシング」などといって、外部(民間企業)へ放出してきた。その結果、低賃金の非正規労働者を増やしてきた。その背景にある考え方は、民間企業を「善」、あるいは礼賛する思想だ。
 民間企業の経営の原動力は、カネである。カネのためには何でもする。規制がなければ、民間企業は悪魔となってかねもうけにはしるということだ。しかし新自由主義は「規制緩和」という規制撤廃で、「民間企業」を野放しにしてきたのだ。
 
 CoCo壱番屋の廃棄食品を受け入れた「ダイコー」という産廃処理業者が、それを食品として流通させていたことが明るみになった。「ダイコー」から食品を受け入れていた食品卸売業「みのりフーズ」の代表者は、「これだけですか」という記者の質問に「そうだ」といいながら、他にも受け入れていたことがわかった。平気で不正を働き、ウソもつく、そういう輩が「民間企業」として事業を行っているのだ。

 資本主義にはそれこそ倫理が求められる。アダムスミスが『道徳感情論』を書いたのもそういう点を危惧したからだろうが、しかし倫理や道徳を、「民間企業」の経営者がもっているわけではないことが、これらの事例でも明確に示されている。何度も何度も、そうした事例が報道されている。

 行政は、規制緩和ではなく、規制の強化に、それも実効ある規制を強化すべきである。

 民間企業については、「性善説」ではなく、「性悪説」にたって対処すべきである。

 バス転落事故で亡くなられた方々、そしてその家族の皆さんの悲しみを思うと、怒りが湧いてくる。

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「規制緩和」

2016-01-15 14:20:21 | その他
 「格安スキーツアー」に参加した若者たちに、バスの転落事故で死傷者がたくさんでたという。

 長距離バスが事故を起こすことが多い。いずれも「規制緩和」という名の下に参入してきた会社が事故を起こす。事故を起こしたイーエスピーというバス会社、警備事業を行っていた会社がバス事業にも参入した。会社設立は2008年、代表取締役は橋美作、資本金300万円だそうだ。そしてバス事業へは2014年5月から始めたという。

 ツアーを企画した会社は、株式会社キースツアーという。格安のスキーツアーを売っていたそうだ。

 格安だと、格安で運行してくれるバス会社をつかう。そういうバス会社は、安く請けるから、おそらく従業員の待遇もよくないだろう。そういうことが事故につながる。

 「安かろう、悪かろう」はその通りであって、何でも適正料金というものがある。安いということは危険を買うということでもある。

 良いものを適正な価格で購入することが身を守る。

 しかし、現在のような、格差社会で、ある程度の所得をもつ人びとと同じような生活を享受するためには、このような格安ツアーをつかわざるを得ないのだろう。
 このバスツアー、学生をはじめとした若者が参加している。若者の給与は低く、また学生はアルバイトに精を出して、はじめて人並みの学生生活を享受できる。格安なスキーツアーに参加せざるを得ない、という状況がつくられている。

 長距離バスや、こうしたツアーバスを利用するのは若者たちだ。また未来をもった若者たちを殺してしまった。
 「規制緩和」という、きちんとした会社じゃなくてもバスの運行ができるようにしたことに、大きな間違いがある。

 人びとの生活を守るためには、規制は絶対に必要だ。しかし自民党・公明党政権は、「規制緩和」を推進する新自由主義的な経済政策を展開している。それに歯止めをかけなければならない。ちなみに、民主党も新自由主義的な政策を行う政党である。
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控え居ろう!スポーツが通るぞ

2016-01-15 09:12:02 | その他
 スポーツというとどんどんカネが出る。それは国でも県でも同じ。

 静岡県はスポーツ局を新設するという。スポーツにカネをどんどん投入するつもりなのだろう。「スポーツ王国しずおか」をめざすのだそうだ。
 静岡県は、部活天国である。中学校に入ると、子どもたちはスポーツ関係の部活に入る。その理由、スポーツ関係の部活動に入ると高校受験に有利だという根拠もない噂に基づいている。朝から晩までスポーツに汗を流し、そこで上意下達の人間関係をきっちりと仕込まれる。部活動の中身を見ると、先生、上級生の指導には、ただはいはいと従う。そういう人間関係がたたき込まれる。
 高校に入ると、すでに部活動は教育課程上必修ではなくなっているのに、全員加入が義務づけられる。その理由は簡単だ、カネ。生徒会費、PTA会費、後援会費のほとんどは、スポーツ系の部活動に投入される。全員が文化部を含めて部活動に入っていないと、そうしたカネをスポーツ系に投下できない。文化部系部活の生徒のカネは、ある意味収奪されているといってもよいだろう。
 スポーツ系の部活動に入っている子どもは、本など読まない。授業だって満足に受けない。部活動のために学校に来ているからだ。文化とはほど遠い青春を送る。学校もそうした子どもたちの生活を支える。なぜなら、入試の際にスポーツに長けている子どもは、成績が悪くとも別枠で入学させるからだ。こうしたシステムは、静岡県のほとんどの高校で取り入れられている。
 そしてそういうシステムは、大学でも採用している。

 さてそういうスポーツを支えている組織に、JSCがある。日本スポーツ振興センター。2020年の東京五輪・パラリンピックの主会場となる新国立競技場の事業主体でもある。新国立競技場の騒動だけではなく、その日本スポーツ振興センターは不祥事(JSC)に覆われている。
 2010年度から11年度にかけて44件(約185億6500万円)の不適切な会計処理があった。2012~14年度に47件(約49億4000万円)の不適切な会計処理があったことがすでに指摘されていて、ずさんな処理は5年間でなんと約235億円。

 スポーツとカネの問題は、ずっと以前から指摘されているし、そこは汚職などの源泉となっている。とにかくスポーツはカネがかかる。ユニフォーム、スポーツ用具などの代金、対外試合や遠征のための交通費、宿泊費など、貧しい子どもはスポーツ系の部活動から閉め出される。
 またそこにリベートが介在することもあるという。
 
 いずれにしても、スポーツは金食い虫だ。カネにまみれたスポーツには不祥事が絶えない。

 「JSCがザハ氏に口止め依頼…新国立競技場問題」という記事もある。
http://www.hochi.co.jp/topics/20160114-OHT1T50110.html

 スポーツは、人びとに感動も与えるからこそ、身辺をもっときれいにすべきである。
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【本】高村薫『空海』(新潮社)

2016-01-14 09:34:06 | 
 ふむふむ、高村薫という人には、今のところ、煩悶とか、人生の悩みとかはないということがわかる。高村は、合理的な、理性的な考え方をする人であろう。
 普通、宗教に関する本というのは、行きつ戻りつ、文体がねちっこいものが多い。しかし、本書には、それがいささかもない。

 空海は真言宗の開祖である。宗教者である。宗教者は、本書で指摘されているように、非合理的な、神秘的な面をもつ。そういうところから、信者を獲得するのであるが、高村にはそれはあくまでも対象でしかない。つまり、高村は、宗教を内在的にみることができない。
 だからある意味で本書は、学術的な内容をもつ。

 空海の真言宗、高野山、真言宗にまつわるもろもろのことは、客観的なことばで説明されていく。もちろん中には仏教用語もあり、ボクのような凡人には理解できないことも多々あったが、しかしそれでも、空海という人物、高野山の盛衰、天台宗との対比の中の真言宗の内容などが、おぼろげながら理解できたように思える。

 空海といえば、四国巡礼が有名で、「同行二人」という空海とともに歩くということだろうが、多くの苦悩を抱える人びとを集めている。

 ボクの知人も二人、これをやった。ひとりは大学卒業後ずっと某社に勤務し、最後は取締役にまでなった。その間、毎晩のように飲み歩いていたのに、退職後、なぜか連絡が来なくなった。すると、僧になるために某寺に修行に入ったというのだ。その前に、四国巡礼を敢行していた。
 もう一人は大学卒業後教員となり、最後は校長になった。若い頃は「左翼」的な言辞を吐いていたが、決して管理職とは対立せず、なかなか上手に立ち回っていた人物だ。その彼も、四国に行った。

 今日の巡礼は、「自分の所在を納得するための手続き」(139頁)とある。なるほど彼らは、職を離れて、「自分の所在」を見失ったのだろう。組織の中の自分自身だけがあって、「個」はなかったのだ。退職して、その「組織」が消えると同時に、「自分自身」も消えたのだ。「組織・内・存在」としてしか、生きてこられなかったのだ。

 ともあれ、空海をはじめとした真言宗に関わるもろもろのことを知るために適切な本だと言えよう。
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suzuki の現状

2016-01-14 08:48:06 | 社会
 今日の『中日新聞』の「静岡けいざい」蘭に、スズキ会長・鈴木修のインタビュー記事がある。その中にこういう発言があった。

 軽自動車を購入しているのは、中小零細や比較的所得の少ない人が多い。

 軽自動車は自動車税が低いから維持費は普通車と比較してあまりかからないかもしれない。確かに「所得の少ない人」は、どうしても車が必要な場合、軽自動車しか買えない。しかし、とはいえ軽自動車の価格は安くはない。
 だから、スズキ会長も、

 カーオブザイヤーを2年連続で受賞した・・しかし・・国内営業が伸び悩んだ。この10年で販売力が低落していた。

 と語る。スズキの軽自動車の売れ行きがよくないようなのだ。それは、「比較的所得の少ない人」が、軽自動車も買えなくなった、ということではないのか。

 売れないとなると、生産も縮小される。そこで働く労働者は海外工場やスズキ自販に行くことになるそうだ。もちろん2交代もなくなるから、昼間だけの仕事になるが、すると正規社員でも生活できなくなるという。スズキの社員は、2交代制があるからこそ、その手当に依存して生活できているからだ。
 そしてそうであっても、スズキの社員は、スズキの車を買わなければならない。

 スズキ会長は、「春闘」に関する問いに対してこう答える。

賃上げはまだわからない。定期昇給は何らかの形でやらなければならないが、プラスアルファは難しい。・・・物価が高くなっているという実感はほとんどないので、実質賃金の目減りはあまり感じないんじゃないか。

 要するに、賃上げは、定期昇給以外はやらない、ということなのだろう。すると下請けも同じようになる。かくて労働者の賃金はあがらず、かくて軽自動車も売れない。

 大企業みずからが、マイナスのスパイラルに誘っているようだ。

 スズキも、もはや自称浜松の「町工場」ではなく、「無国籍企業」として、インドをはじめ儲けられるところで生産する企業と化している。

 かくてこの地方の労働者は捨てられる。契約社員の契約が打ち切られたように。
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「音と、声と、匂い」

2016-01-13 09:04:31 | 日記
 「音と、声と、匂い」。これは藤本としさんに残されている感覚である。藤本さんはライ病者であった。あったというのは二重の意味だ。一つは、もう藤本さんはこの世にいないということ、もう一つはかつてハンセン病を患ったが後年はその後遺症があった、ということだ。

 藤本さんには触覚がない。ただ残されている触覚は、舌のそれであった。その舌で本(点字)を読み、それが何であるかを感得していた。

 藤本さんは、随筆家であった。彼女が書いたものを読むと、淡々と記されているその文に、思いがけない珠玉の文を見つける。

 藤本さんは聴覚、嗅覚をフル活用する。何らかの物に「出会った」とき、藤本さんはその物を打って音を聞く。すると、その物が何であるかを知るのである。藤本さんはこう記している。
 
 「これ何製なの・・・」と聞いてしまえば楽である。けれど・・・、これではあまりに自分が空しい。おかしなことでも馬鹿げていても、自分で理解し得たこの歓びには、少しばかり誇らかなものさえ加わって、ほのぼの身内がぬくくなる。生きているのだと、そう思えてくる。これが明日へつながる力になるのだ。

 何ごともみずから理解する、その歓びが生きていることを感じ、明日へつながるのだ。

 藤本さんは、みずからの人生を語った。それが「地面の底が抜けたんです」である。

 そこで藤本さんは「死に切る」ということについて語っている。

 死に切るというのは、まあ、言ってしまえば、苦しさであれ、悲しさであれ、徹底してひきうけるってことですかねえ。逃げきれるものなら逃げますけれども、もう、どっちむいたってどうせ苦労なんですもの、同じ苦労なら、いやいややったってしかたがないんです。それまでを、すっかり捨て切ってしまって、いっそおもしろくやってやろうと・・・そうでなければ、グチだけが残ることになります。だけど、捨てきるっていうのは、なかなかのことじゃありません。

 藤本さんの文を読んでいると、みずからの運命を引き受けて、そこに歓びと希望を作り出している姿が浮かび上がってくる。

 だから「地面の底がぬけたんです」の最後に、こう記すのだ。

闇の中に光を見いだすなんていいますけど、光なんてものは、どこかにあるもんじゃありませんねえ。なにがどんなにつらかろうと、それをきっちり引き受けて、こちらから出かけて行かなきゃいけません。光ってものを捜すんじゃない、自分が光になろうとすることなんです。それが、闇の中に光を見いだすということじゃないでしょうか。

 そして藤本さんは、今なお「光」を発している。

 この本、図書館から借りたものだが、書名は『地面の底がぬけたんです』(ほるぷ、1980年)。
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【本】那須田稔『ぼくらの出航』(木鶏社)

2016-01-12 11:19:01 | 
 那須田稔の本はこれで3冊目だ。やはりいちばんよかったのは、『シラカバと少女』。一つの歴史的情景を切りとった絵画のような作品だった。

 この本も、もちろんよい。場所は「満州」だ。傀儡国家「満州国」が崩壊する時期、ハルビンにいた少年の物語である。支配民族の一員としてハルビンにいた日本人少年のタダシ。中国人少年のヤンと仲良くしていたが、支配民族たる日本人が、「満洲国」時代に、いかに支配民族として君臨していたのか、その一端が示される。こういうときの記憶が今も尚伝えられているから、現在の日本人も対中国に対して「優越意識」をもっているのかと思ってしまう。

 しかし「満洲国」崩壊とともに、タダシの家庭は崩壊。父はシベリアに送られ、母は亡くなってしまう。タダシは生きていくために、中国人の強盗団の一員となり、その後そこから逃げ、中国人、朝鮮人、日本人らの「少年団」の一員として、生きるための闘いに乗り出す。もちろん、混乱期だから、その闘いは平穏なものではなく、不法なこともしばしば行う。

 少年らの交流だけではなく、ソ連兵との交流やその後やってきた中国兵との交流も描かれる。最終的には、中国兵によって「生きるための闘い」から脱出する。

 敗戦とともにタダシは絶望的な状況に追い込まれるが、しかし人間は生きている以上「生きるための闘い」を展開せざるを得ない。そしてその闘いは、絶望的ではあっても、その先にささやかかも知れない希望が常に瞬いている。

 希望というものは、座視していてやってくるのを待つものではなく、生きる意欲を持って生きていく中で、すぐその先にいつもあり続けるもの、そういうものだということが記されているように思う。

 之れも児童文学ではあるが、大人が読んでも面白い。

 なお、「満洲国」建国は、1934年3月ではなく、1932年3月である。フィクションだからそれでもよいが、特定の時代背景をもったストーリーの場合、そうしたものは正確でなければいけないと思う。


 
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NHKの「アベ政権放送化」

2016-01-10 21:49:59 | メディア
 NHKの7時のニュースを時々見るが、アベの出番が多いし、内容もアベ政権の広報機関化しているとしか思えない内容だ。

 しかしその後の「クローズアップ現代」は、見るに値する内容だった。それがなくなってしまうというのだ。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushimahiroaki/20160110-00053282/
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詐欺師まがいの電力会社

2016-01-10 21:41:29 | 社会
 これを読んで欲しい、何という国か、此の国は。

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-4516.html
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富士山の雪

2016-01-10 21:18:03 | 日記
 毎年この季節になると、富士山には雪が積もり、少なくとも三分の一くらいは白くなっているはずなのに、今年は山頂部から白い雪の筋があるだけで、白に覆われていない。富士山が暖冬を象徴してるようだ。

 今日と昨日は富士市に行った。いつものように第2東名を往復した。第2東名は走りやすく、ほとんど疲れない。
 ほぼ10時から17時まで仕事をするのだが、ほとんど座っているので疲れてしまう。

 さて昨日は、帰宅して「報道特集」を見た。特集は北朝鮮の「水爆実験」とシリア難民についてだ。

 北朝鮮は、とにかくセールスポイントがない。世界に衝撃を与えることができるのは、ただ一つ「核実験」だけだ。それだけで世界、とくにアメリカにアピールしようとしている。先日の「核実験」は、しかし中国を意識したものだという意見を聞いた。そうかもしれない、いずれにしても北朝鮮という国は、こういう危ない軍事的な冒険しか、大国に対する「武器」はないのだ。もし本当に軍事衝突すれば、金王朝は崩壊するから、それはしないだろう。「ボクってこんなすごい武器もっているんだから、もっと尊重してよ」というのが、北朝鮮のスタンスだろう。

 次にシリア問題。ボクはシリアの問題を考えるとき、基本的にアメリカがすべての元凶だと思っているから、アメリカが責任を負うべきだと思う。シリア・アサド政権については、欧米やサウジ家による独裁国家であるサウジアラビアなどが嫌っていて、一緒になってアサド政権を倒そうと画策してきた。その結果の混乱であって、本来、他国はシリアに干渉、軍事的な干渉をすべきではないのだ。軍事的干渉をした国家はすべて責任をとって、難民を受け入れなさい、といいたい。ところが、そうでない国に難民は押し寄せている。

 「報道特集」では、レバノンに逃れた難民キャンプの映像が流された。通訳をしていたのは重信メイさんのようだったが、難民の子どもは、とても寒いのに薄着で裸足だった。それに冷たい雨の中、裸足で溜まった雨水につかっていた。何ということだ。

 日本では、デパートやイオンモールなど、服が過剰に並べられている。あるいは家でも、もう着なくなった服がある。そういうものを送ってあげたいという気持ちが湧いてきた。ボクは「国境なき医師団」や「UNICEF」、ペシャワール会にボクにとっての多額の援助をしているが、シリア難民キャンプにも何かを送りたくなった。

 日本国憲法前文のこの部分が好きだ。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


 「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」し、私たち「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓」っているのである。

 世界の困窮する人びとに手をさしのべることは、世界平和を実現する手段にもなる。日本国民は理想を達成するために奮闘しなければならないのである。

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メディアの降伏

2016-01-08 15:39:20 | メディア
 安倍政権にとって「毒」となるような番組は、許さないという強権的な動きが強まっている。「報道ステーション」の古舘、「NewS23」の岸井、そしてNHKの国谷さん、今年の3月で降板だという。

http://www.huffingtonpost.jp/2016/01/07/nhk-hiroko-nikuya_n_8935522.html?utm_hp_ref=japan

 いよいよ日本の北朝鮮化が始まる。今後のテレビニュースは、元気のよいオバサンが、政府発表をそのまま大げさな話し方で報じ、また街角インタビューでは、安倍政権を礼賛する人たちが力強く、アベさまは素晴らしいというようになるのだろう。

 そういう日本にしてよいのか。


 いずれにしても、テレビの報道番組で、政治権力と距離を取る番組は、一掃されるようだ。



 
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