浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

テレビなんて見ないよ

2017-03-26 21:17:39 | その他
 テレビなんて見ない。だってアホ番組ばっかりだから。私の家にはテレビはない。見たいものは実家で録画しておき、それを見る。見るのは、「報道特集」と「相棒」、「ドクターX」。録画だから、CMになると早送り。CMはすっ飛ばすのだ。

 そしたら、「東洋経済オンライン」で、「テレビに視聴者がうんざりしている真の理由」という記事。その通りだと思いながら読んでいったら、その後につづくコメントが大量で、ほんとうに多くの人々がテレビ離れしていることがわかる。テレビなんか見なくても、ネットでみれば・・・というコメントがあった。

 新聞購読者が減った背景に、ひょっとしたら、テレビがつまらなくなっていることもあるのかもしれない。

http://toyokeizai.net/articles/-/164518
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安倍夫人のコメントは官僚の作文

2017-03-26 20:52:42 | その他
 郷原氏が、きちんと分析されている。

http://www.huffingtonpost.jp/nobuo-gohara/akie-facebook_b_15612780.html?utm_hp_ref=japan

『日刊ゲンダイ』の記事も、読む価値あり。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/202252

 そして、夫人元秘書は、アフリカへ?

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/202237
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森友問題

2017-03-26 08:23:14 | その他
 おそらくこの問題は、安倍夫妻がしらを切り通して終わっていくのではないかと思う。官僚たちが必死で支えているのだろう。

http://buzzap.jp/news/20170324-abe-akie-facebok/

 テレビでは、醜いほどの安倍応援団のコメントが出現しているが、ウルトラ右翼の利益共同体は「トカゲのしっぽ切り」で歩調をあわせる。その共同体から同じように切り捨てられないように。

 安倍夫人のもと秘書が責任転嫁されている。これも切り捨て。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170325-01797391-nksports-soci&pos=1
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パン屋はダメ、和菓子でないと

2017-03-25 23:27:13 | その他
 何とまあ狭量な人たちが教科書を検定していますね。

 安倍政権がやることは、大人げないことが多い。自分たちの知性や感性の貧しさを露骨に示してきている。

 「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」と「学習指導要領」に書いてあるから、パン屋ではなく和菓子屋にしなさいだって。

 『朝日新聞』記事

 それに対して、ふつうの知性や感性をもっている方々が、よい批判を繰り広げている。

「えっ!いま戦時中?!」 道徳教科書「パン屋→和菓子屋」問題、ネット上で高まる批判

https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/fahrenheit451?utm_term=.gw1a4JYRX#.stPOWQVlB
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寒い日が続く

2017-03-25 22:48:22 | その他
 寒い日が続く。3月下旬、こんなに寒かったか、と思うくらい朝晩は冷える。石油ストーブが大活躍だ。

 そろそろ夏野菜の種まきの時期で、培養土に種を蒔き、一部は保温用のビニールをかけているが、それでも寒いようでなかなか芽が出ない。庭の花も、なかなか咲かない。水仙が咲き、ネモフィラがやっと咲き始めた。昨年はもっと早かったように思う。チューリップの茎が伸びてきているが、いまだ咲かず。花壇にはネモフィラとストロベリートーチを植えてあるが、後者の方は大きくはなってきたが咲く気配はない。ネモフィラの青と、ストロベリートーチの赤、そしてその間からチューリップが色とりどりに咲く、という計画だったのだが、はたしてそうなるだろうか。

 実家にあるサクランボの花は一斉に咲き、今はもう茶色くなっている。4月の下旬頃には、サクランボがいっぱいに実るはずだ。ただし、鳥たちが一斉にやってくる。

 畑では、冬の寒さに耐えつづけたブロッコリーが急速に大きくなっている。たくさん作ったので、ほぼ毎日食卓に並ぶ。キャベツも、同様に大きくなってきている。キャベツは、冬の間、鳥たちが食べにきていて、かなりのキャベツが食い散らかされた。多くは網をかぶせているので大丈夫だが、今年の冬は寒く鳥たちも食べるものがなさそうだったので、10以上を彼らに提供したのだ。
 毎日、白タマネギの収穫に畑に行く。もう収穫してよというように、白タマネギの葉が次々と倒れていく。黄タマネギと赤タマネギはまだまだのようだ。

 ちょうど冬から春への移行期、昨年と比較すると、寒い。畑に行っても、誰もいない。  
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【本】森まゆみ『青鞜の冒険』(集英社文庫)

2017-03-24 12:34:30 | その他
 すでに単行本として出版されていたものだが、このほど文庫化された。もっと早く読みたかったのだが、これを契機に一気に読んだ。

 副題に「女が集まって雑誌をつくるということ」とある。周知のことだが、著者の森氏は地域雑誌『谷根千』を刊行していた。本書は、平塚らいてうらの『青鞜』刊行を、みずからの経験と重ね合わせながら論じていくというものだ。

 たいへんおもしろく、一気に読める本だ。平塚を中心に(平塚の「自伝」を多用している)、青鞜同人の姿を、必要な限り言及し、『青鞜』の発刊から廃刊までの経緯を映し出す。

 私にとっては、新しい事実が提示されたということはないが、小気味よい文の流れに、あるときは笑いながら読み進めた。『青鞜』への入門的な本として有意義なものだという気がした。

 『青鞜』誌上での論争などについての言及はなく、あくまでも『青鞜』の帰趨を追ったものである。

 よみやすい、よい本である。
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あまり報道されないFAXはここにある

2017-03-24 09:04:07 | その他
 それから、安倍昭恵付きの官僚の谷の写真も。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/370277
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籠池氏の主張

2017-03-24 08:55:56 | その他
 国会や外国特派員協会での発言は、隠している部分もあるとは思うが、クチにされたことは事実だろう。これに対して安倍政権がどう対応するか。

 おそらく強引に無視するのだろう。彼らは、国民がすぐに忘れていく、と思っているはずだ。安倍昭恵も、100万円の授受を強引に否定している。否定しまくり、幕引きをはかる算段だ。テレビメディアが、その役割を果たしていく。

 そういう不当なやりかたを覆せないことが、現在の日本のあり方だ。

http://lite-ra.com/

https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/what-is-mizuhonokuni27?utm_term=.mdm42qZXk#.uamyzxX2V
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【本】森元齊『アナキズム入門』(ちくま新書)

2017-03-23 09:33:17 | その他
 アナキズムとは、どういう思想なのか。それを、アナキズムの思想家であり実践家であったプルードン、バクーニン、クロポトキン、ルクリュ、マフノを通して明らかにするというもの。文章は歯切れがよくて、読みやすい。

 最初読み始めた時は、栗原康的な書き方に、これはどうかなと思ったが、しかし、栗原康的な叙述は付随的なところのみで、本筋の所では、きちんと原典をもとに説明を加えている。栗原康の場合は、本筋の所で自らの主観的な見解を交えた、ウソか真(まこと)かわからにようなことを書きつらねるというもので、歴史を学んでいる者としてはとうてい読み進められない代物である。

 それに引き替え本書は、ウソか真(まこと)かが判別できる書き方をしているので、許容範囲である。

 いずれにしても、本書により、アナキズムの思想家の特徴がいちおうは学び取ることができる。
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「戦争反対」に難色を示すNHK

2017-03-23 09:27:12 | その他
 一部の番組を除き、「アベ様のNHK」と化した国営放送。またもややらかした。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/155588
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錯覚

2017-03-23 08:56:41 | その他
 人間としての感性、そして知性など、凡そ人間が持つ諸能力が不足している者が、なぜか頂点に立つと、自らの力が無限大だと錯覚し、自意識を過剰に肥大させる。そして自分には何でもできるという極限までの自信をもつ。そしてそういう人間を、まわりがつくりだす。独裁者は、独裁者となった者の資質と、そのまわりの卑屈な者たち、彼らは独裁者に媚びへつらうことによっておのれの「利」を確保する者たちによって生み出されるのだ。
 そしてその卑屈な者たちも、独裁者の振る舞いを見て、自らも独裁者のように振る舞うのだ。独裁的な政権には、マトリョーシカ人形のように、大小の同じ顔がまとまって存在する。

 ほんとうに立派な尊敬すべき人間は、謙虚で、決して自慢せず、尊大にはならない。

 今日本は、自己を知らない者が政権を牛耳っているのだ。

http://lite-ra.com/2017/03/post-3012.html
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あきれる「小林多喜二を政治利用するな」

2017-03-22 15:50:34 | その他
 批判者の知的レベルがわかるような批判に、リテラが適切な反論を加えている。

http://lite-ra.com/2017/03/post-3011.html
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ネトウヨや『産経』の滑稽な言いがかり

2017-03-21 23:29:35 | その他
 何というか、論評にも値しない言いがかりだけど・・・・

http://lite-ra.com/2017/03/4040.html
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これも・・・?

2017-03-21 17:32:45 | その他
 今日の『日本経済新聞』配信ニュース(一部)。

フィリピン人家事代行、4時間1万円 パソナが入社式

2017/3/21 11:51
 神奈川県などの国家戦略特区で解禁された外国人の家事代行サービスで、事業開始に向け準備が着々と進んでいる。パソナは21日、来日したフィリピン人25人の入社式を都内で開いた。今後は職場内訓練(OJT)などを実施したのち、3月末にも事業を始める予定だ。特区を活用した外国人家事代行による初のサービス提供となる見通しだ。

 掃除や洗濯、食事の準備といった家事代行サービスを月2回(1回当たり2時間)利用する場合で、利用料金は1万円(税別)と想定する。


 この国家戦略特区、これもパソナのためではないのか。政策の私物化が進んでいると思わざるを得ない。
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【本】朴裕河『引揚げ文学論序説』(人文書院)

2017-03-21 10:17:48 | その他
 朴は、『帝国の慰安婦』(朝日新聞社)などを書き、もと慰安婦から裁判を起こされている。私は、彼女の『帝国の慰安婦』、『和解のために』を読んだが、どうもその文体が好きではなかった。私は、職業柄歴史関係の本を多数読んできたが、それらは歴史の本ではなかった。文学の範疇に入るものであった。歴史学は、史実にもとづいて、その史実すら学問的な実証にもとづき、言えることを書き、言えないことは書かない、という鉄則をもつ。そこでの評価は、自由に飛翔することはない。史実を尊重し、そこから生み出される見解は極めて謙抑的にならざるを得ない。しかし、朴のその本は、そうした歴史学の実証性にとらわれないものであった。きちんとした史実にもとづかない見解、それは主観的な見解でもあるが、そうした叙述に、私は嫌みを覚えた。彼女が批判されるのはやむを得ないと思った。

 さて、その朴が、「引揚げ文学」という、まさに文学を対象とした本を出した。彼女は、やはり文学を対象とした学問では、なかなかの才能を持っていることを実証した。私は、この本を読んで、強く刺激された。「引揚げ文学」ということばは、彼女の独創により作り出されたことばであるが、それは現代日本にとって、あるいは韓国の現代においても、重要な示唆を与える。私たちの「戦後社会」は、何を「忘却」してできあがってきたものか、「忘却」したものをもう一度持ち出し検討することによって現在をより豊かにするのではないかという提起に賛意を表するものである。

 「引揚げ文学」とは、日本の敗戦以降、海外の占領地や植民地から帰還してきた人たちにより書かれた文学である。

 私も、そうした人々の書いたものは読んでいる。もちろん「引揚げ文学」という範疇ではなく、ふつうに作品として読んできた。五木寛之、梶山季之、三木卓など。しかし「引揚げ文学」として括ってみると、どういう世界が見えてくるか、朴はそれを記した。

 朴は「総論」として、「おきざりにされた植民地・帝国後体験」をまず掲げる。引き揚げ者は、植民地で、どういう生き方をしようとも、客観的には加害者として存在した。したがって、引き揚げは、同時的にそうした存在を浮かび上がらせざるを得ない。

 「加害者としての日本」を含む物語は、戦前とは異なるはずの「戦後日本」では受け止められる余地がなかったのである。〈「引揚げ」の忘却〉という事態は、ひとことで言えば、「外地」からの引揚げ者たちが「内地」でおかれることになった複雑な地政学的・思想的・情緒的配置によるものであった。(24)

 占領地や植民地に出かける前の「帝国日本」との関係、帰ってきてからの「戦後日本」との関係、さらに引揚げ者同士の関係を総合的に捉えて初めて「引揚げ」は理解しうる事柄なのである。(24~5)

 私は、城山の「大義の末」を読み、またこれを読みながら、1945年で引かれる歴史の断層線により捨象されたものは、たくさんあるのではないかと思った。「帝国日本」で利益を得た者が、「戦後社会」でも利益を得る、それはなぜであるのかを通時的に分析することが必要ではなかったか。人は、1945年で変わるのではなく、「帝国日本」に生きた者は、「戦後日本」でも生き続けるのである。

 「戦後日本」は、「帝国日本」を過去のこととして〈忘却〉していった。その〈忘却〉には、「引揚げ」という「帝国日本」をひきずっていたものも入る。「戦後日本」にとり、「帝国日本」は邪魔なのである。

 なぜか。

 「引揚げ文学」は、「引揚げ」そのものの悲惨な記憶を忘却せんとする欲望に加えて、「帝国」政策の結果としての混血性を露わにし、新しいはずの「戦後日本」がほかならぬ「帝国後日本」でしかなかったことをつきつける存在でもあった。(30)

 からだ。

 「帝国後日本」ということば。このことばは重い。しかし同時に、「戦後日本」は「帝国後」なのかという疑問も持つ。「戦後日本」は、かの「大日本帝国」を内包し続けてきたのではないかという気持ちをもっている。それをどういうことばで表現したらよいかはわからないが、今日本に奔出してきている諸事態を見るにつけ、「大日本帝国」は「戦後日本」のなかに生き続けていたのだということ、それは「戦後日本」の政治権力も同様であるという認識を、私はもつからだ。「戦後日本」は、「大日本帝国」と切れてはいないのである。

 朴は、引揚げ者を分析していく。植民者であった引揚げ者は「ディアスポラ」であったこと。

 「帝国」=支配する側もまた、ディアスポラを生むのである。(51)

 そして「引揚げ文学」を読み分析するなかで、朴は発見する。

「植民地」の惨めさと悲惨を誰よりもしっかり見つめていたのは植民地で育った少年・少女だった。彼らは、被植民者に加えられる拷問の痛みと恥をあたかも自分の痛みであるかのように感じとり(小林勝、五木寛之)、植民者の飢えにも想像力を働かせ(小林勝「赤ん坊が粟になった」)、植民者の前で泣き叫ぶ被植民者の姿(村松武司「朝鮮植民者」)や、植民者と被植民者の住まいの差異をもしっかり見届けていたのである。(55~56)

 植民者の多くはあきらかに裕福な支配者だったが、だからといってかならずしも幸せだったわけではない。・・・そもそも。植民者の多くは「棄民」であった。(57~8)

 子どもたちは、曇りのない眼で、植民地の状況を見た。いまだ、大日本帝国臣民というアイデンティティをもっていなかったからだ。そういう眼で見た植民地はどうであったのか。私はまた彼らが見てものを、見つめなければならないという思いをもつ。植民地とはいかなるところであったのか、「帝国日本」が支配した植民地の真の姿を、私は見つめなければならない。彼らがみつめたものを、「戦後日本」に生きる私も見つめなければならない。

 朴はこう記す。

 なによりも、「植民者」とは、植民者にとっても(自発的に見えても構造的に)「移動させられた」場所にほかならず。そうである限りそこは決して安穏たる場ではありえなかった。帝国主義批判はむしろここから出発しなければならない。「植民」とは国民を「外地」に定住させることである。そのとき選ばれるのは主に本国に居場所を得られなかった貧困者や家族主義の周辺にいた独身者である。本国に残る人は言葉、血統、文化を守りつづけ、純正のさらなる強者となる。そして「祖国」であれ、「植民地」であれ、引揚げ者たちには所詮「定住者」の空間であるほかなく、つねに定住者中心主義が暗に機能する場所になる。そして、植民者が植民地を「追放」されるとき、そのことは初めてようやく露わになる。(59~60)

 「植民者」と「被植民者」、「定住者」と「非定住者」とが混じり合うのである。この「定住者」と「非定住者」という概念が、あらたに発見される。 

 「記憶の死」(61)

 韓国でも、百万人近くの日本人がいたことは、忘れられているという。日本でも、「引揚げ者」は、注目されることなく、「戦後日本」では忘れられていった。

 だから朴は、

 国民国家がほかならぬ「定住者中心」のシステムだったこと

 を指摘する。

 そして朴は、「引揚げ者」をはじめとする国境をこえた人々、あるいはそのなかで生まれた「混血児」たち、あるいは命を落とした「いろんな国の」人々、そうした人々の声を聞くことにより、「植民地」と「帝国」、「帝国崩壊後のアジア」、「戦後日本」の新たな姿も見えてくるのではないかという。(64)

 最後に朴は、後藤明生の対談での発言を掲げているが、そこで後藤は、日本が「化学的変化を起こしていない」ことを指摘している。「植民地」をもとうが、それがなくなろうが、「質的に変化していない」、そこに後藤は「不思議さ」を感じているのだが、おそらく朴もそうなのだろう。

 だから私は、「戦後日本」は、「帝国日本」を内包しつづけているというのである。芯は変わっていない、近代日本がつくりだした芯が「戦後日本」のそれこそ芯に「鎮座」している、と私は思っている。



 
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