詩人・サトウハチローの、母親春との葛藤を描いたものだ。母親役は、土居裕子さん。実は私は土居さんのファンで、CDまでもっていて、車のSDカードにも録音していてよく聴いている。というのも、かつて私は音楽座の大ファンであった。県内での上演があれば、必ず行っていた。土居さんが主演を務めた“
シャボン玉とんだ宇宙までとんだ”を何度も見た。それは1990年。それから28年が経った。
土居裕子さん、母親役をやるほどに年齢を重ねたというわけだ。そして私も同じだけ歳をとった。
この演劇、素晴らしいものだったということを先ず指摘しておこう。ちょうどその頃に私が書いた演劇についての見解である。
演劇は、テレビや映画と違って、「親切」ではない。どうしても観る側が自らの想像力を駆使し、自らの頭のなかで再構成していく作業が必要となる。その作業と、演じる側の「世界」とが共鳴しあいながら創りだされていくのが、演劇の空間、つまり演劇を見るという行為なのだと思う。
その場にいる、演技者(それぞれの演技者は、それぞれに自らの精神世界を持って演技をする。そしてその集合体が私たちの前に示される。)と、これまた独自の精神世界を持つ一人ひとりの観劇者の集合体と、これらが織りなす巨大な演劇空間は、だからきわめて創造的である。さらにまた、その一回性なるが故に。
だからといって構える必要はまったくない。ただ、そこに創り出される演劇空間に入り込めるように、心を開いて素直に観ることが大切だと思う。そうすれば、様々な位相をもったコミニュケーションが自然に交わされていくことだろう。
そして見終わったときに、劇そのものを振り返ってみよう。演劇空間は何らかのメッセージを創りあげているはずだ。自分自身を主体的にそこに投げ入れてみよう、新しい自分を発見できるかもしれない。
演劇は生きていく上での糧となるはずだ。だから、これからも機会があったら見てほしい。
この演劇も、決して親切ではなかった。時系列での話ではなく、時は前後していた。またキャストはいくつかの役を担っていた。観劇者は、みずからの想像力を駆使して、劇的空間に主体的に入りこまなければならなかった。私はこういう演劇が好きだ。ストーリーが時系列で流れていくような、ストーリーがわかりやすい演劇の場合、見終わった感想はワンパターンが多い。脚本は、観劇者の感性を混乱させなければならない。そうでないと、劇的空間は観劇者の外部にのみ存在することになり、観劇者は観るだけの人になってしまう。
脚本は、観劇者を劇的空間に入りこませるために、様々な工夫を凝らさなければならないのだ。
そうした良質な脚本である「母さん」は、サトウハチローの母への愛情・思慕を描く。もちろんハチローの愛情や思慕は、素直に表出されるのではない。わたしも含めて男は(ジェンダーを考える私がこういう書き方をしていいのかどうか迷うが・・)、母親に対する愛情や思慕を、ストレートには出せない。屈折して表出される。それはある時には、反抗的な表出となる。ハチローの場合は、母親が亡くなるまで続いた。私は、その理由がわかる。
サトウハチローの父親は佐藤紅緑である。ハチローの母を大切にしないで、他に女性をつくりそこでも家族をもっていた。ハチローはそれが許せなかった。父への敵意。許すことが出来ない背徳の父に対して、母親は闘わない、闘わない母に対する怒り(なぜ闘わないのか!!)。その怒りは、父親に対する怒りとともに、母親を思慕するが故の怒りとして増幅される。
サトウハチロー、そしてハチローの息子・忠が表出する反抗、その背景にある複雑な精神的葛藤がよく描かれていた。
人間というものは、そう単純な存在ではなく、様々な葛藤を抱え、その葛藤をそれぞれに表出していく。その葛藤の背後に、家族のありようがある。人間は、様々な関係が織りなす矛盾的存在なのだ。
演劇を観ていて、「素晴らしい」というその内容は、それぞれ異なる。劇団東演の「検察官」も「素晴らしい」ものだったが、その素晴らしさはまったく異なる。演劇はだからこそ、創造豊かで個性的なのだ。