『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

抹茶碗で一服⑦-山口萩焼松緑窯

2025年02月02日 | その他









若い頃には萩の城下町や大内氏の遺跡のある山口には度々訪れており、各所に多くの萩焼の窯元がありぶらりと訪れていた。
萩焼松緑窯は明治期に山口市宮野に移って作陶活動をされている山口萩窯元で、訪れた記念に松緑窯10代の大和正一の萩焼茶碗を求めていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

抹茶碗で一服⑥-楽山焼

2025年02月01日 | その他









若い頃に松江城や菅田庵・明々庵などを見物した際に楽山公園近くにある楽山焼の窯元を訪れて求めたもので、11代長岡空権の得意としていた伊羅保写の茶碗である。
長岡空権は平成12年(2000)に島根県指定無形文化財に認定されているようである。

※ 昨日、当ブログを開設してからトータル閲覧数700万PVの大きな節目を迎えることができました。当ブログは老化防止のために見たままを記した万人受けするものではありませんが、多くの方々に御来訪閲覧して頂き大いに励みとなっております。可能な限り継続していきますので御来訪して頂きますようお願い致します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪商船・宮島遊覧航路

2025年01月31日 | 「宮島地区」ぶらり



昭和5年(1930)頃に大阪商船は昨日紹介した宮島遊覧船のほかに宮島遊覧のための航路を設けていた。
山陽航路は音戸丸外4隻で大坂を出港して神戸、高松、多度津、鞆、尾道、宇品に寄港し厳島商船桟橋に着船して、以降岩国、柳井津、門司に航行していたようで、宇品別府線は宇品を出港し厳島商船桟橋に着船して、以降柳井津、大分、別府と航行していたようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮島遊覧船

2025年01月30日 | 「宮島地区」ぶらり






昭和5年(1930)頃に大阪商船の快速船屋島丸で毎土曜日午後7時に大阪を出港して神戸港に寄港し、翌朝10時に厳島商船桟橋(現在広島経済大学成風館がある所)に着船する遊覧船があったようである。船客運賃は三等片道3円50銭、往復6円だったようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多度津~宮島線航路

2025年01月29日 | 「宮島地区」ぶらり







上画像は昭和9年(1934)5月尾道市の瀬戸内商船の時刻表で当時多度津~宮島線航路があったようである。。
多度津港を午後5時15分に出港して鞆、岩船、尾道、糸崎、忠海、長浜、竹原、三津、三津口、川尻、阿賀、仁方、音戸、鍋、吉浦、宇品などを寄港して翌朝8時50分に厳島商船桟橋(現在広島経済大学成風館がある所)に着船していたようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上田宗箇流-和風堂

2025年01月28日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり















半世紀以上前の若い頃に上田宗箇流に出入りをさせて貰っていたが茶の道を究めることはできなかった。そのころに和風堂の建築が計画されており設計は京都工芸繊維大学中村昌生教授がされていたが、図らずも南門の作図をさせて頂いた。作図した原図が残っており当時を懐かしく思い出すのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

串戸御茶屋

2025年01月27日 | 「廿日市地区」ぶらり



江戸期串戸には広島藩家老の上田家が設けた串戸御茶屋があったが定かな場所は明らかでない。御茶屋の御池には平良村から越峠を経ての用水路から取水していたようである。
江戸期の地誌には「往古上田宗箇様御構・・・」とあり、御茶屋御館、御多門や串戸地区に吉和村御支配所、津出御引請役所、炭納屋役所などが設けられていたようである。(画像は芸州吉田行程記より)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元妙音寺の上田家位牌

2025年01月26日 | 「吉和地区」ぶらり












吉和インターの料金所付近にあった妙音寺にはこの地の領主であった上田家代々の位牌が安置されていたが、廃寺となって汐原観音堂に移された。江戸期の地誌に「重安公御位牌有り其由縁不詳・・・」とある。汐原観音堂に移された時に拝見させて頂き初代上田重安(宗箇)から八代までの位牌が確認できたのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩船の水

2025年01月25日 | 「佐伯地区」ぶらり









浅原地区に上田宗箇ゆかりの岩船の水とお手形の池跡が残されている。
江戸期の地誌によると宗箇がこの地に三年間滞留していた御座敷跡が記されており、ここで隠棲し草庵を結んで茶三昧の生活を過ごしたというゆかりの岩船の水、お手形の池が伝えられている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上田宗箇の遺髪塚

2025年01月24日 | 「大野地区」ぶらり





大野地区の串山にある上田宗箇の遺髪塚に半世紀ぶりだろうか久しぶりにお参りをした。上田宗箇は戦国武将で丹羽長秀、豊臣秀吉、浅野幸長・長晟などに仕えており、千利休や古田織部に茶の湯を学んで武将茶である上田宗箇流の祖となった。(下画像は上田流和風堂発行絵葉書より)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉野山の高圧線鉄塔工事の今

2025年01月23日 | 「廿日市地区」ぶらり






吉野山に高い高圧線鉄塔が建てられたことを以前に紹介したが、現在以前からある鉄塔(上画像の手前)の取り壊し作業途中であり、すでに御棒杖山の鉄塔と平楽地蔵堂脇の既設鉄塔が取り除かれていた。下画像の宮島サービスエリア近くの鉄塔では手前の高圧線が無くなっての張力を処理するためのアンカーが設けられていた。これらから想像すると長スパンで高圧線が張られる工事が行われているようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松風山潮音寺

2025年01月22日 | 「廿日市地区」ぶらり






昨日は潮見山西教寺を紹介したが、廿日市の潮音寺は現在街中にあるが江戸初期頃まではまさに潮の音が聞こえる地であったのである。
下画像の沖の手・沖新開と記されている付近、高須新開、沖高須新開などは寛文年間に築調されているのでそれ以前の潮音寺は海に面しており、立地に相応しい寺名であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

潮見山西教寺

2025年01月21日 | 「大野地区」ぶらり



大野インター近くの旧西国街道沿いにある浄土真宗西教寺の山号は潮見山と称されているがこの地からは海が見える所ではないのである。
町誌によると当寺の前身は護安の地にあった護安寺跡に真宗寺を開き寛永4年(1627)に西教寺と改称されたようであり、江戸初期に護安の地から海が望められたのであろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多宝塔~駒ケ林旧登山道

2025年01月20日 | 「宮島地区」ぶらり







夕日観音


夕日観音


朝日観音


朝日観音

江戸期より多宝塔から駒ケ林にむかう登山道があったが、観光客が入り込むと危険のために現在は通行止めとなっている。登山道の途中にある巨岩の下には夕日観音と朝日観音が祀られているが由緒などは不明である。画像は2008年10月に訪れた時のもので夕日観音は鉄製階段を上ったところにあり、朝日観音と言われるところには堂が壊れ石仏が残されたものと別に堂があり石仏が安置されているものがみられた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平良丘陵開発の今

2025年01月19日 | 「廿日市地区」ぶらり









時折り紹介している平良丘陵開発の進捗状況で宮島サービスエリア展望所からの一昨日の画像である。下画像の広島湾向こうに見える江田島(中央くびれた付近)での山火事の煙がうっすらとみられる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする