一昨日の中国新聞に三つの「みよし」災害協定へとの記事があった。その一つである徳島県三好市池田町マチに祀られている厳島神社を紹介しよう。由緒などは不明であるが吉野川を利用していた船運関係者によって勧請祀られていたのではなかろうか。池田町の町並みには重厚な袖うだつを設けた町屋が多く見られる街である。
一昨日の中国新聞に三つの「みよし」災害協定へとの記事があった。その一つである徳島県三好市池田町マチに祀られている厳島神社を紹介しよう。由緒などは不明であるが吉野川を利用していた船運関係者によって勧請祀られていたのではなかろうか。池田町の町並みには重厚な袖うだつを設けた町屋が多く見られる街である。
生口島瀬戸田町の鹿田原(江戸期鹿田原村)の俵崎城跡の麓にある厳島神社で、(絵図赤丸ケ所)江戸期の地誌には「建暦二年壬申、勧請すといふ」とある。中世、俵崎城を所守していた生口平左衛門と何らかの関りがあったのかも知れない。
山口市宮島町にある嚴島神社で、応永13年(1406)に大内盛見が安芸国嚴島神社を勧請して県庁がある地に祀った。(絵図赤丸ケ所)幕末期に社地が藩主の居館となったので現在地に移転したようである。社殿内の多宝塔上層部は室町時代中頃の建築手法のようであり山口市の有形文化財に指定されているようである。
浜田市の海上交通の要所である瀬戸ケ島に祀られている厳島神社で、看板表示によると正平9年(1354)11月に足利直冬が宗像大社の分霊を勧請したという。旧暦6月18日には海上管弦祭が催されるようである。
浜田市にある浜田城跡の北側松原浦の袂に祀られている厳島神社で、看板表示によると応保2年(1162)に安芸国厳島神社を勧請して祀られたようである。江戸期浜田城主の古田重治や松平家歴代藩主の信仰保護を受けてきたようである。
鳥取県日南町丸山に祀られている厳島神社であるが明治維新時の地誌伯耆志には当神社の記載はみられない。しかし狛犬には天保12年(1841)と、燈籠には文政5年(1822)の刻銘がみられるので江戸期には祀られていたが創建については定かでない。(2018.04.15撮影)
鳥取県日野町の下榎に祀られている厳島神社で、伯耆志によると祭神は田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命で、長谷部信連の子孫が安芸佐伯郡の厳島神社を勧請したとあり、応永9年(1402)、応仁元年(1467)、大永3年(1523)の棟札なども記されているので中世から祀られていたものとみられるのである。
今治市波方町養老にある厳島神社で江戸期の地誌「愛媛面影」にはみられず由緒などについては定かでない。看板表示によると厳島神社のある地は中世来島家の居館波方館の別館養老館があった地のようである。
高知市を流れる鏡川と国分川の合流付近にあった小嶋の弘化台に厳島神社が祀られていたようであるが、弘化台埋立地の築造に伴って小嶋の弘化台は掘削されたようである。現在は弘化台中央卸売市場の片隅に小さな厳島神社が祀られていた。(下画像-今昔マップより)
木野集落の後背山斜面に建立されている厳島神社で旧称は氏野大明神と称されていたようである。江戸期の地誌には「氏野社とあり瀛津姫命を祭る、境内に末社五宇あり」とある。現在一段高い所に摂社・末社の恵比須神社・天満宮・祇園神社・稲荷神社・金比羅神社・人丸神社が祀られている。
高知市御畳瀬にある新狭島厳島神社でかつて浦戸湾への航路途中にあった狭島に祀られていたが、昭和30年代に船の航行のため掘削撤去され現在地に築島を造って遷座したようである。(地図参照-今昔マップより)(2016.12.17撮影)
愛媛県西条市三津屋の江戸期金毘羅参道沿いにある厳島神社で、愛媛県神社庁の資料によると延暦2年(804)安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているが定かなことは不詳のようである。明治期には村社であったようである。(2017.8.25撮影)
三次市十日市町に祀られている厳島神社で以前は巴橋近くにあったが(上画像)、昭和47年(1972)の水害で堤防改修が行われ昭和50年(1975)に現在地に遷座されたようである。石見銀山街道側の参道に石鳥居が、堤防道路側の参道に赤い木造の両部鳥居が建立されている。
益田の高津川と益田川下流域で中世から中須東原遺跡など港湾遺跡があった所に祀られている厳島神社で、「史跡中須東原遺跡保存活用計画書」によると江戸期に浜田組七浦大年寄を務めた中須村大賀家の鎮守社であったものを中須村の氏神としたというとある。隣接して大元神社が祀られており、石見地方では明治初年頃564社位の大元神社が祀られていたようであるが、どのような信仰が行われ祀られていたのかは定かでない。