洞雲寺本堂脇の池の中にある小祠で古くは鎮守堂と記されており、寺院の土地、境内、建物の護り神として当寺と関わりの深い厳島神社を分祀して祀ったものとみられる。
江戸期の辛未紀行(文化8年-1811)に「鎮守厳島社、寺ノ左ニ有、弘安四年寄附ノ鰐口・・・」、洞雲寺誌に「鎮守堂、ひわだ葺」とあり、現在は小祠であるが江戸期には桧皮葺の堂で向拝に鰐口が吊るされていたようである。この鰐口は願主が海田庄中金屋とあるので現在の奥海田で鋳造活動をしていた中金屋が寄進したようである。
洞雲寺本堂脇の池の中にある小祠で古くは鎮守堂と記されており、寺院の土地、境内、建物の護り神として当寺と関わりの深い厳島神社を分祀して祀ったものとみられる。
江戸期の辛未紀行(文化8年-1811)に「鎮守厳島社、寺ノ左ニ有、弘安四年寄附ノ鰐口・・・」、洞雲寺誌に「鎮守堂、ひわだ葺」とあり、現在は小祠であるが江戸期には桧皮葺の堂で向拝に鰐口が吊るされていたようである。この鰐口は願主が海田庄中金屋とあるので現在の奥海田で鋳造活動をしていた中金屋が寄進したようである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます