地御前神社の客人本殿と大宮本殿には神官により御供をし、神事の後に大宮本殿前で陵王と納蘇利の舞楽が奏された。
江戸期の厳島図会によると旧暦5月3日にも陵王と納蘇利の舞楽が奏され、5日も同様に陵王と納蘇利の舞楽が奏されたようである。
昨日は旧暦5月5日で地御前神社の祭礼である御陵衣祭(馬とばし)が催された。江戸期の厳島図会によるとかつて3日から5日にかけて祭礼が行なわれていたようである。
地御前小学校の地にあった御旅所へ神輿行列の出御、還御が行なわれていた名残りの獅子、神馬などが列をなしていた。
以前にも紹介したが原長野地区から葛原・極楽寺方面に向う国道433号線に架かる小さな橋のたもとに「さるわたりはし」と刻された自然石が立てられている。この付近では猿とよく遭遇するところでもある。
江戸期の地誌絵図をみると葛原村と原村境に猿渡りと記されているので地名の「さるわたり」があったことがわかり、この付近が村境であったのだろうか。
当ブログで09.4.11に厳島神社奉納絵馬として伊予今治の絵師山本雲渓が描いた「武松虎退治の図」を紹介した。ところが松山市の道後温泉近くの伊佐爾波神社の絵馬に良く似た「和藤内虎退治の図」があることが分かった。
伊佐爾波神社の「和藤内虎退治の図」も伊予今治の絵師山本雲渓が文政12年(1829)に描いたようである。
参照 : 伊佐爾波神社写真帳
畑の片隅にグイメの木を植えており農作業の途中に熟した実で喉を潤している。また、散歩途中には大きなクワの木があり熟した実は甘いが食するような人はほとんどいない。
グイメやクワの実は子供の頃に良く食べたものであるが舌の肥えた孫達は見向きもしない。
極楽寺山にある蛇の池の池畔にある枯れ木に5匹の亀が色とりどりの睡蓮を見ながら甲羅干しをしていた。
倒木であろうか水面付近にあるので亀の休息場所に度々使用されているものとみられ上面の樹皮が無くなっている。
極楽寺山にある蛇の池ではピンクや白など色とりどりの睡蓮が池全面に咲き始めており、多くのカメラマンが思い思いの構図でシャッターを切っていた。
この頃から夏にかけて睡蓮は見頃になるので避暑をかねて足を運んでみられてはいかがでしょうか。
今シーズンの牡蠣出荷は一部を除いてほぼ終了しているようであり、昨日牡蠣殻集積場から運搬船に積み込み作業が行なわれていた。
牡蠣殻は悪臭がひどいが何に使用されるのであろうか。当ブログ主が小学生の頃学校近くで牡蠣殻を砕いて粉にして胡粉を製造していたことを思い出した。
宮内地区の天王社に参詣したら賽銭箱が鉄板製の箱の中に入れられて金具で止められ施錠されていた。
近年罰当たりな賽銭泥棒が横行しているようで、上平良地区の大歳神社や都地蔵でも賽銭箱が壊されて賽銭が盗まれたようである。
旧上平良村と原村の境付近で手前が原地区の橋本で向う側が上平良地区の河野原である。かつて左上の民家部分は丸子山という山があって道路部分は堀割りの低い峠道であったようである。
江戸期の地誌によると上平良村・原村境のことを原村境堀越し、堀り越し垰、河ノ原越などと記されている。
上平良地区に残っている焼き場道で荷車式の霊柩車が使用されるようになった時に従来の農道を火葬場まで一間道にしたものを焼き場道といっていたが現在知っている人は少なくなった。
各から何通りかの焼き場道があって農道に隣接する土地を提供して地区の人達が総出で拡幅工事をしていたのを子供心に覚えている。公図では拡幅部分は個人の所有で農道のままになっているところが多くあるようである。
昨日、猫の手を借りたいので小雨が降る中を連縄用のもち米タンチョウモチの苗3箱田植えをし、残りの部分はウルチ米を植え付けた。
これから9月末の落水まで水管理をしなければならず、早朝のウオーキングがてら速谷神社に参詣して田んぼの水廻りが日課となるのである。
田んぼの畦の水漏れや畑で折角育てた野菜などモグラの被害には手を焼いており、モグラ捕獲用に下画像のような捕獲器を購入して何度々々設置しても脇に穴を掘ってあざ笑っているようである。
ところが穴を掘っているところに水を流し込んだら逃げ道がなかったものとみられ飛び出してきたので捕獲した。まだ何匹もいるようなので当分格闘がつづきそうだ。
飯山集落の高台で「寺やしき」といわれる地には墓地とその脇に地蔵堂があり、江戸期の地誌(文政2年)によると古い時代に禅宗の地福寺があったようであるが何時ごろまで存続していたかは不明とある。
堂内にはかつての地福寺の遺物であろうか4~5体の仏像が安置されており、文政8年(1825)の木札が残されているようである。