昨日紹介した権現山麓にある平楽寺地蔵堂で、御本尊の平楽地蔵は中世の速田大明神に奉仕する供僧寺であった平楽寺の名残りを伝えてくれる地蔵である。
堂内に掲げてある昭和初期のものであろうか芳名板には上平良の200余名の寄付名が記されており、昭和25年(1950)のものには上平良その他の240余名の寄付名が記されている。かつてこのように多くの人々に平楽地蔵は信仰、維持されていたのであるが・・・
昨日紹介した権現山麓にある平楽寺地蔵堂で、御本尊の平楽地蔵は中世の速田大明神に奉仕する供僧寺であった平楽寺の名残りを伝えてくれる地蔵である。
堂内に掲げてある昭和初期のものであろうか芳名板には上平良の200余名の寄付名が記されており、昭和25年(1950)のものには上平良その他の240余名の寄付名が記されている。かつてこのように多くの人々に平楽地蔵は信仰、維持されていたのであるが・・・
旧磐木社
速谷神社境内社岩木神社
速谷神社の大鳥居前にある俗称権現山頂の旧磐木社で、その昔村の主である磐木翁を祀ったという。明治初年に速谷神社境内に移転して祀られていたが大正13年(1924)9月本社の改築と共に現在地に祀られ、昭和6年(1931)4月に現在の岩木神社社殿が改築されたようである。
ウォーキング途中さくらのおか公園を歩いていると十月桜と表示した桜の木があり、満開は過ぎて桜花が萎れかけていた。ネットによると春と秋から冬にかけて二季咲きのようである。公園内の桜はまだ蕾は固いが見ごろは3月の末頃になるのだろうか。
立春を過ぎ暦の上ではもう春ですが外に出ると寒さを感じます。ウォーキング途中でみかけた紅梅の木には蕾が膨らんでいるのが沢山みられチラホラと開花していた。植物は自然の暦であり季節の移ろいを教えてくれる。
観音崎の先端部に少しだけ自然護岸が残されており、山頂先端部に子持ち観音像が安置祀られている。看板表示などによると胸元の石仏は昨日紹介した二つ島で祀られていたようであり、明治期に篤志家がこの観音像を寄進鋳造して胸元にこの石仏を納めて安置し祀られたようである。
熊ケ浦にある二つ並んでいる小島で、鼻ぐり島、夫婦島ともいわれており、海蝕洞のみられる美しい島であるが容易に見ることが出来る場所がないのである。かつて別荘の対厳荘があった地に建てられたグランヴィリオホテル宮島和蔵のHPによると露天風呂から二つ島と借景として宮島が見えるようである。
宮島口の西にある旧一茶苑の庭園は旧鹿児島藩主の一族が鹿児島の磯庭園を模し、宮島を借景とした名園であった。廃苑となった現在もかつての前庭や庭園の名残りの一部が残されている。前庭には昭和天皇・皇后両陛下行幸啓碑や高松宮・三笠宮殿下、秩父宮妃殿下御成碑が残されている。
宮島口旅客ターミナルの多目的スペースから建築整備中の斬新な広電宮島口駅舎方面をみていると遠くに野貝原山が遠望できた。望遠でみると野貝原山にあったかつての「のうが高原」施設の廃墟とアンテナ群をみることができた。
コロナ禍、午前10時半頃の宮島口旅客ターミナル内には人影は殆ど見られず閑散としており、JR宮島口駅方面をみても歩道の人影はまばらであった。下画像のJR宮島口駅から手前旅客ターミナルまでの約200mは県道43号厳島公園線でここから海上区間があり包ケ浦自然公園が終点のようである。
広電の宮島口駅の移設工事の進捗状況を時折り紹介しているが、立体駐車場の外装工事はほぼ終わっているようで、立体駐車場へ向かう架橋工事でスロープ部分の登り口付近の工事はまだ進んでいないようであった。斬新な駅舎内でのホームの築造工事が行われているがレールはまだ敷設されていないようである。
現在カメラといえはデジタルカメラ(スマートフォン)の全盛であり、フイルムカメラを使うことはあまりないと思われる。物入れの隅にあった画像のカメラは当ブログ主も使用したことが無いような蛇腹式のミノルタセミPカメラで、昭和26年(1951)に製造されたようである。価格は13,600円だったようでフイルムはブロニーフイルムを使用したようである。
ウォーキング途中でみかけた寺・神社や民家の懸魚を続いて紹介しよう。懸魚の多くは社寺建築にみられるが古い民家でもみられ、何れの懸魚も花・葉・浪・雲文などを配した造りであり大工さんが腕を奮って制作したものであろう。
懸魚(げぎょ)とは聞きなれない建築用語であるが、屋根の切妻部分の棟木の鼻隠しの役をするとともに妻飾りとして設けられたもので、ウォーキング途中でみかけた寺や民家の懸魚を紹介しよう。何れの懸魚も花・葉・浪・雲文などを配した造りであり大工さんが腕を奮って制作したものであろう。