かぶれの世界(新)

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一国主義のとがめ

2009-03-08 17:19:49 | 健康・病気

前回の「けんぽの危機」は、個別事情のみを追いかけ全体像を見失い、しかも多くの場合、その個別事情を余りに感情的に優先させてしまい、大局を誤りかねないという視点で指摘した。今回は、世界的視野で物事を考えなければならない場合、特にその傾向が酷くなる例を取り上げたい。

実は、このテーマも1月にNHKのクローズアップ現代で取り上げられた臓器移植の問題だ。最近この番組を見て参考にして記事を書くことが多い。今回は臓器移植に関する問題で、健康保険組合の危機とある意味類似したパターンの問題のように感じて気になっていた。

臓器移植が遅ればせながらも合法化されてから既に10年以上経つ。しかし、15歳未満の移植を禁止する法的規制とか、臓器提供する遺族の感情などが抑制要因になって、いまだに国内での臓器提供が進んでいなかった。

結果として、海外で臓器移植を受ける、所謂「渡航移植」が急増し、極端に言うと日本が世界の臓器を買い占める状況が発生し、海外諸国から顰蹙(ひんしゅく)を買っているらしい。番組で臓器移植を待つドイツの女性が、日本人患者が先に臓器を提供された話を聞いた時の複雑な表情がまだ記憶に残っている。

米国では外国人への臓器提供は全体の5%に制限しているが、日本人がその5%を独占しているという。英・豪は既に日本人を締め出し、独もその方向らしい。中国は外国人への臓器提供を禁止しているが、日本人患者がヤミで移植を受けている。死刑囚の臓器も使われているという。

更に深刻なのは日本では15歳未満の移植が禁止されているため、子供の命を助ける為には海外に行くしか方法が残されてない。容易に想像がつくように、この意味するところは、外国の子供の生きる機会を奪うことになる。ヤミの臓器マーケットの存在まで云々されていることだ。

さすがにこの状態を放置できないとして、上記のように諸外国は外国人への臓器提供を禁止し始めた。といってもターゲットは明らかに日本人だ。学会や国際機関(WHO)は移植する臓器は国内で調達せよという指針を打ち出した。これは国民としては恥かしいことではないのか。だが、スポーツのルールが変わって日本人に不利と同じ発想の物言いが出てきそうで不安になる。

日本の臓器提供はどの位少ないかというと、例えば米国は100万人当たり10人、欧州でも8-9人であるのに対し、日本ではたったの0.05人ということらしい。日本は遺体を冒涜しないという文化的な側面と、法的な厳しい制限があるためだ。私も海外生活で実感したことがある。

米国で運転免許証の交付を受ける時、条件は記憶していないが臓器提供の意思確認がなされ、イエスの欄にチェックを入れると、免許証のオルガンドナー(臓器提供者)の下に赤丸がついた。これで、万が一事故等で脳死と判定されると私の臓器は摘出され、誰かに移植されることになった。余りにも簡単なプロセスで臓器提供候補者になったことに気がついて驚いたことがある。

一方、日本では生前に本人が書面で意思表示し、尚且つ、家族の最終的な同意を必要とするという。更に脳死判定についても様々なルールがあって、それを乗り越えて臓器提供するとなると、余程の強い意志が本人と家族に無ければ臓器提供されない仕掛けになっているようだ。

だが、こんな理由が世界に通用するはずがないのは明らかだ。どの国からも同情を得ることは出来ないだろう。これも自国のことしか考えない、半ば病的とも思える「一国主義」が引き起こす問題の一つが表面化した典型的な例のように思われる。だが、臓器提供は温暖化などの地球環境と同じか、それ以上に世界市民的発想が求められる。

患者や家族が海外に行ってでも、考えうるあらゆる手段を使って何とかして命を救いたいと思うのは至極当然である。しかし、同じことを世界中の同じ人間が望んでいることを忘れてはならない。金を出して済む話ではないし、許されることでもない。

本件については、当事者である臓器移植の医療関係者や、患者とその家族はもっと声を上げるべきと感じる。私風にチョット皮肉っぽく言えば、このテーマはニュースバラエティ番組にぴったりはまる。得意とする感情たっぷりの取り上げ方で、速やかな法制化の見直しと臓器提供を後押しすれば、事態は変わり危機を乗り越える可能性は高いと思うのだが。■

コメント
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