加藤和彦氏が「やりたいことなくなった」といって自殺したと報じるニュースを聞いて、とても複雑な気持ちになった。彼は若くして成功したのでずっと年上だと思っていたが、ニュースを見て同い年と気が付いた。自分に重ね合わせて考えない訳にはいかない。
複雑なのは、私はこの数ヶ月「やりたいことなくなった」と言えるかどうか自問自答してきたからだ。それは今年の夏、長男が結婚することになり、養老院に入所している義母に新郎新婦を紹介した時以来問いかけてきたことだ。
というのは、ベッドの義母は長男夫婦が来てくれた事に礼を言った後、もう「やりたいことを全てやった」と言った。私は最初耳を疑った。家内も初めて聞いたと後から言った。小説以外でそんな劇的な言葉を生で聞くのは初めてだった。
もちろん、加藤氏の「やりたいことなくなった」と、義母の「やりたいことをやった」というのはややニュアンスが異なる。前者には悲しみが、後者には喜びの意味が込められているように感じる。しかし、両者とも脳梗塞で倒れ入院した母が示す「生に対する執着」のような生々しさを感じない。
私もやりたいことはやってきた積りだが、果たして義母と同じことを言えるか自問自答してきた。若い頃やりたいと思ったことはやった気がするが、それで満足かというと必ずしもそうではない。この年になって新しいことに興味が湧き、やってみたいと思うからだ。
私も「やりたいことなくなった」心境になったら、加藤氏が自殺した気持ちが分かるかもしれない。だが、加藤氏は余りにも高みに立った為、ささやかな興味や楽しみではいけなかったと想像する。幸いかな、私はそれ程真面目ではなく、いい加減に生きてきた。
見上げる高みはないから今が低いとも思わず、第一まだ色気が残っている。孫の顔を見てみたいし、美人とすれ違えば振り向く。それがなくなった時?それはその時考える。■