かぶれの世界(新)

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自己流の暑さ対策

2018-07-20 22:21:45 | 健康・病気
昼前に大洲市の気温が36度を越えたとニュースは伝えていた。こんな田舎の町がすっかり全国区になってしまった。だが、かつて母が寝ていた実家の北側の部屋は29度、2階の書斎は31度と意外に室温は低かった。都会と違って山裾の実家は森に囲まれ、朝晩涼しい風が吹く。

今月初めから16日まで過ごした東京郊外の府中市にある自宅は最新の耐熱仕様だが周りに緑が少ない。最新仕様と言っても家内が言うように、今夏の異常な暑さには向いてないかもしれない。心地よく過ごすには1日中エアコンを働かせてないと夏の暑さを凌げない。

そこでなるべくエアコンを使わないで過ごせるよう、私が東京にいる間に色々やってみた。一番簡単なのは昼間図書館などの公共施設に行くことだ。私は退職後ずっとやってきたことだ。だが、何とか昼間も自宅で過せる方法はないか工夫してみた。

4-5日かけて実験した結果では、窓のシャッターを下ろし、サッシとカーテンも閉めるのが、外からの熱気を遮るに最も効果があった。締め切って家の内と外を熱的に遮断することだった。そして、気温が一番下がる深夜から朝の9時頃に窓を開けて空気を入れ替えた。若干の効果は認められた。

だが、私がいなくなると女一人が寝室の窓を開けて寝るのは不用心だった。更に昼間から窓を閉め切って薄暗い部屋で過ごすのを家内は露骨に嫌がった。灯を点ければいいだろうと私は言ったが。この方法は外気より相対的に少し気温が下がるだけなので、今後の暑さ対策としては不十分だった。

私自身も午前中は大丈夫でも、特別に暑い日の午後は無理だった。気温が上昇してくると堪らず外出した。どれくらい暑さに耐えられるかは個人差があり、彼女に無理はさせられなかった。

16日に故郷の愛媛県大洲市に戻り実家の玄関に入った時ヒンヤリして気持ち良かった。東京の最新仕様の自宅での実験結果は、築100年以上の百姓家でもある程度機能しそうだった。台風7号に備えて実家の家を締め切って上京し、2週間後に戻ると昼間の外の熱気が家の中に籠っていなかった。

それから4日間続けて大洲市の暑さが全国ニュースで報じられたが、昼間はシャッターとサッシを締め切って過した。お蔭で何とかギリギリで暑さを凌ぐことが出来た。日が沈み気温が下がって来ると窓を開け家に涼風を入れた。まるで夜昼逆転の生活だった。

そして就寝1時間前に寝室と書斎だけ窓を閉めてエアコンを働かせ、タイマーを3時間に設定してベッドに就いた。3時間後タイマーが切れるタイミングで、深夜トイレに立った時窓を開けて朝の冷気が入るようにした。

とは言っても独居老人が熱中症にならないよう気を付け、時々水分を取り塩飴を口に入れている。水質検査に合格して今日から水道水を料理に使えるようになった。豪雨後の田舎の一人暮らしも徐々に楽になってきそうだ。だが、どこまでこの実験が続けられるか分からない。無理をする積りはない。

ここまで書いて夕食前に大洲駅近くで商店を営む遠縁に挨拶に出掛けた。何時もの肱川沿いのジョギングコースを少し変更すれば良い。途中で突然夕立が降り一気に気温が下がった。今迄の色々な工夫は何だったんだろうか、でも気温が下がれば文句はない。■
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豪雨の後遺症

2018-07-19 15:11:21 | 日記
田舎に来て3日目、西日本豪雨後の田舎生活をやって行ける気がして来た。最初の日バス停を降りて直ぐに見た悲惨な景色、途中近所の床上浸水の家に伺い女主人と話し、大変な生活が待っていると思い知らされた。いわば最悪の景色を見て実家に戻った。その日の夜は色々なことを思い巡らし考え過ぎてなかなか寝付けなかった。

だが、いざ体を動かし一つ一つやるべきことをやると意外と気が楽になった。実家は無事だった。翌日隣町のスーパーで食料を買い自衛隊の給水サービスを受け、最低限の準備が確保できた。何といっても水道が使えたのは大きい。市役所の水道課から「水道は飲み物には使うな」と何度も有線で注意を受けた。2階の洗面所やシャワーは水圧が低く水量が不足しているが、トイレや洗濯が出来れば何とかなる。その他の電気・ガス・電話・テレビ・ネットは全て使えた。

昨日少し余裕が出来て堤防沿いの散歩コースを歩いた。泥に汚れた堤防の草は意外と低かった。歩いたのは肱川の支流だがそれでも一級河川だ。途中で会った知人によると、最初に氾濫がおこったのは、本流の肱川と合流する手前のやや低い堤防から濁流が乗越え東大洲一帯を水没させたという。昔農地だった低地の新興商店街に逆流したらしい。フランチャイズ店はさておき、独立小売店は撤退するところが出てきそうだという。この地点の強化が今後議論されることになるだろう。

その近くの遊園地内と周りの道路のアスファルトが大規模にはげ落ち、ズレ落ちていた。衝撃的な光景だった。逆流した時の水の力が如何に凄いか実感した。グッドニュースは直ぐ近くで床上浸水した巨大な医師会病院ビルが予定通りオープンしたらしく、駐車場には多くの車が並んでいた。その夜のニュースで報じられていた。豪雨による水害以来大洲市は全国ニュースになった。

自宅が床上浸水した集落の長老も見かけ意外に明るい顔でホッとした。彼によると松山市以北は広島まで山が真砂で出来ており土砂崩れが頻発した。広島の土砂崩れはテレビで繰り返し報じていたが、根本的に何故そんな場所に家屋を建てたのか、そっちの方が問題だと思う。一方、こちらは粘り気のある赤土なので見渡す限り山のどこにも土砂崩れの痕跡が見当たらなかった。

今日は以前から決めていた光回線をENEひかり(NTTのコラボ)からKDDI「AUひかり」に切替工事をした。聞くと工事業者は八幡浜市からで、切替工事前に水害事故に遭い中止した客もあるという。工事は外部回線から2階の分電盤までの屋内配線と、モデムとルーターの一体型から分離型に変更され分電盤に収納するもので時間がかかった。結局、当座は固定電話が使えなくとも可で妥協した。開通するまでに1週間程度かかるらしい。

昨日までに家の周囲を再点検し問題ないことを確認、外部から目に付き易い庭の手入れをし、孫と一緒に種を蒔いた花の周りの雑草を丁寧に抜いて行った。これで帰郷後すぐにやると計画していたことは一応全て終わった。この3日間は水害で苦労された人々に比べて全然大したことなかった。■
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田舎暮らし雑感2018(6) 水害後の田舎で生活再開

2018-07-17 20:49:37 | 日記
昨日12時過ぎの松山空港は東京と変わらず暑かった。何時も利用する直行便バスに乗らず一旦松山市の中心部に行き、当座必要な水などの最低限の食料を仕入れ昼食をとる積りだった。ところが市駅周辺にはスーパーが無くうろうろ歩き回っているうちに時間切れ、コンビニで弁当を買いバスに乗った。

宇和島に行くという老カップルの女性から肱川の氾濫で被害を受けた旧野村町の状況を聞いた。私も報道や知人から得た大洲市の状況を伝えた。被災地の実家に向かうという同年配の私に共感を持ってくれたようで、下車する時に「頑張って」と大声をかけてくれた。私は逆にこれは大変だと思った。

バスで高速道路を移動中は何時もと変わった景色はなかったが、いざ下車すると周りはセピア色で広い駐車場は土埃をあげてトラックが走り回っていた。二つのショッピングモールとも全く同じ、映画「マッドマックス」の荒れた風景を思い出した。幹線道路の交通量は寧ろ多めだったが、黒いアスファルトが土色になっていた。

通りかかった作業員に声をかけると2mの高さのシミを指さして洪水がここまで来たと教えてくれた。別の作業員は「東大洲一帯はみなこんなものです」と諦め顔で言った。この日も大洲市は約35度の猛暑で、質問には答えてくれたが(多分誰も聞いてくれないので)、気のせいか疲れた顔だった。

実家の近くの表通りに床上浸水した3つ年上の独居老人宅では、業者に加え子供家族の応援を得て片付けで大わらわだった。様子伺いを兼ね挨拶に立ち寄ると彼女は意外にも元気だった。大事にしていた家具やピアノなど全て駄目になり、冠水した部分の壁が落ちていたが、集落の多くの人が助けてくれたという。彼女は自宅だけだと言ったが、他にも2軒が床上冠水し家の前に畳を干していた。

実家に着いた頃には汗でびっしょりだったが、鍵を開けて中に入ると以外にヒンヤリしていた。台風7号の直前に閉め切って帰京したのだが、その方が気温上昇を防いだようだ。部分的に若干カビが生えていた位で、豪雨に拘わらず家の内外はどこにも異常はなかった。それどころか、私がどうにもならなかった西側を流れる小川が完璧に掃除されていた。水の力はホント凄い。

水道の蛇口をひねると凄い音でガスが出、続いて濁った水が、そのうち透明な水が出て来た。丁度有線放送が流れ、水道水は口には入れられないが、シャワーを浴び洗濯が出来るという。全ての蛇口を調べたが同じだった。2階の水道は圧力が低く蛇口をひねるとガスは勢い良かったが、後はちょぼちょぼ流れ出る程度だった。

取り敢えず冷凍庫の食材と弁当のペットボトルの残り水で味噌汁を作り、焼酎はオンザロックで朝食用シリアルをツマミにして飲んだ。初日の夜としてはマズマズの出足だった。その後はテレビを見ながら新聞をチェック、W杯の結果を確認し、疲れを覚えいつもより早く10時過ぎには寝た。

夜になると気温が下がりよく眠れた。昼間の気温は東京より高いが三方森に囲まれた実家の夜の方が凌ぎ易い。昨夜のうちに洗濯したシャツやタオルはもう半乾きだった。朝食はパンとリンゴにインスタントスープ、これで水が無くなった。居間の絨毯や座椅子、各部屋のマット、ベッドのゴザや枕など全て干した。覚悟はしていたが猛暑の中で総てを自分でやるのは中々大変だがやるっきゃない。

車は一発で動いてほっとした。これで自由に動ける。東京に戻る前から約束だった海外出張帰りの友人と昼食をとった後、隣町の内子のスーパーで食料を仕入れた。丁度高齢者5%割引デーでレジの女性が親切に登録してくれた。皆、優しい。それでも馴染みのスーパーよりやや割高だった。

その後、地元の公民館に向かい給水サービスを受けた。予想通り自衛隊の支援で、聞くと善通寺部隊と旭川部隊から夫々数人が派遣されてきた。午後2時頃は私の他に誰も給水に来ていなかった。若い隊員が車を降りたところからペットボトル3本に給水して戻るまで全部面倒を見てくれて助かった。

ということで今日の夜からほぼ普通の食事をとり普通の田舎生活が出来るようになった。結果的には娘達が勧めてくれたように田舎行きを延期して良かった。これから秋まで田舎生活を再開する。■
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天邪鬼・西日本豪雨考

2018-07-16 18:48:26 | ニュース
例によってテレビ等のマスコミが報じそうにない視点から書いてみたい。今、成田で松山行きフライトを待っている。

テレビやネットが報じた西日本各地の被災地の状況は悲惨だった。普通の人の生活基盤を根こそぎ破壊した。今回の豪雨被害の特徴は被害者の8割は高齢者だという。中でも避難勧告とか命令が出ても自分にまでは被害が及ばないだろうという高齢者が多かったと報じるニュースを何度も見た。

その理由の一つは日本の高齢者が昔と比べ圧倒的に多く、高齢者だけの所帯が増えたことだ。単純に体が動かず避難出来なかった。しかし、どうも高齢者比率以上に高齢者の死亡者が多かったようだ。認知症という程ではないが危機に対する感度が低下していた高齢者も多かったようだ。

冷たく言えば最近の高齢者は所謂「公助」慣れして、自ら命を守る気持ちが薄くなったのではないかと思う。私が子供の頃の年寄は「他人の世話にならない」と言って、自助・独立の精神が強かった様に記憶している。今は当時より寿命が延び相対的に足腰の弱い人が多くなった、同列には語るべきではないが。

次に被災地の多くが比較的新しい家が多かった印象がある。被災した住宅の多くは50年前は農地とか山林だったところで、比較的新らしく宅地として開発され建てられたのではないかと想像する。更に想像すると、それ以前には家を建てない理由があったのを忘れられたのではないだろうか。

例えば私の子供の頃、つまり60年前の大洲盆地は城下町とか商業地は若干高い土地にあるなど何らかの形で洪水から守られていた。一方、農家の集落は山の裾野のあちこちの谷間に点在していた。それ以外の平地は見渡す限り農地で、毎年台風シーズンになると川が氾濫し冠水していたがそれだけの事、ニュースにもならなかった。

今回川が氾濫し洪水の被害を受けた家屋は映像を見る限りかつての農地だったところに建てられたように見える。多分、近くを流れる川の堤防が強化され毎年起こった洪水が50年から100年に一度になり同時に離農者が増えて、かつての農地に商業地や住宅地が造られたのだと思う。

今回の豪雨はかつてない規模と言われるが、その50年から100年に一度のことが起こったのだと思う。近所の80-90代のオバチャン達が言うには昭和18年の大雨の時より被害を受けた家はまだ少ないそうだ。幾ら治水を強化してもそれ以上のいつか大雨が降る、その時の備えが無かった、昔の教えが生かされなかったということだ。

私事だが東京に自宅を建てる時、下町で不動産業を営んでいた父の友人は私が会社に通勤出来る範囲で、過去の水害を徹底的に調査して現在の自宅の土地を選んでくれた。今頃になってその意味がよく分かった。ここでも当時は田んぼか梨園だった低地(府中市ではハケ下という)は住宅地になっている。

我が国では800万を超える空き家がある一方、人々は新築の家を好む傾向が強いらしい。だが、家の選択より土地の選択を優先し、中古住宅に最新の耐震技術とかエコ設計を組み込んで有効活用することを真剣に考えるべきだと思う。

実は50年前頃だったと思うが、父は田舎の治水等の責任者だったと母に聞いたことがある。その時、担当した堤防等の強化で50年か100年に一度の大雨に耐えられるとか耐えられないとか聞いた記憶がある(勿論、一級河川なので国が担当なのだが)。今、彼は何を思っているだろうか。■
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天邪鬼・トランプ大統領評

2018-07-15 16:04:30 | ニュース
最初に言っておくが、個人的にはトランプ大統領が大嫌いだ。彼の自分本位の性格や粗野で一貫性のない言動、とりわけ民主主義の基礎となる「法の下での平等」を無視するかのような振る舞いは我慢できない。自称「アメリカかぶれ」の私が尊敬するアメリカ人が、よくもこんな滅茶苦茶な人間を大統領に選んだものだと嘆く。

その上で、トランプ大統領の愚行の中にも他の誰もが出来なかったことをやっていると評価する、しかも結構多くの政策に同感することがある。彼のバカさ加減にうんざりしている一方で、誰もが逡巡する困難な政策を打ち出しガンガンやっている。そこに焦点を当て議論するのが本文の目的だ。

現在訪問中のEUでもトランプ大統領が主張するEU諸国軍事費倍増要求や貿易赤字解消など、「自国第一」主義に基づく根拠が曖昧な要求が話題になっている。しかし、米国が注ぎ込んでいる軍事費の数字から見れば、米国の要求はそれ程無茶苦茶という訳ではないと私は思う。

メルケル独首相と激論になったとされる「ドイツが新たにロシアから天然ガスを輸入する」件につき、大統領は「制裁をかけて敵対するロシアにエネルギー依存を高めるのは欧州の安全保障を弱体化させる」と厳しく批判したとされる。私はもっともな批判で、ドイツは大義のないご都合主義の政策を取っている様に見える。旧東欧諸国は反対するが声が小さく、トランプが代弁したと感じた。

発言の裏にはトランプ大統領は米国産天然エネルギーを売りたい狙いが隠されているとの批評があるが、仮にそうだとしても大統領は筋の通った発言でドイツを非難したことに変わりはない。EU内で圧倒的力を持つドイツに忖度してものが言えなかった国は、よくぞ言ってくれたということになる。

そういう意味では世界が驚き息を飲んで見守るのが米中貿易戦争だ。トランプ大統領の本音は過去に前例のない巨額の貿易赤字の解消であっても、建前の一つに中国の知的財産侵害を重大問題として取り上げて改善を求めたのは全く正しい。全世界に共通する問題なのに中国は無理押ししていた。

従来、中国市場の大きさと更には将来の潜在力の大きさの魅力に負け、及び腰の各国政府と企業は現地企業との合弁を強いられ知的財産を公開させられていた。初めは強権的で人権無視の政治を非難していた国もそのうち沈黙し、国際ルールを都合よく捻じ曲げた中国のやりたい放題になっている。それにトランプ大統領は待ったをかけた形になっている。どの国の誰も出来なかったことをやった。

ここまで褒めたところで、トランプ大統領の二期目は絶対阻止しなければならない。最近の情勢分析では民主党が絶対有利とされてきた中間選挙も共和党が持ち直してきた。このままでは米国も世界もガタガタにされ修復不可能になる。一期目はメチャメチャで首尾一貫しない形でも重要な問題を明らかにした。だが、思いつきの実行では民主主義の理念や自由貿易の基礎が壊れてしまう。

このままではIブレマー氏の洞察の如く「G0(Gゼロ)」の時代がとんでもない方向に進んでしまう。トランプ大統領のやっていることは、自国の都合で動く普通の国の振る舞いであり、それ自体は非難できない。だが、米国が果たしてきた戦後世界の中での特別な役割を放棄したとして、許せないのは破壊することだ。彼はそれを露骨で粗野な形でぶち壊そうとしている。

戦後米国の役割は特別に偉大で他のどの国もなしえなかった。幸運にもトランプの代りに次期大統領が選ばれたとして、力の衰えた米国が取り得る政策は限られているかもしれない。少なくともトランプ大統領は分かり易い形で問題提起した。そこに期待したいが、楽観的にはなれない。■
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