ついでに、若かりし頃の、クラス会の写真をみた。この中で、赤い印の者だけが、元気でいると思う。写真の前列の左から二人目の女性と、三人目は、二年生の時の担任と、三年生の時の担任の先生です。同級生には、昨年の、年賀はがきは、届けている。はがきも、来ている。その時の添え書きに、来年からは、失礼すると、断わりを書いた。今回、同級生のことを書いたのは、先日、小生に、無用の用で、声を聞ききたかったと、一人の女の同級生から、電話があった。誰かの、逝去の連絡かと、思った。まあ、この歳になれば、一人また一人と、この世を去る。数人の女性は、介護が必要な、認知症だと、電話や、手紙で連絡があった。寂しい思いをするのも、いやだし、連絡をする方も、連絡したくないだろうと思っている。人のことを心配するよりも、まずは、わが身のことだっぺぇ、です。
同級生その3に、掲載をしたものが、 別の幹事に届いていた。その続き。当時、在京の者が、クラス会を開催をしていた。誘いがあって、二回、日帰りで、出席した覚えがある。その時のことは、覚えていない。七、八人で、わいわいと、やって、当時、青森行の寝台車で、帰ったことがある。画像の文を書いた者は、静岡県の浜岡原発に近いところに、住んでいたが、三年ほど前に、逝去をしている。連絡があったが、弔電で、悔やみを伝えた。前回と今回、画像を掲載をしたが、ご来訪していただいても、読めただろうかと、思っている。
画像は、前回掲載をした写真で、右側の上の男性が、同級生。クラス会の開催の案内を、送った時の返事だった。クラス会の、もう一人の幹事宛に、届いたもの。小生の所へ、転送してきた。中学校卒業以来、まったく会っていない。面影も全く浮かばない。一昨年、逝去したことは、年賀欠礼のはがきで、知った。
画像の、左側の句も、70年前に中学校を卒業以来、一度も会っていない同級生のもの。クラス会開催の案内をしていた。出席はなかった。冊子の作成の原稿を依頼したこと。年賀はがきの、やり取りの付き合い。一昨年に、以後、年賀はがきは、出さないと、お断わりした。ずーうっと若い時分に、中通り南部で、教員をしていると、知った。小生の叔父が、その地方の、教育委員会に、赴任をしていた時に、同級生と、知ったと、聞いた。70年前の、面影は、まったく覚えていない。
拙いブログの、アクセス解析を、時々みると、2014年7月に、掲載をした、「同級生の俳句」を、訪問していただいている方が、たびたびいる。感謝です。画像の、右の下の、女性が、当時、クラス会の案内を、連絡していた、その返事のなかに、句があった。交流誌に載せるからと、句を手紙で、送るようにと、連絡をした。当時のその時は、便せんに書いたものが、たどたとしい字で、判読も、ままならなかった。折角なので、手のひら大の、表紙が、赤い小紋柄の、俳句帖に書いて、返送をした。すると、礼と一緒に、同じ句も、混じったが、便せんに書いたのが届いた。今度は、表紙が、青色の小紋柄の俳句帖に、春夏秋冬と、区別をして書き、返送をした。その一年後の頃だと思うが、その女性の娘さんからも、認知症が進んでいるので、以後、連絡は不要とのことだった。その女性とは、70年前の、中学校の同級生で、その時の面影も、まったく思い出せない。東京都に在住後、埼玉県に転居と思うが、今は、消息は、分からない。