goo blog サービス終了のお知らせ 

一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

記憶は書き換えられる(第3話)「妄想」

2020-08-07 00:05:04 | 小説
それからしばらく経って、夏子さんから、自身の写真と1995年の大判手帳が送られてきた。写真は私がリクエストしたもので、手帳は今回のスタンプラリーの御礼であろう。
写真はスーツ姿で、全身が映っていた。ただ、やや下方から撮っているせいか、アゴのあたりがふくよかに見えた。笑顔も多少ひきつっていて、夏子さんの魅力が表れているとは思えなかった。それにしてもたった1年で、ずいぶん印象が変わったと思う。
その後私はネジ工場を辞め、再び就職活動に勤しんだ。就職はすぐにでも決まると思ったが、意外に難航した。
この間、夏子さんへの想いはあったが、アプローチするかは微妙なところだった。
私の高校は男女共学だったが、男女比が4:1で、男子クラスと共学クラスがあった。私は1年、2年とも男子クラスで、将棋部に入部した私は、まったく女子と交流を持てなかった。
3年生のとき、やっと共学クラスになれたが、クラスは受験一色で、女子と楽しめる雰囲気ではなかった。でも私は、クラスに女子がいるだけで幸せだった。
そして1994年の時点でも、私にはそのスタンスが残っていた。夏子さんの住所を知っただけで、私は満足していたのだ。あの胸を揉みしだきたいと熱望していたものの、野獣剥きだしで交際を申し込み、断られたら元も子もない。どうせ夏子さんとはまた会える。自然に任せてふたりの仲が進展すればいい、と構えていた。
そしてこれが重要なのだが、当時の私には、まだ角館の美女のことが頭にあったのだ。心の隅で、郁子さんからの連絡を待っていた。これでは夏子さんにアプローチできるわけもなかった。
私は1994年10月に、ある広告代理店に入社した。この会社は社長のワンマンで雰囲気は最悪だったが、私はまだ若かったから、仕事に精を出した。
そして気が付くと、6年半が経ってしまった。この間、夏子さんへ連絡は一度もせず、彼女からも来なかった。角館の美女の消息も掴めず、2001年4月、私は家の工場の仕事を手伝うため、また転職した。この時私は35歳。もう夏子さんは過去の人になってしまっていた。
いまではこの6年半の沈黙がどうにももどかしいが、当時の私が、結婚に対して積極的でなかった。同年代に比して収入は低いし、人間的に問題があるのもよく分かっていた。アピールポイントもなく、結婚できる器にないと悲観していたのだ。
工場では内勤になり、他者との交流は皆無になり、完全に結婚から遠のいた。
この数年間、私はあるエロ雑誌に、エロイラストを投稿していた。私は絵に自信があったから、採用率は100%に近かった。その2回目だか3回目だったろうか。イラストの女の子が夏子さんそっくりになってしまい、驚いたことがある。夏子さんのことが、まだ頭のどこかに残っていたのだ。
その後、弟が結婚し子供を設けたときは、ギリギリ跡継ぎができたと、胸をなでおろしたものだった。
姪と甥の成長は早く、私は複雑な気分で、彼らの成長を見守った。
その後私はLPSA駒込サロンにいりびたり、ある女流棋士に入れ込むことになる。しかしその女流棋士の結婚により、私はまたも郁子さんや夏子さんに回帰するのであった。
ラジオの文化放送では、2016年10月から、「ミスDJリクエストパレード」が始まった。これは女子大生ブーム真っ只中だった1981年に、女子大生による深夜DJとして始まったのが嚆矢で、当時高校生だった私は、勉強そっちのけで番組を聴いたものだ。
今回は、当時のDJだった千倉真理が再登板し、土曜昼(現在は日曜)に復活したものだった。
リスナーも当時のリスナーが多く、当然ながら既婚者が大勢を占めていた。私は自分が蚊帳の外に置かれた気分で、ここに至って、我が未婚を後悔した。
2017年、工場が廃業することになり、私は自営の仕事を辞めた。
私はまたも職探しの毎日になったが、今度は20代のころと違い、全然うまくいかなかった。2018年3月、交通広告を主業務にしている広告代理店の面接を、やっと受けることができた。面接は快活に進んだが、最後の質問が
「あなたのいままでの人生は、運がよかったですか? 悪かったですか?」
だった。
対して、脳裏に夏子さんがあった私は、妙な回答をする。
「面接上、運がいい、と言ったほうがいいとは思うんです。だけど夏子さんの件もあるし……いえすみません、運が悪いほうだと思います。自分の心に嘘はつけません――」
結果を書けば、私はその会社を落ちた。そりゃそうだ。会社は、運が悪い男と一緒に働きたくはない。
2019年正月、私は夏子さんへ年賀状を出した。遅すぎるアプローチである。夏子さんは結婚して家を出ているだろうし、引っ越している可能性もある。だが、何かアクションを起こさないと、やってられなかった。
年賀状には、ほかの知人に出したのと同じように、「私の10大ニュース」を書いたから、「家業を廃業して求職中」がトップニュースに来てしまった。
仮にこの年賀状を夏子さんが見たとしても、何も心に響かない。当然、夏子さんから返事はなかった。
2020年、世界的にコロナ禍になり、職安訪問以外にほとんど外出がなくなった私は、ますます夏子さんのことを考え始めた。我が半生を顧みて、夏子さんとの交流が結婚のラストチャンスだったことが分かった。
もちろん夏子さんの後も、ユースホステルなどで、何人かの女性と住所交換をすることはできた。そのうちのひとりとは、2020年の現在も、年賀状のやり取りは続いている。
だが再会を果たしたのは、夏子さんが最後だった。あの時私はまだ20代。結婚など全く視野に入れていなかったが、もう焦るべき時期だったのだ。
問題は夏子さんが交際を受け入れてくれたかどうかだが、最初は彼女が私に連絡をしてきたのだから、こちらが押せばうまくいった気がする。南足柄市は遠いが、角館に比べれば隣町みたいなものだ。毎日でも南足柄市に行ってやる。
そして、夢にまで見た夏子さんの胸を揉みしだく。その後は同棲するのだろうか。それはどこだったんだろう。狭いアパートでも、楽しく過ごすのだろう。
そして私はプロポーズする。これもうまくいくに違いない。
結婚生活も、順風満帆になるのだろう。元来私はモデル美人系がタイプで、郁子さんや寝屋川市の真知子さんがそれにあたる。夏子さんはかわいい系なのだが、結婚生活を考えた場合、夏子さんが隣にいてくれたほうが、心が休まるのではないか?
私たちの子供は、どんな顔になったのだろう。たぶんかわいいんだろうな。両親にも孫の顔が見せられて、私は長子としての顔が立つ。
ただしこの人生を歩んでいたら、間違いなくこのブログはない。「将棋ペン倶楽部」にも投稿していない。LPSA駒込サロンにも行っていないし、LPSAも応援していない。植山悦行七段、大野八一雄七段らとも、ジョナ研メンバーとの交流もない。仕事も、父の工場は手伝わなかったかもしれない。だけどそれでいい。夏子さんとの生活があるなら、以降の人生がすべて変わっても構わない。
ただ、姪と甥の運命は変わったと思う。私が早く結婚すれば、弟も、当時付き合っていた女性と結婚していたかもしれない。そうしたら姪と甥は……。
そこまで考えて、私はハッと我に返る。そこには、負け犬の独身中年がいるだけだった。
昼の妄想は断続的だが、寝床ではそれが長時間続く。7月28日の夜(29日)などは、それで一睡もできなかった。29日昼、私はたまらず、将棋ペンクラブのA氏に、飲み会を申し込んだ。こんなご時世だから自粛したいが、そうも言っていられなかった。このままでは、私が憔悴して死んでしまうと思った。
A氏は8月1日を指定してくれた。しかしその日までが長かった。29日(30日)も、一睡もできなかった。30日(31日)も、夜中の2時過ぎにウトウトしたが、ヘンな夢を見て、すぐに起きてしまった。
傍らのカゴには、奇跡的に1994年の手帳が置かれていた。私が夏子さんに再会した年のものだ。いままで何度か大掃除をやったのに、この手帳だけは捨てられなかった。
私は恐る恐る手を伸ばす。
中を開くと、驚くべき記述があった。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶は書き換えられる(第2話)「再会」

2020-08-06 00:56:22 | 小説
封を開けると、「東急89駅小さな旅すたんぷポン!」というスタンプ帳が入っていた。同封されていた手紙を読むと、それは奇妙な内容だった。
要約すると、夏子さんの友人が東急89駅のスタンプラリーをやりたくなったのだが、本人は遠くに住んでいて、それができない。そこで夏子さんが「代押し」を頼まれたのだが、彼女も南足柄市住まいでやはり遠い。
それで夏子さんが私に、代わりにやってくれませんか? と依頼してきたのだ。
「東急89駅小さな旅すたんぷポン!」はもちろん東急グループの企画で、期間中、駅に設置された記念スタンプを全部押すと、認定証と記念プレートがもらえるというものだった。しかしこのスタンプ帳、イラストが子供向けで、とてもいいオトナがやるものではない。
私はやや肩透かしを食ったが、夏子さんから連絡があったことはうれしかった。私の脳裏に、夏子さんの胸が浮かぶ。いや、すべてが浮かぶ。私は夏子さんが好きだったから、一も二もなく引き受けたいと思った。
でも……と思う。この類の企画は、自分がその場に行って押すから記念になるのであって、代押しで記念品を入手しても、何の価値もないのではないか?
だが私もほれた弱みである。私は東急沿線へいそいそと出掛けると乗降を繰り返し、子供たちの列に交じり、各駅でスタンプを押した。
ただ、1駅だけは残しておいた。私は夏子さんに手紙を書き、「これは夏子さんと私で押しませんか?」と提案した。これで夏子さんが東京に出てきてくれれば、デートすることもできる。
夏子さんも快諾し、それは7月10日(日)の夜と決まった。だがこの日は、私にとって別の意味で、勝負の1日だった。
すなわち、私は「角館の美女」が忘れられず、あれから6年近く経って、ついに郁子さんの実家に出向くことにしたのだ。それが7月3日(日)だった。私は彼女の実家にたどり着き、お母さんに会えた。お母さんとはじっくり話ができ、私は郁子さんの生年月日や、ここの電話番号を教えてもらったのだ。
だが肝心の郁子さんはすでに家を出ていて、親子の仲もうまくいっていなかった。彼女の現住所も、教えてもらえなかった。ただ、「あなたから何か送りたいものがあれば、それを転送します」とは言われた。
私は彼女をモデルにした小説を執筆していたので、彼女への熱意を表すため、その小説を直接届けることにした。それが翌週の7月10日だったのである。
だが10日は散々だった。今度はお父さんが出てきたが、お父さんは目が不自由でサングラスを掛けており、私は不審者扱いされ、どやされた。まったく聞く耳を持ってもらえなかった。前週のお母さんとは180度対応が違い、私は落胆した。
その帰途、私は夏子さんと会う羽目になったのである。当日、彼女とはどこで会ったか憶えていない。ただ、新幹線から降りて10分もしないうちに会った記憶がある。上野だったのだろうか。
1年振りに会う夏子さんはかわいらしかった。紺のスーツ姿も似合っていたが、胸が強調されていないのが残念だった。
そんな夏子さんは開口一番
「大沢さん、怖い顔してる」
と言った。
私は、これから女性に会うからといって鼻の下を伸ばす男ではないと、硬派を気取ったのだ。だが半分は、郁子さんのお父さんに叱責されたことで、不貞腐れていたのかもしれない。
私たちは東急の駅で、最後のスタンプを押した。
次は、事務所に行って手続きである。スタンプラリー帳を見せると、記念プレートと、認定証をくれた。認定証は割としっかりしたもので、B5版くらいあった。氏名の欄には、「大沢夏子」と書いてもらった。ふたりで最後のスタンプを押したからだが、私は、夏子さんがこの名字になりますように、との祈りを込めたものだった。
だが夏子さんは、そのスタンプラリー帳と記念プレートを、私にくれると言った。
いやいや、これを最初の依頼人に渡すのが目的だろう? あれ?
……もしやこのスタンプラリーは、夏子さんが私に会うための口実だったのか? そういえば、この認定証も、別人の名前を書いてしまった。これじゃあ友人に差し上げるものがない。
仮に口実だったとしても、私が苦労して集めたスタンプである。そこはやはり記念として、彼女に収めてもらいたかった。
私たちは居酒屋へ行った。ずいぶん解放感のある店で、室内が明るかったことは憶えている。
夏子さんは私の左に座り、私たちはもつ鍋を頼んだ。当時はこのメニューが流行っていたのである。私たちは生ビールで改めて再会を祝し、乾杯した。
ここで話した内容はほとんど憶えていない。ただ行きがかり上、私が「角館の美女」のことを話した可能性は高い。いまここで生身の女性と逢っているのに、幻の美女を求めて、2週連続で角館に出向いた……。これでは夏子さんも、いい気持ちはしなかっただろう。
だが私は、寝屋川市の音田真知子さんと会った時も、この話をした気がする。私はこの辺の女性心理が全然読めなかった。
夏子さんは現在どこかの会社の営業部員で、ふだんはクルマに乗っているとのことだった。昼食は、大学の食堂で摂ることが多い、と言った。
ちなみに私はといえば、1994年7月当時は叔父のネジ工場に勤めていたが、会社の経営不振が顕在化し、私はこの月をもって辞めることになっていた。まさか私は、無職になることまでしゃべったのだろうか……?
夏子さんがこちらを見ては、にっこり笑う。それは本当に、かわいらしかった。それは26年経ったいまでも、はっきりと私の脳裏に残っている。
(夏子さんは、付き合っている男性はいるんですか?)
この言葉が本当に、喉のここまで出かかった。だが、「Yes」の答えが怖かった。
また「No」と返ってきたら、私は次の言葉を言えるのか?
「僕と正式に付き合ってください」
と。そしてそこで「No」と言われたらどうするのか。せっかくここまでいい雰囲気で来たのに、私がこの先の発展を求めることで、ふたりの仲がギクシャクしたら、それは早まったことになる。
私はこの2年前、職場の同僚に告白し、バッサリと振られていた。あの屈辱を味わうのは、もうイヤだった。
さらに書けば、このとき私の脳裏には「角館の美女」が支配していた。私のキャパシティでは、同時に2人の女性を追いかけることはできなかった。それに私は今月、無職になる。「無職」と「デキル営業部員」とでは、立場が違う。私は告白できるステージに登っていなかったのだ。
そもそも、私が夏子さんの住所を知れたのは、旅先での青年の配慮によるものだった。それを私が別件で利用していいのかという、妙な逡巡もあった。
焦ることはない。私が夏子さんに交際を申し込むのは、あと1、2回デートしてからでいいと思った。
彼女が帰る時間になった。南足柄市は、御殿場線だろうか。小田急で行っても、かなりかかる。私は夏子さんの切符を買おうとしたが、彼女は断り、自分で買った。
電車に乗る夏子さんを見送りながら、次はいつ会えるだろうと思った。
だが結果的に、私が夏子さんに会うのは、これが最後になった。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶は書き換えられる(第1話)「南足柄市・滝本夏子」

2020-08-05 00:20:30 | 小説
私は齢50をとうに過ぎて未婚で、まあそれは仕方ないが、最近は老化現象が著しくなったこともあり、もし自分に子供がいたら、それはどんな子だったのだろうと考えることが多くなった。
せめて結婚だけでもしていれば両親を安心させられたのだが、それすらできなかった。両親には期待を裏切ってしまったと、心から詫びたい気持ちである。
そんな私にも、かつては結婚したい人が何人かいた。望まれるなら、その場で婚姻届けに判を捺してもいいくらいだった。だけど魅力的な彼女らを前にすると、私は急所の局面で怖気づき、すべてをご破算にした。
現在はコロナ禍のうえ私は求職中なので、無駄に時間がある。だが人間、時間があるとロクなことを考えない。私の場合は変えられない過去を思い返しては、あの時ああすればよかった、こうすればよかったと頭を抱えるのだ。そして最近では、旅先で知り合ったある女性のことが思い出され、私を苦しめている。いままで想起したことはなかったのに、封印された記憶が、何かの拍子に開かれてしまったのだ。
以下は、そんなダメ人間の情けない述懐である。

あれは1993年の夏だったと思う。私は2泊3日の東北旅行に出かけた。
当時の宿泊地はもちろんユースホステルで、初日は青森県某所のYHに泊まった。すると、そこに魅力的な女性ホステラーがいた。その夜は多少会話をしたと思うが、よく憶えていない。
翌朝出発することになったが、昨晩の彼女と、青年2人組の計4人が、東北本線下りの普通列車に乗ることになった。
ボックス席には2手に分かれて座ったと思う。私のナナメ向かいに、彼女が座った。
彼女はショートヘアで、癒し系の顔立ちだった。着ているTシャツはブルー地で、金色で「愛」と大書されていた。首回りは意外に露出があり、鎖骨がくっきり見える。胸のあたりは優美な膨らみを見せ、私は生唾をゴクリと飲み込んだ。
当時私は27歳。頭の中の9割は、女性への妄想で占められていた。私は彼女とお近づきになりたかった。何とかして、住所を知りたかった。これを解決するには写真を撮らせてもらい、それを送るために住所を聞くのが一番である。実際1988年の「角館の美女」の時は、それで成功したのだ。
だがこの場で写真は唐突すぎる。この日私は下北半島の「脇野沢YH」に泊まるので、野辺地で乗り換える予定だ。彼女はもっと先に行く。このまま、彼女とは別れるしかないのか。
だが発車してしばらく経つと、青年2人組が、「4人の写真を撮りましょう」と言った。地元の乗客にカメラマンになってもらい、4人一緒のところを1枚写す。そして青年が写真を送るために、私と彼女に住所と名前を書かせた。そこで彼らの配慮が見事だった。彼らは私たち4人のそれを教え合うよう、指示してくれたのだ。
彼女は神奈川県南足柄市在住の、滝本夏子といった。奇跡は起こった。これで彼女との糸が繋がったのだ。
青年2人組はすぐに下車し、私は夏子さんと2人きりになった。旅先の車中で2人きり、は初めての経験だった。私のドキドキは最高潮に達していたが冷静を装い、
「その『愛』のTシャツが素晴らしいですね」
と言った。
「ありがとうございます。私もこのTシャツ、気に入ってるんです!」
夏子さんがにっこりと笑って言った。完全に私は、心を持っていかれていた。
私は彼女の胸をチラ見しながら、会話を繋げる。彼女も楽しそうで、私はムラムラした中にも、居心地のよさを感じていた。大袈裟にいえば、夫婦はこんな感慨を抱くのかと思った。
話に夢中になり、私は我に返る。……あれ? もう野辺地を過ぎちゃったんじゃないか?
確認すると、果たしてそうだった。
脇野沢へは、下北半島を横断するのと、青森から高速船で行く手、津軽半島の蟹田からフェリー行く手がある。いまの私だったら、そのまま夏子さんにひっついて、青森までは行くだろう。
だが当時の私は最悪の選択をした。時刻表で上り列車の時刻を調べ、最も待ち時間の少ない駅で折り返すことにしたのだった。
目的の駅に着き、私は後ろ髪を引かれる思いで下車した。夏子さんとの、束の間の楽しい時間はあっけなく終わったのである。

帰京してしばらく経ったある日、例の青年からあの時の写真が送られてきた。しかしその写真は盛大にブレ、全体が二重、三重になっていた。夏子さんは胸元と鎖骨が映え、胸も綺麗に膨らんでいた。私はその胸を揉みしだきたい思いにかられた。
だが、私は何もアクションを起こさなかった。もちろん夏子さんに会いたい気持ちはあったが、誘う口実がなかった。電話番号は知らされなかったから連絡手段は手紙になるが、ただ会いたいから、という理由は短絡すぎる。それに夏子さんだってあの時は、流れの中で住所を書いただけだ。それを目的外の理由で利用されるのは不本意だろう。
それに私の頭の中には、5年前に角館で会った、千葉郁子さんがあった。もしアプローチするなら、郁子さんが先ではならなかった。

そんな1994年夏、私あてに中判の封筒が届いた。差出人を見ると、「滝本夏子」とあった。
夏子さん……!? なんで??
私は息が荒くなるのを感じた。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

角館の美女(最終回)

2018-11-16 01:17:32 | 小説
(14日のつづき)

私と郁子さんが武家屋敷通りを歩いた時、郁子さんは美容院のママさんと食事を摂ってきた、と言ったのだ。
ということは、郁子さんはそのママさんとはかなり親しい間柄であろう。となれば二人が年賀状のやりとりくらいしているかもしれない。その美容院をあたろうと思ったのである。
私は平成13年3月に広告代理店を退職し、4月より家で働き始めた。仕事内容は無味乾燥なものだったが、人と交わらない気楽さはなかなかによかった。
ゴールデンウィークは暦通りの休みとなり、5月3日、私は角館へ向かった。私はこの翌年から、ゴールデンウィークの旅行は博多どんたく専門になったが、当時は北海道や東北、上越など、毎年違うエリアを訪れていた。
東北新幹線09時56分東京発の「やまびこ9号」に乗った。ゴールデンウィークの真っ只中なので指定席は取れず、自由席を立って行く。一ノ関でようやく座れた。
盛岡で秋田新幹線「こまち11号」に乗り換え、14時21分、定刻を1分遅れて、新幹線は角館に着いた。
早速美容院をあたればいいのだが、それは興信所みたいな行動なわけで、さすがにプレッシャーがかかる。まずは桧木内川堤の桜並木を見に行った。
武家屋敷通りを抜けると桧木内川にぶつかった。約2キロの川沿いに、約400本のソメイヨシノが艶やかに咲き誇る。小高い丘に登って全容を見渡すと、それは素晴らしい光景だった。この同じ景色を、郁子さんは何度も見たのだろう。
名残惜しいが、武家屋敷通りに戻る。私が郁子さんに会った時、彼女は駅方面からやってきた。すなわち、彼女の自宅からここまでのエリア内にその美容院があると考えられる。
それで街中をあたってみたが、意外に理髪店や美容院が多いのに驚いた。そういえばサイトウ理髪店もそのひとつだ。
一軒一軒あたればいいのだが、さすがに気後れしてしまう。13年前にはなかったようなシャレた店舗は省き、個人で経営してそうな店を選ぶ。それでもなかなか入りづらい。
「三浦笑子美容室」という、こぢんまりとした造りの店舗があったので、思い切って入った。
そこには40歳前後と思しきママさんが、小学生低学年と思しき少女の髪を編んでいた。ママさんが三浦笑子さんだろうか。そしてその傍には、彼女の母と思しき女性がいた。客らしき人はいなかった。
私はママさんに、おずおずと用件を切り出す。こちらはラストチャンスと思っているから、ひたすら低姿勢である。ママさんは一瞬怪訝な顔をしたが、話を聞いてくれることになった。ただこう言ってはなんだが、ここまでの経緯は、少なからず興味を惹いてくれると確信していた。
この何年か前のことである。講談社発行の青年漫画誌「ミスターマガジン」に、「領収書物語」という人気漫画があったのだが、ある時特別企画として、この原作を読者から募集することになった。入賞数作は漫画化されという特典である。
そこで私は「角館の美女」を基に物語を作り、投稿した。すると、462名の応募で73作品が一次選考を通過したのだが、その中に拙作も入っていた。残念ながら入賞は無理だったが、私の体験談は客観的に見ても面白いのだと確信した。
果たしてママさんは途中で口を挟むでもなく、少女の髪を編みながら、時に相槌を打って聞いてくれた。おばあさんも席を外すことなく、私の話を静かに聞いていた。
すべて話し終えると、ママさんが
「郁子さんなら知ってるわよ」
と言った。だがいっしょに食事をする仲ではなく、近所に住んでいる、との認識があるだけだった。「何年か前に見たかなあ」
「見た!」
だがその情報は私だって知っている。平成6年、私が郁子さんへのアプローチを2~3週間早めれば、私からの手紙を彼女が読んでくれたかもしれないのだ。
「うん、話をしたわけじゃないけど。でも郁子さん、結婚したんじゃなかったかな」
「結婚した!?」
「うん、そんな話を聞いたことがあるんだけど」
やはりそうであろう。彼女も今年の7月で37歳だ。どう考えても、結婚しているはずである。というか、7年前でさえ、彼女には将来を決めた男性がいたのだ。「でも分からないよ。お姉さんだったかもしれないし」
その言葉が虚しく聞こえた。
「……あのう……角館はずいぶん美容院が多いように思うんですが」
「そりゃそうよ! 秋田県は美容院の割合が日本一なんだから!」
ママさんは力強く言った。このかなり数年後、日本テレビ系の「笑ってコラえて!」で知ったのだが、秋田県は中村芳子という美容師が国産パーマ機を日本で最初に取り入れ、美容業界の発展に多大な貢献をしたらしい。それに伴い秋田県は美容院の数が多くなったという。
また秋田県は女性が下着にかけるお金も多いらしく、さすがに秋田美人の面目躍如というか、内面と外見から美しさを磨いていたのであった。
「あのう……郁子さんに連絡を取れる方法ってないでしょうか」
「ないわねー。じゃあさ、あなた今ここで郁子さんに手紙を書きなさい。もし私が郁子さんを見かけたら、その手紙を必ず渡すから」
なるほど前回のうどん屋は名刺を渡すだけだったが、手紙を添えれば、また違う結果になるかもしれない。
そこで私は、その店の片隅で、郁子さんへの思いをしたためた。でも我ながら、何をやってるんだろうと思う。
私は何とか書き終え、この3月で使わなくなった名刺とともに、ママさんに差し出した。
「うん、確かに預かりました。私はこの内容を読まないよ。それでこう……はい、封筒に入れました。もし私が郁子さんに会ったら、必ずこの手紙を渡します。約束する。それで郁子さんからあなたに返事が行けばいいし、行かなかったらそこまでの関係だったってことだよ」
「ああ、ありがとうございます」
私はその一家に丁重に礼を言い、店を出た。厳密に言えば、郁子さんと食事をした美容院ではなかったわけだから、本当ならほかをあたらねばならない。しかしもうその気力が残っていなかった。こんなバカな真似はもうできない。私はそのまま、角館を後にした。

そして帰京して何ヶ月経っても、郁子さんから連絡は来なかった。これは当然予想できたことで、落胆がなかったといえば嘘になるが、覚悟はしていた。
郁子さんに会ってから13年、遅ればせながら、私はよく頑張ったと思う。実家を訪ねてご両親に会い、彼女の名前の由来や生年月日も教えてもらった。新卒で入った会社も知り得たし、角館の方々の親切にも触れることができた。
でもやっぱり、つらい毎日だった。もしあの日私が角館に降りなかったら……。もし私が武家屋敷に行かなかったら……。もし書き物をしていた女性があのままコーヒーを出していたら……。どのすべてが欠けても、私は角館の美女に会うことはなかった。あんなに苦しい思いをしなくて済んだのだ。
では会わないほうがよかったのか?
いややっぱり、会えてよかったと思う。いままで私は、あんなにひとりの女性を好きになったことはなかった。そしてその幻の女性に会うために、なりふり構わず行動したのだ。
私が中年になった今、真っすぐに生きていた当時の自分が懐かしく、そして誇らしくも感じられるのである。
(完)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

角館の美女(第6回)

2018-11-14 12:37:07 | 小説
(2017年1月29日のつづき)

秋田新幹線田沢湖線の線路と交差するその道路は深く掘り下げられ、地下通路になっていた。つまり踏切が廃止されていたのだ。
なるほど在来線との併用とはいえ、新幹線に踏切はそぐわないのだろう。1年間の沿線工事には、こうした事業も含まれていたのだ。とはいえ私の思い出の景色がひとつなくなったのは、寂しいことだった。
私はサイトウ理容店にお邪魔する。なお今回は手土産として、水ようかんを持参した。
ご主人夫婦はもちろん私を憶えていて、私をストーカー扱いすることもなく、普通に応対してくれた。まあ私も「客」として伺ったのだから当然ではあるのだが。
ご主人からは、とくに新しい情報も聞けなかった。
カット代2,800円を払う。やっぱり安くなっている。昔は3,000円を越えていた気がするのだが。
郁子さんの自宅の前に立つ。またも動悸が激しくなるが、もうご家族は秋田市に引っ越しているはずだ。それが分かっていながら、私は何をしに来たのだろうと思う。
本当はご近所に顔も出したいのだ。しかし私は半ばストーカーとして認識されている。彼らが新しい情報をくれるとは思えなかった。
いつもはここから駅に引き返すだけだったが、今日はその先に行ってみた。景色は豊かな山々ばかりだったが、ポツンと今川焼を売っている店があった。つぶあんとこしあんを1個ずつ買い、頬張る。甘さを抑えた味で、美味かった。
とはいえもう、引き返すよりない。私は角館駅に戻り、鷹巣行きの秋田内陸縦貫鉄道に乗った。「急行もりよし」の先頭車両1番席は運転席を通して前方が見え、私は車窓風景を満喫した。
その夜は青森のビジネスホテルに泊まったが、青森市内で公衆電話を利用した時、電話ボックスに大判時刻表を忘れてしまったことに気付き、その夜は盛大に落ち込んだものだった。

次に角館を訪れたのは、翌平成10年4月3日である。私は広告代理店の仕事で忙しく、有給休暇を取れる雰囲気ではなかったので、1泊2日の行程となった。
今回は金曜日夜の夜行快速の「ムーンライトえちご」に乗り、村上から羽越本線で酒田、秋田と回り、そこから田沢湖線の在来線を使い、角館入りした。私も角館を訪れるのは10回近くになるが、この行程で入ったのは初めてである。
新幹線が開通してから角館はメジャーになり、観光客も増えた。そして角館といえば桧木内川の桜並木も有名である。桜の時期にはまだ1ヶ月早いが、その時期になれば、さらに観光客も増えるのだろう。
私は例によってサイトウ理容店に入り、カットしてもらう。なお今回は「くず笹餅」を持参した。
お代は2,000円で、しかもカユミ止めの液剤もくれた。大幅に安くしてもらった上に、返礼品まで貰ってしまった。ありがたいことだが、これは「もう角館には来ないでくれ」という、拒絶の意思に取れないこともなかった。
私も32歳になっていた。ということは、郁子さんは33歳。さすがに結婚しているはずで、もういい加減、郁子さんを絶ち切らねばならなかった。
郁子さんの家はまだ存在していた。しかしやはり、人がいる気配はない。このままこの家は、打ち棄てられていくのかと思った。

辺鄙な場所にある食堂でかつ丼を食べ、武家屋敷へ向かう。
その途中、ソフトクリームを買うべくGパンのポケットの小銭をゴソゴソやると、さっき入れたはずの五千円札がないことに気付いた。
私は青くなり、まさかと思いつつも食堂に戻ると、店先に五千円札が落ちていた。これは紛れもなく私のものだ! しかしこの間、よく誰にも気付かれなかったと思う。角館も武家屋敷以外のエリアは人通りが少ないようで、それが幸いした。
武家屋敷通りに入る。この日は大曲のビジネスホテルに予約を入れたので、安心して観光できる。
武家屋敷通りを歩く。この一角で、私は郁子さんに出会った。あの日のことは今でも鮮明に思い出せるが、同時に夢だったのかという気もしてくる。ただ、虚しさが募るばかりだ。
小腹が空いたので、駅前通りにあるうどん屋に入り、釜揚げうどんを注文した。
時間的に客はまばらで、手持無沙汰の店主のおばあさんが、私の近くに座った。
「角館へは初めて?」
「……いえ、もう10回ぐらい来ています」
「ほうほう、ありがたい。それは角館が気に入って……?」
「はあ、そうなんですが……」
私は戸惑いつつも、事情を話すことにした。見たところこの店は老舗のようだし、郁子さんの情報が聞けるかもしれないとの期待もあったからだ。郁子さんに会ってから9年半、今も彼女を追い駆けていることにストーカーのケはあるが、その想いを汲んでもらうよりないと思った。
おばあさんは私の話に耳を傾け、合間合間で深く頷いた。それがポーズでないことは、おばあさんが「あちらのお父さんは厳しい人だったんだね」「じゃあ引っ越して今はいないんだね」と、私の言葉を反芻して消化していたことで分かる。私はこのおばあさんが信用できると思った。
「じゃあね、その女性のことで何か分かったら、アンタに連絡してあげるよ」
とおばあさんは言い、私は名刺を渡した。
釜揚げうどんは735円だったが、消費税分はおまけしてくれた。

しかし私が帰京して翌年になっても、おばあさんから連絡は来なかった。
それはそうで、まず、おばあさんに郁子さんの情報が入らなかったことがひとつ。さらに万が一入っても、それをわざわざ私に報せることは、抵抗があったと思われる。あの場では青年の話を興味深く聞いたが、冷静に考えればあの男のやっていることはストーカーである。彼女の居所を教えて事件にでもなったら、責任の一端を被ることになる……。客商売の店舗が、そんな危険を冒すはずがなかった。
いやそんな大袈裟に考えずとも、おばあさんはあのあと、私の名刺をすぐに捨てた、というのが真相ではないだろうか。

平成13年になった。私はあの後も広告代理店に勤めていたが、この年の春に父から申し出があり、自営している金属プレスの仕事を手伝うことになった。つまり、広告代理店を退職することになった。この会社は社長が仕事人間で愛想も悪く、社内の雰囲気はいつもギスギスしており、すこぶる居心地が悪かった。何より残業手当が一切出ず、例えば休日にクライアントが出展しているイベントに出向いても、手当等は出なかった。こんな会社にいつまでも居ては人格が破壊されるから、ここでの転職は渡りに舟だった。
それにしても心残りなのは、郁子さんのことである。実は角館には、郁子さんを探す最後の手掛かりが残されていた。それは郁子さんとの会話にあった。
私は最後にもう一度だけ、角館を訪れようと思った。
(16日の最終回につづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする