今日7月31日は、郁子さんの誕生日。おめでとうございます。
しかし…「郁子」という名前の女流棋士はいない。したがって今日の記事は、将棋とはまったく関係がない。
これはかつて私が、ある女性宅へストーカーまがいの行為をした、いわば変質者の記録である。だから嫌悪感を催す方は、素通りされることをお勧めする。
数回の連載を予定しているが、全部読んだあとで文句を言われても、当方は一切関知しない。だから、とくにLPSA女流棋士の方は、読まれないほうがよい。
このすぐ下から本文に入る。繰り返すが、LPSA女流棋士の方は、ここで引き返したほうがよい。
いまでは新幹線も通る秋田県・JR田沢湖線角館(かくのだて)駅へ初めて降り立ったのは、昭和63年9月2日だった。当時私は「東北ワイド周遊券」を使って東北を旅行中。角館で降りたのは、ガイドブックに「角館は美女の本場」との記述があったからだ。
秋田県の小京都といわれる町内をぶらぶら散策し、地元の美女を写真に収められれば嬉しい、という下心を持ち、私は武家屋敷通りへ向かった。
ある武家屋敷に入って敷地内を回っていると、品のいい女性が、母屋で書きものをしていた。屋敷の関係者であろう。私がお辞儀をすると、「コーヒーでもいかがですか?」と言う。
ただの旅行者がそんな歓待を受けるわけにはいかないから、最初は断ったが、何度も勧めるので、「じゃあいただきます」と私は言った。
ところがその女性は私の言葉が聞こえなかったのか、いったんは立ち上がりかけたが、そのまま書きものを続けてしまった。しかしその女性がコーヒーを出さなかったことが、この後の私の人生に微妙な影を落とすことになろうとは、このときは予想もしなかった。
釈然としない気持ちで武家屋敷を出ると、左から自転車に乗って走ってくる女性がいた。私は一瞬躊躇したのち、その女性に声をかけた。
「あのー、すみません!!」
「はい?」
彼女は自転車を止める。ハッとするような、とても綺麗なひとだった。
「あの、地元の、角館の方ですよね」
「はい…」
「あ、あの、ボク東北を旅行してまして、角館が美女の本場だって書いてあったもんでここに来て…それで…あ、あの、あなたの写真を撮らせていただけませんか?」
私はしどろもどろになって、唐突なお願いをした。
「あ…ハイ」
「え? いいんですか? あの、あなたがボクを撮るんじゃなくて、ボクがあなたを撮るんですよ!?」
「ハイ、いいですよ」
彼女は微笑いながら、こともなげに応える。
私は震える手で旅行カバンからカメラを取り出し、武家屋敷の門前で彼女を撮った。白いワンピースが良く似合う、とても美しい女性だった。角館駅を降りて小1時間、早くもこれで、当初の目的を達成したのだ。ところが彼女は、さらに意外なことを言った。
「角館は初めてですか?」
「はい」
「じゃあ、すこしご一緒しましょうか?」
「ええ!? あ、はい、お願いします」
思わぬ展開に、私は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。それから私たちは武家屋敷通りをぶらぶら歩いた。彼女は自転車を押し、私は汚いTシャツとジーパン姿で、旅行カバンを肩から提げている。このふたり、傍目にはどう見えただろうか。
私が東京の四流大学に通っていると言うと、彼女はその大学がある地名を知っていた。怪訝に思って質してみると、彼女は東京のM治大学の卒業生だった。
やっぱり、と思った。角館が田舎とは言わないが、地方に住んでいるにしては、彼女は妙に垢ぬけていた。訛りも感じなかったし、この洗練された振る舞いは、東京で培われたものだったのだ。しかもこの学歴にも、天と地の差がある。劣等感が頭をもたげた私は、ちょっとした賭けに出た。
「文学部じゃありませんでしたか?」
「は、はい…」
「ふーん、映画研究会に入ってませんでしたか?」
「はい! えーっ、なんで分かったんですか!?」
「まあ…へへ」
別に私は超能力者でもなんでもない。女子学生で経済学部や経営学部は珍しいから、まあ文学部は適当なところであろう。彼女がスポーツをするふうには見えなかったから、文科系の代表的サークルを言ったという、ただそれだけのことだった。
彼女の私を見る目が変わったかもしれない。しかし、私の劣等感は少しも払拭されなかった。
途中、また彼女の写真を撮る。もっと写真を撮ってもいい、という雰囲気が、自然とふたりの間にできていたからだ。彼女をファインダーからのぞいてポーズらしき指示を出すと、なんだか自分がカメラマンになった気分だった。
私のカメラで、今度は彼女が私を撮る。シャッターを切る寸前、「あ、しゃがんだほうがいいのね」と、彼女が腰を落とす。キレイな膝小僧が見えた。
「なんかすみません、オレに付き合わせちゃって」
「いいのー。さっきね、美容院へ行って、そこのママとお昼を食べたの」
彼女はボブヘアーだった。黒のパンプスが「大人」を感じさせる。
「そうですか。その髪形、よく似合ってます」
「そうですか? さっきまで髪、長かったんだけど。ありがとう、フフ」
「もちろん、お顔も美しいです。あ、すみません、いや、あ、あの、角館の女性の美しさの秘訣はなんですか?」
私が大胆なのか小心者なのか分からない言葉を発すると、彼女は少し考えて、
「水…だと思います」
と言った。
さらに歩くと、真新しいモスグリーンの建物が目に入った。この数ヶ月前に開館した、平福百穂記念美術館だという。
「ここ、私まだ入ったことないの」
「あ、じゃあ、入りますか? でも時間は大丈夫ですか?」
「私は大丈夫」
「じゃあ入りましょう」
良かった! これでもう少し、彼女との時間を共有できる。しかし「地元の美女の写真を撮る」ことが表向きの理由だったから、いつまでも彼女と一緒には居られない。ここを出たら、束の間のデートも終わりとなる。
入館料を払うと、受付の女性が、「あれ? 久しぶりー」とか言っている。ふたりは知り合いだったらしい。
常設展示館に入ると、何点もの絵画や書が掲げられていた。私は美人を横に連れていることで気分が高揚し、作品を見るたびに歓声を上げていた。
と、そのとき彼女が
「うるさい…」
と言った。ちょっと私もムッとする。この一言が、のちに微妙な影響をおよぼすことになった。
ロビーに出ると、彼女が「疲れた…」とソファーに座った。またもかわいらしい膝小僧が見える。
「タバコのせいかな」
「タバコ…喫うんですか?」
「ええ。でもやめなきゃね。お肌の曲がり角だし」
「お肌の曲がり角? 25歳なんですか?」
私がそう言うと、彼女は鼻にしわを寄せて、かすかに笑みをもらした。
「タバコ…タバコは体に良くないです。もしボクと結婚するつもりなら、タバコはやめてください」
私は冗談とも本気ともつかぬことを言うと、彼女は微笑って、そうですね、と言った。
それにしても25歳とは…私より歳上だ。いまの自分から見れば、25歳はとても若い。しかし当時は、25という年齢は、とてつもなく上に思えた。
平福美術館を出れば、これでお別れである。でも別れたくない。そう、私は彼女に一目惚れをしていた。
美術館を出ると、また彼女を写真に撮った。これが最後の写真になるのは、お互い分かっている。タイムリミットが迫ってきた。
私が「じゃあ写真を郵送します」と言うと、彼女はシステム手帳に住所と氏名を書き、そのページを破って、私に寄越した。そして彼女は「いい旅をしてください」と言うと、自転車に乗り、その場を去っていった。
私は渡されたメモを見る。彼女は「郁子」という名前だった。
(つづく。次回掲載は未定)