一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

平成最後の日

2019-04-30 18:47:38 | プライベート
今日は平成最終日、11,070日目だ。今日私は「シモキタ名人戦」を切り上げ自宅に戻り、5時に天皇の「おことば」を拝聴した。今は平成の大晦日をしみじみ味わっている。

私が社会人になったのは平成2年だから、平成の大半を社会人として過ごした。
その間の思い出を記せばキリがないが、4回も退職するとは思わなかった。ほかに代表的な誤算を記せば、この歳まで独身とは思わなかった。かすりもしなかった。結婚したいくらい、好きになったひとはいるが、会えなかったり振られたりで、ことごとくうまくいかなかった。
昨年3月にある会社の面接を受けた時、「あなたのこれまでの人生は。運がよかったですか? 悪かったですか?」と聞かれ、自信を持って「悪かったです」と答えて落とされた。
当時の回答に悔いはないが、多少の波はあれここまで安寧に過ごせたのだから、実は運がよかったと思っている。
振り返れば、いい31年だった。平成に、ありがとう。
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2人とも指せなかった△3七角成

2019-04-29 00:15:30 | 将棋雑記
25日の第30期女流王位戦第1局は、里見香奈女流四冠が渡部愛女流王位を降し、幸先よい1勝を挙げた。
軽く振り返ると、戦型は先番里見女流四冠の中飛車に、渡部女流王位の穴熊だった。といっても香を上がったのは50手目で、これは固く囲うというより、玉の遠さ、手厚さを具現化したものだと思う。
中盤押したり引いたりの戦いは、前期女流王位戦の第3局を思い出した。
本譜に戻り、私が唸ったのは、73手目▲4六銀(第1図)の次の候補手である。

ここで控室の面々と、ツイッター解説の平藤眞吾七段は、△6六歩を予想していた。
この突き捨てが味わい深く、A▲6六同角なら△8六飛、B▲6六同歩なら△7六歩▲6八角△7七歩成▲同角△7四飛~△8八歩で、いずれも後手十分となる。
私レベルのアマから見て、いつも難しいと思うのが歩の突き捨てだ。例えば相矢倉で▲2四歩、という手がある。これは△2四同銀なら囲いが薄くなるし、△2四同歩は2三の地点に穴が空く。また捨て置いても▲2三歩成で、どう応じても形が乱れる。
つまりこの突き捨ては損がないのだが、実戦はそんな分かりやすい局面ばかりではない。それを私は見つけられず、いつも苦労するわけだ。
だが本局にも、その類型が隠れていたわけだ。驚いたのは、控室も平藤七段もこの手を真っ先に?指摘していたところで、プロには一目らしい。私はここに、プロの凄さを見るのである。
本譜渡部女流王位はたんに△7六歩と突いたため、手順に▲4四角と切られてしまった。

次に注目したのが87手目の局面(第2図)で、ここは△5五角打、△3五歩、△8二竜、△1三桂、△5六角、△5六桂など、候補手がいっぱい挙がった。ということは、後手に分があるということだ。
ここで渡部女流王位の指した手は△7五角打!! 飛車に狙いをつけつつ△4二角以下の清算を見た手だが、この手は控室の予想にもなく、やや変調である。つまり自陣を気にしているわけで、これは渡部女流王位が「形勢容易ならず」と見ていた証拠だ。
ここから▲2一銀成△同玉▲5六桂(第3図)と進んだ局面が本局のハイライトである。

ここ控室は△3七角成の一手と考えていて、A▲3七同金は△4八角成▲同金△5九竜▲4九歩△8八飛(参考図・詰めろ)。B▲3七同玉は△5五金で、いずれも互角以上の戦いだったようだ。

然るに渡部女流王位は△4二角!! やはり渡部女流王位の目は自陣を見ていた。悩みのタネだった成駒を一掃しようとしたのだ。
だが逸機だったようで、実戦は▲4二同と△同角▲4四桂△同金に▲6二角が痛打で、先手優勢。後手陣の薄さがクローズアップされてしまった。
また先手陣を見れば金銀4枚に飛車付きで、ウンザリ。私なら戦意を喪失して、投了しているところである。
結果論で書くわけではないが、ここはやはり△3七角成といくべきだったと思う。先の△7六歩を空振りさせた角切りと、同じ理屈である。
この局面、もし指導対局だったら、「よく分からないけど」と言って、バッサリいったと思う。またタイトル戦の対里見女流四冠戦でなかったら、やっぱり△3七角成といったと思う。
そういえば、24日の竜王戦4組・高見泰地叡王VS藤井聡太七段戦でも、高見叡王は△3七角成と切る手を躊躇して、結果逆転負けを喫した。
やはり勝利をもぎ取るためには、どこかで決断しないといけないのだ。
ただ渡部女流王位は、△3七角成でもわずかに足りないと読んだという。それが正しければ、この局面ですでに後手が悪かったことになる。
いずれにしても、渡部女流王位はいい将棋を落とした。タイトル防衛のためには、優位の将棋は勝ち切り、不利の将棋は逆転せねばならない。今回は前者のケースで落としたのが痛かった。
渡部女流王位は残り4局を3勝1敗で乗り切らねばならず、これは防衛に赤信号が灯った。
まあよい、第2局は渡部女流王位の地元、北海道・帯広で行われる。ここで反撃開始と行こうじゃないか。
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原宿再訪

2019-04-28 00:12:07 | プライベート
20日(土)は久しぶりに、原宿に行った。2月24日に将棋ペンクラブ幹事・湯川邸に落語のネタおろし会でお邪魔した際、同席していたイラストレーター・小川敦子さんから、展示会の案内をいただいたからである。
その後、湯川博士幹事からも同様のハガキもいただいた。会期は19日~21日だったが、訪問を20日にしたのは、この日に湯川幹事も顔を出すとしたためられていたからだ。
20日午後に原宿駅に着くと、ホームは改良工事中で、明治神宮側に大仰な鉄骨が組まれていた。近い将来、こちらへの出入りもできるようになるのだろう。
原宿は私が新卒で入った会社の最寄り駅で、2年くらい通っただろうか。3番目の会社の四ッ谷ほど嫌悪感はないが、実は原宿も、苦い思い出ばかりである。
会場は神宮前3丁目の「DESIGN FESTA GALLERY WEST」1階。原宿からは竹下口が近かったが、表参道側に降りてしまった。
しかしすごい人出で、どこかで大きな祭りでもやっているのだろう。あるいは大物芸能人が来ているのか。
表参道はオシャレで、異国情緒があふれていた。私はお上りさん状態で、ここは私の来るところではないと感じる。
案内ハガキには小さい地図が付いており、それに倣うと、「GALLERY WEST」へは迷わず着くことができた。
よく分からないが、ここは展示専用スペースらしく、毎週、芸術家(の卵)らが自作品を展示しているようだった。
1階にはいくつもの小部屋があり、それぞれ作品が展示してある。小川さんの部屋も見つかり、隣接するテラスに、小川さん、湯川幹事らの姿を認めた。
挨拶に行くと、その中庭は飲食スペースになっていて、どこかで飲食物を頼めるらしかった。みなは小さなテーブルを囲い、すでに出来上がっているようである。
私はとりあえず鑑賞に戻ると、小川さん、永田氏も来てくれた。
小川さんは絵画を5つ展示していた。傍らには「将棋ペン倶楽部」のバックナンバーも掲示されていた。もちろん、表紙は小川さんの作品だ。
今回の絵画も女性らしいカラフルな色づかいで、国籍不明の艶やかな雰囲気がある。
部屋にはほかにも何人かの作品が展示されており、油絵、津軽の人々の写真、そして笑顔、笑顔、笑顔の写真があった。案内ハガキには「小川敦子とその仲間たち展」とあったから、みなは同志なのだろう。
小川さんと永田氏がアイヌの民族衣装を来た油絵?が掛かっていた。作者に聞くと、それはペイントソフトで描いたという。いまはこんなタッチもPC上で描けるのか。これでは一部の漫画家が、PCでの制作に走るわけである。
小川さんはイラストレーターとして収入を得ていると思いきやまだ趣味で、作品を販売したことはないという。
よく考えたらそれも真理で、作品は自分の子供みたいなもの。手許に置いておくのが自然である。
「でも置くところがなくなってきて――」と小川さんは困惑していたが、信念や情熱があれば、それらを置けるスペースは作れるものである。むしろそれがないと、スペースはあるのに将棋書籍を処分する、私のような愚行を犯すことになるのだ。
小川さんと湯川幹事の接点は、以前湯川幹事がこのような展示会に来た時、たまたま小川さんの作品を目に留めたことによる。それで一目ぼれした湯川幹事が、小川さんをスカウトしたという。
このあたり湯川幹事は、交流の輪の拡げ方が本当にうまいと思う。私などはむしろ逆で、どうかすると交流の輪を狭めようとする癖がある。

テラスに戻ると、湯川幹事以下、恵子さん、岡松さん、Hiw氏、それとネタおろし会でも拝見した年配の女性がいた。要するに、いつものメンバーである。
私はもう失礼していいのだが、お言葉に甘えて1杯いただく。テーブルの上にはすでにビール瓶が何本か並んでおり、ツマミもきた。
私は改めて、湯川幹事から、小川さんをスカウトした時の話をいろいろ聞く。その間にも辺りをヒトが通るのだが、さすがに原宿表参道、みなモデルのような容姿である。鼻の高い外国人も通って、ここは外国かと錯覚する。
そこに、魅力的な女性が訪れた。それは小川さんの娘さんだった。小川さんは四女をもうけたという。娘さんは女の子を3人連れていたが、それはお孫さんになる。小川家は女系、ということだ。
娘さんはお菓子を各自に渡す気配り。私は恐縮するしかない。
今度は、見知らぬ青年が顔を出した。彼は一般客で鑑賞に来たのだが、そこに将棋同人誌を見つけ、挨拶に来たらしい。彼は将棋を趣味にしているようだ。
そうなれば湯川幹事の出番で、すぐ奥の部屋に消えていった。
なおも私たちの雑談は続いたが、岡松さん、湯川幹事の妹さん(と分かった)が退席し、気が付けば4時をとうに過ぎている。永田氏が、室内の飲食スペースに場所を移しましょう、と言ったので、それを潮に、私も失礼させていただいた。

竹下通りの前の横断歩道に着くと、ひときわ高いビルがそびえていた。原宿も同潤会アパートがなくなるなど、日々進化を遂げているのだ。
青で渡ると竹下通りに行かず、私は右折した。かつての勤務地を再訪しようと思ったのだ。
会社に至る景色はすっかり変わっていたが、間に東郷神社があるので、変わらないところもある。しかしもう記憶は薄れ、薄い靄がかかったようだ。
会社のあった辺りでやや迷うと、突然、という感じで、そこに行きついた。ここは会社を辞めた後に一度訪れたがそれ以来だから、もう25年は経っている。でも3階建てのビルは、まったく変わっていなかった。
ただし、入居する会社は、もう変わっていた。あれから風の噂で、会社は移転、規模縮小後廃業? と聞いたから、これは覚悟していた。
裏に回ると、半地下への階段と、ゴミ置き場があった。毎週見本誌がどっさり届くのだが、営業で捌ききれないから、まだ発売前の新刊雑誌を処分することになる。私はその役回りをよくやっていて、そのたびに心が痛んだものだ。
駅前に戻り、竹下通りの中間くらいにあった寿司屋を確認しようとしたが、竹下通りの人出もものすごく、とても入ってゆけない。
これはご縁がなかった、と行くのを諦めた。
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我が人生ワースト3位の大失策

2019-04-27 03:08:21 | 将棋雑記
ヒトはヒマだとロクなことを考えない。私は、1年半前に大山康晴名人の著書等を処分したことを、今頃になって猛烈に悔やみだし、正確には15日深夜からだが、それがこんにちまで続いて、精神的に疲弊してしまった。
過去にも何度か記事にしたが、詳細を書くとこうである。2017年春、我が社が廃業を決めた。その機会に、オヤジが我が部屋の書物の整理を指図したのは、その年の11月だった。
私はモノが捨てられない性格で、我が部屋は半ば豚小屋と化していた。実は9月にもかなり多くの雑誌を捨てたのだが、部屋の景色はあまり変わっていなかった。それでオヤジが業を煮やし、2度目の指示となったわけだった。我が部屋は一部が動線になっており、毎日オヤジが目にしていたということもある。プーで発言権のない私は従うよりなく、11月はかなりの書物、思い出の品を整理した。オヤジは一切合切捨てろと言ったが、旅行での写真やネガ、雑誌「CM NOW」の150冊にも及ぶバックナンバー、それとこっそり、エロ写真集、「Peach John」等等は残させてもらった。
オヤジの意向は、工場横にある物置にも及んだ。この錆びた物置も壊し、中にあるモノもすべて処分すると言った。これが問題だった。
物置には、第18期十段戦(1979年)から第13期竜王戦(2000年)まで、22年におよぶ観戦記のスクラップ(厳密には、そのうちの一部は自宅に置いていた)、80年代の「近代将棋」「将棋世界」「将棋マガジン」「NHK将棋講座」が付録ともども数十冊、そして大山名人、中原誠名人の、いわゆる池田書店発行本、その他の将棋書籍等等等があった。
私が中学生の時からコツコツ続けてきた観戦記のスクラップはもちろんだが、大山名人の池田書店本がお宝で、現代なら、さしずめ「羽生の頭脳」がそれにあたるかもしれない。
とにかく、お小遣いで最初に買った将棋書籍が、大山名人「快勝シリーズ3・将棋の受け方」(1966年初版)だった。当時は定価600円だった。
ここから私は長い年月をかけ、時には本屋、時には古書店と、快勝シリーズを徐々に揃えていった。古書店では、「将棋の受け方」の初版第1刷も購入したこともある。紙質は文庫本のようにヘナヘナで、定価は250円、売価は200円だったと記憶する。
「将棋マガジン」「将棋講座」も毎月お小遣いで購入していたが、「近代将棋」「将棋世界」は、高校の部室にあり、時が経って処分されるのを、私がいただいてきた。
当時の私は、将棋雑誌を捨てるのはお宝を捨てるのと同義で、とてもできなかった。そのため、この当時の雑誌がそっくり残ったのである。
それらもろもろをなぜ物置にやったかといえば、さすがに自室に置ききれなくなったのと、大山本等はもう古典で、殿堂入りにしたからだ。そして今は心の余裕がないが、これから歳を取って余裕ができたら、落ち着いてじっくり読もう、と考えていた。
だがオヤジは今回、この保存を許さなかった。当時オヤジは体を患い、半ば、終活に伴う断捨離もあったと思う。しかしそれに巻き込まれたこちらはたまったものではなかった。
だけど商売を畳み、工場とその2階にはいっぱいスペースがある。段ボール数箱分を余計に残したって、何の邪魔にもなるまい。が、一度言いだしたら聞かないオヤジの性格は、私が一番よく知っている。
それでも抵抗すれば残せたかもしれないが、ただでさえCM NOWやエロ写真集等で、かなりの量になっていた。これ以上は残せない、という負い目もあった。
さらに当時の私は廃業のショックが尾を引いており、職も見つからない状態だった。さらにプレス機の撤去はどうするか、工場の後始末はどうするか、土地の分割の問題、叔父の家の新築問題など問題山積で、とても冷静な精神状態ではなかった。思考能力がゼロだったのだ。
いずれにしても、お宝だからこそ別所(物置)に保存したのに、それゆえそっくり廃棄の対象になるとは、皮肉なことだった。
書籍や雑誌はオヤジがヒモで縛ったが、資源ゴミ扱いになるので、何日かは工場に置いてあった。
つまり私はいつでも閲覧できる状況にあったが、そうしなかった。だって観戦記のスクラップを読めば、懐かしい棋士や観戦記者がせいぞろいで、時が経つのを忘れてしまうだろう。何しろ22年間の思い出が詰まっているのだ。
大山名人や中原名人の本もそうで、1冊1冊に思い出がある。だからこそ私は、ほとんど目を通さなかった。通せなかった。
だがいま考えれば、どんどん目を通して、どんどん残せばよかったのだ。私はオヤジに見つかるのを恐れたが、いい歳をして、何を恐れているのか。
それでも私は、「将棋の受け方」と、近代将棋の別冊付録「升田のアドバイス」だけは残した。2冊くらいなら廃棄の束からなくなっても、気付かれないと思ったのだ。何とも涙ぐましい抵抗である。
なお、これらをアカシヤ書店に売ればよかったじゃないか、という声も出よう。
でも何年か前に将棋書籍を処分する時、先方に問い合わせたが、今は買取りはやってない、と断られた。それで今回も、声は掛けなかった。
それに矛盾するようだが、アカシヤ書店に売るというエネルギー?があるのなら、私はそのまま保存したと思う。

書物類はある日、処分された。それからこの悔しさは私の中で封印していたが、それが今月の15日に、突然噴出してしまった、というわけである。
とにかく私の捨てた本は、どれも稀少品ばかり。最も古いのは54年前のものだから、もう滅多に見当たらない。アカシヤ書店でも、全冊は揃わないと思う。
じゃあ今後私は、どうすればいいのか。
観戦記のスクラップは世界にひとつだけのものだったから、もうどうしようもない。
ただ大山・中原の池田書店本等は、全国の古書店に、まだ眠っているところもあろう。それで何かのついでに見つかった時に、コツコツと買い直していくしかない。だがそんなことをするくらいなら、捨てる前になぜ再保管しなかったのか、ということになる。
しかしそこを突き詰めていくとまた狂いだしそうだから、そうした目標を持って、自分自身の平静を保っているわけだ。
だがそれでも、アカシヤ書店には行けない。あそこならほとんどの本が揃うだろうが、そういう集め方は、古本マニアとして違う気がするからである。それと、予算の問題も少なからずある。
最後に、2017年11月に捨てた将棋書籍を、記憶に残っている範囲で、一覧にしておこう。本屋で買ったものと古書店で買ったものと両方あるが、まとめて記す。


▲2017年9月処分

▲2017年11月処分

▲2017年11月処分

・快勝将棋の勝ち方 大山康晴 池田書店(旧版・新版)
・快勝将棋の攻め方 大山康晴 池田書店(新版)
・快勝将棋の受け方 大山康晴 池田書店(旧版2冊)
・快勝将棋の詰め方 大山康晴 池田書店(新版)
・快勝将棋の指し方 大山康晴 池田書店(新版)
・快勝将棋は中飛車 大山康晴 池田書店(旧版・新版)
・快勝将棋は四間飛車 大山康晴 池田書店(旧版・新版)
・快勝将棋はやぐら 大山康晴 池田書店(新版)
・快勝将棋は歩で勝て 大山康晴 池田書店(新版)
・快勝将棋棋力テスト 大山康晴 池田書店(新版)
・快勝大山流振り飛車 大山康晴 池田書店(新版)
・快勝大山の将棋金言集 大山康晴 池田書店(新版)
・升田の振飛車 升田幸三 弘文社
・升田の中飛車 升田幸三 弘文社
・大山十五世名人の穴グマ振り飛車 大山康晴 池田書店
・大山十五世名人の勝つ極意 大山康晴 池田書店
・大山十五世名人の寄せと詰めの極意 大山康晴 池田書店
・中原の将棋教室 中原誠 池田書店
・中原の将棋定跡 中原誠 池田書店
・中原の急戦将棋 中原誠 池田書店
・中原の振り飛車退治 中原誠 池田書店
・中原の寄せと詰め 中原誠 池田書店
・中原の駒別次の一手<歩・香・桂> 中原誠 池田書店
・中原の駒別次の一手<銀・金・角・飛> 中原誠 池田書店
・やさしい詰将棋 佐藤大五郎 日本文芸社
・あなたの棋力を採点する3 米長邦雄 マンツーマンブックス
・大山康晴・勝つ・実戦集 大山康晴 永岡書店
・大山将棋実年パワー若手棋士斬り 大山康晴 池田書店
・明快四間飛車戦法 鈴木大介 創元社

大山・池田書店本快勝シリーズは旧版と新版があり、それを見つけるたびに購入していた。
どれもお金にかえられないお宝で、こうして書いていても、頭がクラクラする。どうしようもない。
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最近見た夢(2019-03-30、04-01、03、07、09、13)

2019-04-26 00:06:26 | 
最近見た夢をまとめて記しておく。

まずは3月30日に見た夢。
私は都バスでかなり遠くまで来ていた。他に同行者もいたようだ。私がリュックを下ろすと、中から小さな犬が出てきた。中にあった使用済みのティッシュをくわえていて、そのまま紛れ込んだらしい。ティッシュが甘くなっていて、その匂いにつられたようだ。
また別のところからは、黒い小さな犬が出てきた。二匹ともどこかへ行ってしまったが、野良犬?とはいえ、元の場所に帰さなければいけない。私は二匹を探したが、どこかへ行ってしまった。
……というところで、何となく目が覚めてしまった。

続く31日は、オヤジが奇妙な夢を見た、と言って、内容を語り始めた。
オヤジは金がないのに、都バスに乗ったらしい。運転手が2人いて、うちひとりが運転を止め、路傍の草を取りにいった。
オヤジはその行為が恐ろしくなってバスから逃げたのだが、もうお金はないし、どうしようと考えたら……。
私は黙って聞いていたのだが、オヤジは私たちが興味なしと捉えたようで、そこで話を切り上げてしまった。

私の夢に戻り、4月1日に見た夢。
私はどこかの遊園地らしきところにいた。クレーンみたいな乗り物があり、その先端に2人乗りのスペースがあった。そこに知人と2人で乗った。
クレーンは私たちを地下深くに持って行き、そこは地下鉄のホーム、レールのすぐ近くだった。
場面変わって、私はあるタイトル戦の大盤解説会場にいた。そこは和室で、私は前から3列目、5人並びの右から2人目にいた。観客は棋士ばかりで、立っている女流棋士10人を含め、25人程度しかいなかった。解説は退屈で、私たちはウトウトした。私の左には藤井猛九段がいたが、つい寄りかかってしまった。藤井九段も居眠りしていた。
休憩になった。大盤の近くにずいぶんゴミが散乱していたので、私は掃除をした。が、そばにいたフォーリンラブ・バービーに注意された気がする。
場面変わって、私は何かの秘密捜査官になっており、地下鉄を降りた。ほかにも数人いた。
改札口で何かごちゃごちゃしたことがあり、その間に一般客が無賃乗車で改札の脇を抜けていった。
地上に上がるが、目的地に行く方向が分からない。地図を参照して行くべき道を決めると、彼方で手を振っている人がいた。関係者だった。
……というところで、何となく目が覚めた。

続いて3日の朝に見た夢。
この日の夢も終始陰鬱で、苦しみながら見ていた。
私はある地下鉄に乗ろうとしたのだが、そこは始発駅でまだ完成しておらず、レールの端っこがパラストに埋もれ、すぐ上に地上が見えていた。
このあと目覚まし時計のベルで叩き起こされたが、記憶に残っているのはこのシーンだけだった。

7日は、中学時代の同級生の伊藤ユキタカが出てきた。なぜ彼が出てきたのか、まったく分からない。

9日は、何度も何度も眠る夢を見た。夢の中でも眠るのだから、どうしようもない。

続いて13日の朝に見た夢。
私は北海道を旅行していた。だが頭の中には、青森以南の本州の地図が描かれていた。私は北海道の羽幌あたりにいて、特急列車で稚内―網走辺りに乗り継ぐ予定だった。ただし現実の世界では、このルートで特急は一度も走っていない。また夢の中では、羽幌が男鹿、稚内が弘前、網走が八戸の位置づけだった。
私は観光をしていたが、どこかくすんだビルに、何かがあるみたいだった。私はそこに入ると、年配の女性がゾロゾロと階段を上がって行った。これから何かのショーが始まるみたいだったが、私はあまり興味がないので、その場を離れた。
それより特急列車の出発時間まであと7分しかなく。これでは稚内にも網走にも行けない、と思った。
というところで、何となく目が覚めた。

最近も夢は見ているのだが、細かいところまで思い出せないものが多い。
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