早いもので、2020年度もほぼ半年が終わってしまった。私はだらしない生活が続き、屈辱の極みである。
さてこの半年間の将棋公式戦で、私が最も驚愕した一手を記そう。
それは8月1日(土)深夜に放送された、第70回NHK杯将棋トーナメント1回戦・阿久津主税八段VS斎藤明日斗四段の一戦である。
阿久津八段の説明は必要あるまい。A級2期の強豪で、NHK「将棋フォーカス」ではこの半年間、講座の講師を務めた。阿久津八段はNHK杯の解説でもテレビカメラを意識して話すが、この講義も私たちに語りかける感じで、すこぶる印象がよかった。講座の内容はココセの連発だったが、実戦で使える手筋もあり、大いに勉強になった。
斎藤四段は2017年10月デビューの22歳。活躍はまだこれからだが、NHK杯に出場したことが最初の殊勲といえる。
解説は宮田利男八段。宮田八段は五段時代の1983年、第31期王座戦で挑戦者決定戦まで進んだが、中原誠十段(当時)に敗れた。
また1974年の早指し将棋選手権戦では、大山康晴十段・棋聖(当時)相手に、当時ではごく珍しい居飛車穴熊を採用した。宮田八段はあまりイビアナを用いなかったが、この戦法は同門で新人の田中寅彦四段が引き継ぎ、数年後、連戦連勝。猛烈なイビアナブームを巻き起こした。
その宮田八段は斎藤四段の師匠だ。NHK杯で若手棋士が初出場した場合、その師匠が解説役を務めることが多い。
聞き手の藤田綾女流二段が宮田八段に、「阿久津八段の印象はいかがでしょうか」と聞く。
「まだ若い、30代ということで、まだまだ勝ち上がるでしょうけども」
藤田女流二段はそういうことを聞きたいのではないと思うが、「鋭い攻めが持ち味ですね」とフォローした。宮田八段の解説に若干の不安を覚えたが、これがベテランの持ち味ともいえる。
将棋は阿久津八段の先手で、相居飛車で進んだ。38手目、斎藤四段の△6五桂に阿久津八段が▲8八銀と引いたのが頑張った一手。▲6六歩から桂を取り切ろうというのだ。だがこの瞬間は先手が壁銀で、相当危険である。ここで斎藤四段が手を作れば、必然的に勝利が転がってくる。
斎藤四段は横歩を取り△7六飛。阿久津八段は▲7七歩と打った。以下△7五飛の一手だと思ったのだが、斎藤四段は△5五角と飛び出した。これが、私が驚愕した一手である。
この時の解説を再録してみよう。
宮田八段「あら?」
藤田女流二段「なんかすごい手が出てきました、が……。どうなっているんでしょうか」
宮田八段「ゴォゴォカク?」
藤田女流二段「△5五角……。飛車取りに構わず」
宮田八段「研究手順なのかなあこれ」
藤田女流二段「早かったですよね。△5五角と出る手が」
宮田八段「たぶん(▲5五同銀と)取ると思いますけども、これで(次に△3六飛で)こんなんで行けるのかなあ。ちょっとびっくり」
藤田女流二段「これで、△3九飛車成が王手飛車取りになるということなんですね」
宮田八段「ううん、これ……。なにこれ、すごいね。へぇ~」
実戦も▲5五同銀に△3六飛。角を犠牲に飛車を生還させたわけだが、これで後手が面白くなりそうなところに、△5五角捨ての価値がある。
以下▲3七角△5五銀▲同角△3九飛成▲6九銀となり、阿久津八段が角得となった。とはいえ自陣に作られた竜が不気味だ。先手は▲8八銀の壁銀が痛い。
実戦もそこから斎藤四段の指し手は冴え、気が付けば斎藤四段の勝勢になっていた。
宮田八段は、「へぇー、びっくり」と繰り返すのみ。変化満載の解説もいいが、この感嘆も立派な解説であることが分かる。
この将棋は結局、斎藤四段が86手までで快勝した。
全国の視聴者に鬼手を披露し、斎藤四段は棋士冥利に尽きただろう。私も、将棋にはいろいろな手がある、と教えられた一局だった。