(第1回は2009年7月31日、第2回は2009年9月5日掲載)
その家の中央には奥まで廊下が通り、左右に部屋が分かれている構造だった。その右奥から、品のいい婦人が出てきた。十中八九、郁子さんの母親であろう。
「突然すみません、私、東京から来たのですが、けっして怪しい者ではありません」
私は慌て気味に言うと、6年前に郁子さんに会った経緯や、名所を案内してもらったことなどを話した。写真を撮らせていただいたことも話した。
私の風体は旅行仕様のくたびれた服で、怪しい雰囲気である。この婦人が、どこまで私の話を信用してくれるだろう。
しかしその女性は嫌悪感を見せることもなく、わりと温かい声で、そうですか、と言った。
「あの…郁子さんの、お母さまですか?」
「はい」
やはり母親だった。郁子さんの実母に、会えた。私はそれだけでも胸が息苦しくなるほどだった。私は旅行カバンからあるものを取り出す。
「あの、これ…」
私は6年前に郁子さんを撮った写真をプレート皿にしたものを、母親に見せた。本当は郁子さん本人に渡したかったが、それは母親への贈り物に変わると同時に、私と郁子さんが確かに角館で会ったことの証明にもなった。
「郁子です。この子、いい笑顔してますね…」
母親はちょっと懐かしむような声で応える。
私は郁子さんから返事のハガキをもらったこと、それからも彼女が忘れられなかったことなどを、つとめて冷静に話した。
それを静かに聞いていた母親が、奥へ引っ込む。しばらくして、麦茶と洋菓子をお盆に載せて再び現われた。これは私を不審者ではなく、正常な人間と判断してくれたことの証であった。
私は玄関のあがり框に腰かける。ああ、郁子さんはどこに出かけているのだろう。また町内を散歩しているのだろうか。いや、あれから6年も経っているのだ。もう結婚しているに違いない。
「あの…郁子さんは、そのう、もう結婚されているのでしょうか」
私は核心を突く。
「いえ、まだしておりません」
良かった…! 幸か不幸か、郁子さんは未婚だった。とりあえず第一関門をクリアし、私は安堵した。しかしこの後、何を話していいか分からなかった。
私は旅行好きであることを強調したくなり、ユースホステルの会員証を見せた。
「あら、ちょっとコワい顔をして映ってますね」
会員証には写真を貼る欄があったのだが、そこに映る私は、ブスッとした顔をしていた。私は動揺しつつ、話題を変える。
「あの、郁子さんは何年生まれなんでしょうか。6年前にお会いしたときは、25歳前後だということを話されてましたが」
「昭和39年です。39年の7月31日生まれです」
平福百穂記念館のロビーで郁子さんと話をしたとき、お肌の曲がり角の歳だから、と彼女は言った。実際は幾つなのだろうと思ったが、計算すると、当時24歳になったばかり、ということになる。あのときはその物腰や話し方から随分年上に見えたが、実際は私と1学年しか違わなかったのだ。
「い、郁子さんの名付け親はどなたなんでしょうか」
「私たちです。東京オリンピックで依田郁子という選手がおりましたでしょう。あのかたの名前を頂戴しまして」
母親は当時を懐かしむように言う。自分たちが付けたというから、てっきり名前の1文字を取ったのかと思ったが、スポーツ選手の名前を拝借したとは、意外だった。もっとも、スポーツ選手や有名人の名前を拝借する例は少なくない。
現在メジャーリーグに在籍している松坂大輔は、元ヤクルトスワローズの荒木大輔から取ったものだし、中日ドラゴンズに在籍していた藤王康晴は、父が将棋ファンで、将棋の大山康晴から取ったと聞いた。また同じ将棋界では、中倉彰子女流初段が、女流棋士の蛸島彰子女流五段から名前を戴いている。それはともかく、この命名方法は、当時斬新だったのではなかろうか。
また後日分かったことだが、「依田郁子」なる人物は確かに実在しており、ハードルの選手として、東京オリンピックに出場していた。だが依田郁子は、昭和58年に謎の自殺をしている。
母親とは、それから当たり障りのない話をしたが、私は聞かねばならないことがあった。これが第2の関門であった。
「あの…郁子さんに会わせていただけませんか?」
「郁子は…いま東京にいます」
東京!? また郁子さんは、東京に戻っていたのか!!
「と、東京ですか! あ、あの、郁子さんの、その、住所を、教えていただくわけにはいかないでしょうか」
「それはちょっと…」
私は仰天しつつも母親に迫る。しかし帰ってきた答えは、私が予期した範疇のそれだった。しかし私もここで引くわけにはいかない。
「あの、い、いつ東京に行かれたんです?」
「だいたい、3ヶ月前です」
「3ヶ月前!? そ、そんなに最近東京に出られたんですか!? あ、あの、私そのころ郁子さん宛てに、大判の封筒を送ったんですが、それを見られていた形跡はありませんでしょうか」
「さあちょっと、分かりません…」
なんてことだ…。つい最近まで郁子さんはここ角館に居たのに、肝心の手紙が行き違いになったかもしれないのだ。私は必死にすがる。
「本当にちょうどそのころだったんです、そこに、その、郁子さんに対する思いを書いたんです! あの、このくらいの大きさだから、目立っていたと思います。読んでいたか、分かりませんでしたか!?」
「本当に分からないのです」
「ああ…あの、郁子さんの東京の住所を教えていただくわけには行きませんか?」
「それは…男と女のことですから…」
「あの、何もしません! 一目、一目だけ郁子さんに会いたいんです!! 教えていただけませんか!?」
「そんなに郁子のことを思ってくれてたなら、なぜもっと早く郁子に会いに来てくれなかったんです!」
母親は口調を荒げ、そう言った。
たしかに母親の言うとおりだった。郁子さんに会ってから6年近く。いつでもこの家に訪れる機会がありながら、ここまでズルズル先延ばしにしていた。同僚だったYさんに片想いをし、振られたから再び郁子さんに関心が向いた。男として優柔不断の烙印を捺されても、しかたがないのだ。
母親が言うには、郁子さんはふたり姉妹の妹で、姉はテレビ局の職員と結婚し、いまは千葉県に住んでいるとのことだった。もちろん郁子さんにも好きな男性ができた。ただしこれが東京か角館だったかは、母親の話からは判然としなかった。ともあれ姉が一足先に嫁いでいては、婿養子を取るほかない。しかし男性がそれを拒み、結果郁子さんの両親が交際を反対する形で、ふたりの仲を引き裂いたらしい。それに郁子さんが反発し、親子の縁を切るような形で、郁子さんは東京に戻ったようなのだ。
ただ、いまでは両親も猛省し、郁子さんに負い目を感じているのだと言う。だからこれ以上、男女のことに関わりたくない、とのことだった。
「もう、どうしてもダメですか…」
「悪いけどね」
「……」
私は無言でうなだれる。
「でもね」母親は続ける。「あなたが書いた手紙を、私が送ることならできますよ」
「ホントですか!?」
「はい」
「じゃ、じゃあ私がもう1回手紙を書いて、私が書いた小説も同封させていただきます」
「あなたは作家さんなのですか?」
「い、いえ、小説はたまたま書いたものでして…」
「ああ、そうですか。私どもでそれを転送して、郁子からあなたに連絡がいくのなら、それは郁子とあなた様の話ですから」
「分かりました。ではそれを改めてこちらに送らせていただきます。あの、あと、表にある看板の電話番号はこちらでよろしいんでしょうか」
広い庭の一隅に、「――商店」と書かれた看板が打ち捨てられていた。そこに電話番号が書かれていたのだ。数年前まで、この家はなにかの商店を営んでいたらしい。
「はい」
「あの、もしなにかのときに、こちらに電話を掛けさせていただいてもよろしいでしょうか」
「構いません」
私はまだ落胆を隠せないでいたが、最後にもうひとつ、力を振り絞って訊く。
「あの…郁子さんが大学を卒業後に勤めていた会社名だけでも教えてくださいませんか」
母親が私の手紙と小説を転送してくれるとは思う。しかしそれは確実ではない。もし黙殺された場合、郁子さんの居所は自力で捜すことになる。そのためには、少しでも郁子さんに関する情報が欲しかった。
「それも困ります…」
「お願いします!」
私はあがり框から腰を下ろし、本気で土下座をしようと思った。しかしさすがにそこまではできず、その場で頭を深々と垂れた。すると母親はボソッと、3文字の会社名を漏らした。人の名字みたいだったが、それが会社名なのだろうか。しかしそれを聞き返すことはできなかった。
「ありがとう…ございます」
私は再び深々と頭を下げると、その家を後にした。家に入って、1時間が経っていた。どこの馬の骨とも分からない男を相手に、郁子さんのご母堂は、よく付き合ってくださったと思う。郁子さんには会えなかったけれど、収穫はあった。私はすこし晴れやかな気持ちで、上りの田沢湖線に乗ったのだった。
月曜からの仕事は楽しかった。いままで霞の向こうに消えていたと郁子さんの姿が、ボンヤリと現われたような気がしたからである。ワゴン車を運転する手も軽やかだった。
次にやることは決まっていた。次の土曜日、私は再び角館を訪れるのだ。たんに手紙と小説を送るだけでは、郵送代だけの思いになってしまう。高い交通費を遣い、直接手渡すことで、郁子さんへの思いの深さを感じてもらうつもりだった。
私は郁子さんへの思いをしたためた手紙を再び書き、A4判20数枚の小説をコピーすると、1冊1,000円もした特製バインダーの透明な袋に1頁ずつ入れ、それらを大判の封筒に入れた。読まれて困るようなことは書いたつもりはなかったから、あえて糊づけはしなかった。
転送代金相当の切手を用意し、さらに一回り大きい封筒に、それらをすべて入れた。これで母親に金銭的な負担はかからない。
すべての準備が完了し、土曜日がくると、私は久々にスーツを着、再び角館へ向かった。
ところでこの日の夜は、以前旅先で知り合った女性と、上野で会うことになっていた。彼女はグラビアアイドルの篠崎愛にそっくりなかわいい子で、ひょんなことから再会していたのだ。胸も大きく、もしYさんや郁子さんと出会わなかったら、彼女にアタックしていたかもしれない。
私が角館の美女との再会騒動を話したら関心を持ってくれ、この日はその成果を披露することになっていたのだ。
盛岡駅の構内で洋菓子を買い、田沢湖線に乗り換える。角館駅を降り、駅前の通りを折れ、再び田沢湖線の線路を越える。その先に理髪店があったことを憶えていたのでそこに入り、髪型もバッチリ決めた。
時間も曜日も、1週間前と同じである。これならまた、母親がいるに違いない。
私は再び郁子さんが住んでいた家の前に立つと、引き戸をノックし、開ける。前の週よりもやや張りのある声で、
「ごめんください」
と言う。すると、
「なんだあ?」
と、しわがれた男の声が聞こえたので、私は動揺した。これが誤算の始まりだった。
(つづく。次回の掲載日は未定)
その家の中央には奥まで廊下が通り、左右に部屋が分かれている構造だった。その右奥から、品のいい婦人が出てきた。十中八九、郁子さんの母親であろう。
「突然すみません、私、東京から来たのですが、けっして怪しい者ではありません」
私は慌て気味に言うと、6年前に郁子さんに会った経緯や、名所を案内してもらったことなどを話した。写真を撮らせていただいたことも話した。
私の風体は旅行仕様のくたびれた服で、怪しい雰囲気である。この婦人が、どこまで私の話を信用してくれるだろう。
しかしその女性は嫌悪感を見せることもなく、わりと温かい声で、そうですか、と言った。
「あの…郁子さんの、お母さまですか?」
「はい」
やはり母親だった。郁子さんの実母に、会えた。私はそれだけでも胸が息苦しくなるほどだった。私は旅行カバンからあるものを取り出す。
「あの、これ…」
私は6年前に郁子さんを撮った写真をプレート皿にしたものを、母親に見せた。本当は郁子さん本人に渡したかったが、それは母親への贈り物に変わると同時に、私と郁子さんが確かに角館で会ったことの証明にもなった。
「郁子です。この子、いい笑顔してますね…」
母親はちょっと懐かしむような声で応える。
私は郁子さんから返事のハガキをもらったこと、それからも彼女が忘れられなかったことなどを、つとめて冷静に話した。
それを静かに聞いていた母親が、奥へ引っ込む。しばらくして、麦茶と洋菓子をお盆に載せて再び現われた。これは私を不審者ではなく、正常な人間と判断してくれたことの証であった。
私は玄関のあがり框に腰かける。ああ、郁子さんはどこに出かけているのだろう。また町内を散歩しているのだろうか。いや、あれから6年も経っているのだ。もう結婚しているに違いない。
「あの…郁子さんは、そのう、もう結婚されているのでしょうか」
私は核心を突く。
「いえ、まだしておりません」
良かった…! 幸か不幸か、郁子さんは未婚だった。とりあえず第一関門をクリアし、私は安堵した。しかしこの後、何を話していいか分からなかった。
私は旅行好きであることを強調したくなり、ユースホステルの会員証を見せた。
「あら、ちょっとコワい顔をして映ってますね」
会員証には写真を貼る欄があったのだが、そこに映る私は、ブスッとした顔をしていた。私は動揺しつつ、話題を変える。
「あの、郁子さんは何年生まれなんでしょうか。6年前にお会いしたときは、25歳前後だということを話されてましたが」
「昭和39年です。39年の7月31日生まれです」
平福百穂記念館のロビーで郁子さんと話をしたとき、お肌の曲がり角の歳だから、と彼女は言った。実際は幾つなのだろうと思ったが、計算すると、当時24歳になったばかり、ということになる。あのときはその物腰や話し方から随分年上に見えたが、実際は私と1学年しか違わなかったのだ。
「い、郁子さんの名付け親はどなたなんでしょうか」
「私たちです。東京オリンピックで依田郁子という選手がおりましたでしょう。あのかたの名前を頂戴しまして」
母親は当時を懐かしむように言う。自分たちが付けたというから、てっきり名前の1文字を取ったのかと思ったが、スポーツ選手の名前を拝借したとは、意外だった。もっとも、スポーツ選手や有名人の名前を拝借する例は少なくない。
現在メジャーリーグに在籍している松坂大輔は、元ヤクルトスワローズの荒木大輔から取ったものだし、中日ドラゴンズに在籍していた藤王康晴は、父が将棋ファンで、将棋の大山康晴から取ったと聞いた。また同じ将棋界では、中倉彰子女流初段が、女流棋士の蛸島彰子女流五段から名前を戴いている。それはともかく、この命名方法は、当時斬新だったのではなかろうか。
また後日分かったことだが、「依田郁子」なる人物は確かに実在しており、ハードルの選手として、東京オリンピックに出場していた。だが依田郁子は、昭和58年に謎の自殺をしている。
母親とは、それから当たり障りのない話をしたが、私は聞かねばならないことがあった。これが第2の関門であった。
「あの…郁子さんに会わせていただけませんか?」
「郁子は…いま東京にいます」
東京!? また郁子さんは、東京に戻っていたのか!!
「と、東京ですか! あ、あの、郁子さんの、その、住所を、教えていただくわけにはいかないでしょうか」
「それはちょっと…」
私は仰天しつつも母親に迫る。しかし帰ってきた答えは、私が予期した範疇のそれだった。しかし私もここで引くわけにはいかない。
「あの、い、いつ東京に行かれたんです?」
「だいたい、3ヶ月前です」
「3ヶ月前!? そ、そんなに最近東京に出られたんですか!? あ、あの、私そのころ郁子さん宛てに、大判の封筒を送ったんですが、それを見られていた形跡はありませんでしょうか」
「さあちょっと、分かりません…」
なんてことだ…。つい最近まで郁子さんはここ角館に居たのに、肝心の手紙が行き違いになったかもしれないのだ。私は必死にすがる。
「本当にちょうどそのころだったんです、そこに、その、郁子さんに対する思いを書いたんです! あの、このくらいの大きさだから、目立っていたと思います。読んでいたか、分かりませんでしたか!?」
「本当に分からないのです」
「ああ…あの、郁子さんの東京の住所を教えていただくわけには行きませんか?」
「それは…男と女のことですから…」
「あの、何もしません! 一目、一目だけ郁子さんに会いたいんです!! 教えていただけませんか!?」
「そんなに郁子のことを思ってくれてたなら、なぜもっと早く郁子に会いに来てくれなかったんです!」
母親は口調を荒げ、そう言った。
たしかに母親の言うとおりだった。郁子さんに会ってから6年近く。いつでもこの家に訪れる機会がありながら、ここまでズルズル先延ばしにしていた。同僚だったYさんに片想いをし、振られたから再び郁子さんに関心が向いた。男として優柔不断の烙印を捺されても、しかたがないのだ。
母親が言うには、郁子さんはふたり姉妹の妹で、姉はテレビ局の職員と結婚し、いまは千葉県に住んでいるとのことだった。もちろん郁子さんにも好きな男性ができた。ただしこれが東京か角館だったかは、母親の話からは判然としなかった。ともあれ姉が一足先に嫁いでいては、婿養子を取るほかない。しかし男性がそれを拒み、結果郁子さんの両親が交際を反対する形で、ふたりの仲を引き裂いたらしい。それに郁子さんが反発し、親子の縁を切るような形で、郁子さんは東京に戻ったようなのだ。
ただ、いまでは両親も猛省し、郁子さんに負い目を感じているのだと言う。だからこれ以上、男女のことに関わりたくない、とのことだった。
「もう、どうしてもダメですか…」
「悪いけどね」
「……」
私は無言でうなだれる。
「でもね」母親は続ける。「あなたが書いた手紙を、私が送ることならできますよ」
「ホントですか!?」
「はい」
「じゃ、じゃあ私がもう1回手紙を書いて、私が書いた小説も同封させていただきます」
「あなたは作家さんなのですか?」
「い、いえ、小説はたまたま書いたものでして…」
「ああ、そうですか。私どもでそれを転送して、郁子からあなたに連絡がいくのなら、それは郁子とあなた様の話ですから」
「分かりました。ではそれを改めてこちらに送らせていただきます。あの、あと、表にある看板の電話番号はこちらでよろしいんでしょうか」
広い庭の一隅に、「――商店」と書かれた看板が打ち捨てられていた。そこに電話番号が書かれていたのだ。数年前まで、この家はなにかの商店を営んでいたらしい。
「はい」
「あの、もしなにかのときに、こちらに電話を掛けさせていただいてもよろしいでしょうか」
「構いません」
私はまだ落胆を隠せないでいたが、最後にもうひとつ、力を振り絞って訊く。
「あの…郁子さんが大学を卒業後に勤めていた会社名だけでも教えてくださいませんか」
母親が私の手紙と小説を転送してくれるとは思う。しかしそれは確実ではない。もし黙殺された場合、郁子さんの居所は自力で捜すことになる。そのためには、少しでも郁子さんに関する情報が欲しかった。
「それも困ります…」
「お願いします!」
私はあがり框から腰を下ろし、本気で土下座をしようと思った。しかしさすがにそこまではできず、その場で頭を深々と垂れた。すると母親はボソッと、3文字の会社名を漏らした。人の名字みたいだったが、それが会社名なのだろうか。しかしそれを聞き返すことはできなかった。
「ありがとう…ございます」
私は再び深々と頭を下げると、その家を後にした。家に入って、1時間が経っていた。どこの馬の骨とも分からない男を相手に、郁子さんのご母堂は、よく付き合ってくださったと思う。郁子さんには会えなかったけれど、収穫はあった。私はすこし晴れやかな気持ちで、上りの田沢湖線に乗ったのだった。
月曜からの仕事は楽しかった。いままで霞の向こうに消えていたと郁子さんの姿が、ボンヤリと現われたような気がしたからである。ワゴン車を運転する手も軽やかだった。
次にやることは決まっていた。次の土曜日、私は再び角館を訪れるのだ。たんに手紙と小説を送るだけでは、郵送代だけの思いになってしまう。高い交通費を遣い、直接手渡すことで、郁子さんへの思いの深さを感じてもらうつもりだった。
私は郁子さんへの思いをしたためた手紙を再び書き、A4判20数枚の小説をコピーすると、1冊1,000円もした特製バインダーの透明な袋に1頁ずつ入れ、それらを大判の封筒に入れた。読まれて困るようなことは書いたつもりはなかったから、あえて糊づけはしなかった。
転送代金相当の切手を用意し、さらに一回り大きい封筒に、それらをすべて入れた。これで母親に金銭的な負担はかからない。
すべての準備が完了し、土曜日がくると、私は久々にスーツを着、再び角館へ向かった。
ところでこの日の夜は、以前旅先で知り合った女性と、上野で会うことになっていた。彼女はグラビアアイドルの篠崎愛にそっくりなかわいい子で、ひょんなことから再会していたのだ。胸も大きく、もしYさんや郁子さんと出会わなかったら、彼女にアタックしていたかもしれない。
私が角館の美女との再会騒動を話したら関心を持ってくれ、この日はその成果を披露することになっていたのだ。
盛岡駅の構内で洋菓子を買い、田沢湖線に乗り換える。角館駅を降り、駅前の通りを折れ、再び田沢湖線の線路を越える。その先に理髪店があったことを憶えていたのでそこに入り、髪型もバッチリ決めた。
時間も曜日も、1週間前と同じである。これならまた、母親がいるに違いない。
私は再び郁子さんが住んでいた家の前に立つと、引き戸をノックし、開ける。前の週よりもやや張りのある声で、
「ごめんください」
と言う。すると、
「なんだあ?」
と、しわがれた男の声が聞こえたので、私は動揺した。これが誤算の始まりだった。
(つづく。次回の掲載日は未定)