きょう平成22年3月31日、藤田麻衣子女流1級が12年半に亘る現役生活にピリオドを打ち、同時にLPSAを退会する。
藤田女流1級はいまや「どうぶつしょうぎ」のデザイナーとして名を馳せているが、同時に竜王戦や棋聖戦の観戦記者でもあり、私にはこちらのイメージが強い。
藤田女流1級の観戦記デビューは、読売新聞・平成16年1月3日から掲載の第17期竜王戦6組・野田敬三五段(当時)対中井広恵女流六段との対局で、旧姓・比江嶋での執筆だった。第1譜、まるでタイトル戦を思わせる、対局室の高雅な描写が秀逸で、私は「将棋ペン倶楽部大賞候補作」に「観戦記初登板とは思えない熟練した筆づかい。観戦記者として十分やっていける。次の観戦記が読みたい」と推したものだった。
その3年半後の平成19年5月30日、女流棋士会から独立する形となってLPSAが誕生し、藤田女流1級も第1期生のメンバーに加わった。6月3日に東京・新宿で行われた「LPSA設立イベント」では、カメラ係となって会場の熱気を活写し、LPSAサポーター・サバイブの歌のときは一緒に振り付けを踊り、裏方として会場を盛り上げていた。
翌年の1月、大阪で「1dayトーナメント・Bins Gate Cup」が開催され、私は夜行バスに乗って大阪へ出向いた。私は指導対局も予約しており、トーナメント戦が終わった後、女流棋士との指導対局が組まれた。このとき私の相手をしてくださったのが、藤田女流1級だった。
私は女流棋士の棋力がいかほどのものか見当がつかなかったが、それより何より、プロ棋士に指導対局を受けるのは、昭和58年11月の真部一男七段以来、実に24年半振り。その緊張感のほうがたいへんだった。
私はとりあえず角落ちを所望した。
藤田女流1級は3面指しだったが、短考でピシッと指してゆく。そこには女流棋士のオーラが感じられた。
将棋は私の三間飛車。藤田女流1級が☖8五歩と飛車先突破を目指したのに対し、私がそれを受けずに☗7五歩と金取りに突き出したのが強手だった。
以下お互い飛車が成ったものの、金得を果たし下手優勢。しかし決め手を逸し、むずかしくなってしまった。
ここで部分図の符号を記す。上手・1四歩、2三王、2四歩、3二銀、3三桂、3四歩 持駒:金、銀など。下手・1一竜、1六歩、1九香、2六歩、3六歩 持駒:銀、桂、香など。
7一の竜で1一の香を取ったところ。ここで藤田女流1級は☖1二金と打ったが、☗1五桂で寄りとなった。☖1三王なら☗2二銀で詰み。藤田女流1級はこの手をうっかりされたと思う。それゆえ、☗1一竜の前に☖2二銀と先に受けられていたら、私が負かされていた。
しかし内容はともかく、この勝利は本当に嬉しかった。プロ棋士に勝たせていただいたのが初めてで、何か大きな仕事を成し遂げた充実感があった。
局後、会場から大阪駅までぶらぶら歩く。JR大阪環状線・福島駅近くにオシャレな喫茶店があったので入ると、私は藤田女流1級の凛々しい対局姿を想起しながら、棋譜を付けたのだった。もしこの将棋を負けていたら、帰京はつらいものになっていた。
私がこのブログで、藤田女流1級を「女流棋士の師匠」と呼ぶのは、以上の理由による。まあ、「すりこみ」みたいなものである。
平成20年3月より、私はLPSA金曜サロンに通うようになった。しかし当初は夜だけの参加だったので、昼担当の藤田女流1級に指導いただく機会は巡ってこなかった。ところが昨年より、世間の不況のあおりを受けて労働時間が削られ、皮肉にも陽の高いうちから、金曜サロンへ通えるようになった。
そんな昨年4月1日、私はこのブログを開設した。そのころは藤田女流1級ともお手合わせをいただけたが、4月17日の金曜サロンで、藤田女流1級から、
「一公さんのブログ、読んでます」
と言われビックリした。聞くと、藤田女流1級は毎日「LPSA 将棋」で検索し、関連ニュースを探していたのだ。その最中の4月7日に、早くも私のブログを発見したらしい。したがってLPSA最初の読者は、藤田女流1級であった。
金曜サロンでは、藤田女流1級は私を見ると、
「あっ、オオサワさんだー」
といつも笑顔で迎えてくれた。それがどんなに緊張を和らげてくれたことか。しかし指導対局は厳しく、平手戦では勝ち星なしの5連敗を喫してしまった。
LPSAの最強女流棋士は藤田さんではなかろうか――。
私は半ば本気で考えたものだった。6局目で初めて勝たせていただいたときの喜びは、いまでも忘れられない。
あるとき、藤田女流1級が、
「一公さん、ウソつくんだもん」
とふくれるので、訳を訊くと
「ワタシ、『ケッケッケッ』なんて笑いません!」
と言うではないか。たしかにそんな「笑い声」をブログに書いた記憶があったので調べてみたら、これは私自身の笑いを誇張したものだった。藤田女流1級の勘違いだったのだが、これはまだ本人に伝えていない。
そして今年の1月。藤田女流1級は、女流名人位戦予選で、LPSA女流棋士と初戦で当たることになった。相手は私が最も応援する女流棋士である。
「一公さんはどちらを応援するの?」
という顔をされ、私はしぶしぶ
「もちろん先生のほうですよ」
と答えた。まさかそれが藤田女流1級の公式戦最後の対局になるとは、夢にも思わなかった。引退への進境に傾いたのはいつ頃だったのだろう。そういえばいつだったか、
「私も現役は長くないから」
とつぶやいたことがある。女流棋士の降級点制度はよく知らないが、藤田女流1級はそんなに崖っ淵の成績ではなかったはずだ。
縁起のわるいことを言うものだと、そのときは訝ったが、そのころから引退を視野に入れて活動していたのかもしれない。
しかし、と思う。引退は容認するとしても、なぜ退会なのか――。LPSAに籍を残して、普及に専念をすることはできなかったのか。その背景には、やはり「どうぶつしょうぎ」の存在が大きかったのだろう。LPSAはひとつの会社と見てよい。自分の思うように活動するには、組織という存在が足枷になっていたのかもしれない。
譬えが貧困だが、どうぶつは自由に活動するのがいいのだ(藤田先生、ゴメンナサイ)。
藤田先生、いままでいろいろお気遣いいただき、ありがとうございました。またいつかお会いできる日を、楽しみにしています。
藤田女流1級はいまや「どうぶつしょうぎ」のデザイナーとして名を馳せているが、同時に竜王戦や棋聖戦の観戦記者でもあり、私にはこちらのイメージが強い。
藤田女流1級の観戦記デビューは、読売新聞・平成16年1月3日から掲載の第17期竜王戦6組・野田敬三五段(当時)対中井広恵女流六段との対局で、旧姓・比江嶋での執筆だった。第1譜、まるでタイトル戦を思わせる、対局室の高雅な描写が秀逸で、私は「将棋ペン倶楽部大賞候補作」に「観戦記初登板とは思えない熟練した筆づかい。観戦記者として十分やっていける。次の観戦記が読みたい」と推したものだった。
その3年半後の平成19年5月30日、女流棋士会から独立する形となってLPSAが誕生し、藤田女流1級も第1期生のメンバーに加わった。6月3日に東京・新宿で行われた「LPSA設立イベント」では、カメラ係となって会場の熱気を活写し、LPSAサポーター・サバイブの歌のときは一緒に振り付けを踊り、裏方として会場を盛り上げていた。
翌年の1月、大阪で「1dayトーナメント・Bins Gate Cup」が開催され、私は夜行バスに乗って大阪へ出向いた。私は指導対局も予約しており、トーナメント戦が終わった後、女流棋士との指導対局が組まれた。このとき私の相手をしてくださったのが、藤田女流1級だった。
私は女流棋士の棋力がいかほどのものか見当がつかなかったが、それより何より、プロ棋士に指導対局を受けるのは、昭和58年11月の真部一男七段以来、実に24年半振り。その緊張感のほうがたいへんだった。
私はとりあえず角落ちを所望した。
藤田女流1級は3面指しだったが、短考でピシッと指してゆく。そこには女流棋士のオーラが感じられた。
将棋は私の三間飛車。藤田女流1級が☖8五歩と飛車先突破を目指したのに対し、私がそれを受けずに☗7五歩と金取りに突き出したのが強手だった。
以下お互い飛車が成ったものの、金得を果たし下手優勢。しかし決め手を逸し、むずかしくなってしまった。
ここで部分図の符号を記す。上手・1四歩、2三王、2四歩、3二銀、3三桂、3四歩 持駒:金、銀など。下手・1一竜、1六歩、1九香、2六歩、3六歩 持駒:銀、桂、香など。
7一の竜で1一の香を取ったところ。ここで藤田女流1級は☖1二金と打ったが、☗1五桂で寄りとなった。☖1三王なら☗2二銀で詰み。藤田女流1級はこの手をうっかりされたと思う。それゆえ、☗1一竜の前に☖2二銀と先に受けられていたら、私が負かされていた。
しかし内容はともかく、この勝利は本当に嬉しかった。プロ棋士に勝たせていただいたのが初めてで、何か大きな仕事を成し遂げた充実感があった。
局後、会場から大阪駅までぶらぶら歩く。JR大阪環状線・福島駅近くにオシャレな喫茶店があったので入ると、私は藤田女流1級の凛々しい対局姿を想起しながら、棋譜を付けたのだった。もしこの将棋を負けていたら、帰京はつらいものになっていた。
私がこのブログで、藤田女流1級を「女流棋士の師匠」と呼ぶのは、以上の理由による。まあ、「すりこみ」みたいなものである。
平成20年3月より、私はLPSA金曜サロンに通うようになった。しかし当初は夜だけの参加だったので、昼担当の藤田女流1級に指導いただく機会は巡ってこなかった。ところが昨年より、世間の不況のあおりを受けて労働時間が削られ、皮肉にも陽の高いうちから、金曜サロンへ通えるようになった。
そんな昨年4月1日、私はこのブログを開設した。そのころは藤田女流1級ともお手合わせをいただけたが、4月17日の金曜サロンで、藤田女流1級から、
「一公さんのブログ、読んでます」
と言われビックリした。聞くと、藤田女流1級は毎日「LPSA 将棋」で検索し、関連ニュースを探していたのだ。その最中の4月7日に、早くも私のブログを発見したらしい。したがってLPSA最初の読者は、藤田女流1級であった。
金曜サロンでは、藤田女流1級は私を見ると、
「あっ、オオサワさんだー」
といつも笑顔で迎えてくれた。それがどんなに緊張を和らげてくれたことか。しかし指導対局は厳しく、平手戦では勝ち星なしの5連敗を喫してしまった。
LPSAの最強女流棋士は藤田さんではなかろうか――。
私は半ば本気で考えたものだった。6局目で初めて勝たせていただいたときの喜びは、いまでも忘れられない。
あるとき、藤田女流1級が、
「一公さん、ウソつくんだもん」
とふくれるので、訳を訊くと
「ワタシ、『ケッケッケッ』なんて笑いません!」
と言うではないか。たしかにそんな「笑い声」をブログに書いた記憶があったので調べてみたら、これは私自身の笑いを誇張したものだった。藤田女流1級の勘違いだったのだが、これはまだ本人に伝えていない。
そして今年の1月。藤田女流1級は、女流名人位戦予選で、LPSA女流棋士と初戦で当たることになった。相手は私が最も応援する女流棋士である。
「一公さんはどちらを応援するの?」
という顔をされ、私はしぶしぶ
「もちろん先生のほうですよ」
と答えた。まさかそれが藤田女流1級の公式戦最後の対局になるとは、夢にも思わなかった。引退への進境に傾いたのはいつ頃だったのだろう。そういえばいつだったか、
「私も現役は長くないから」
とつぶやいたことがある。女流棋士の降級点制度はよく知らないが、藤田女流1級はそんなに崖っ淵の成績ではなかったはずだ。
縁起のわるいことを言うものだと、そのときは訝ったが、そのころから引退を視野に入れて活動していたのかもしれない。
しかし、と思う。引退は容認するとしても、なぜ退会なのか――。LPSAに籍を残して、普及に専念をすることはできなかったのか。その背景には、やはり「どうぶつしょうぎ」の存在が大きかったのだろう。LPSAはひとつの会社と見てよい。自分の思うように活動するには、組織という存在が足枷になっていたのかもしれない。
譬えが貧困だが、どうぶつは自由に活動するのがいいのだ(藤田先生、ゴメンナサイ)。
藤田先生、いままでいろいろお気遣いいただき、ありがとうございました。またいつかお会いできる日を、楽しみにしています。