日本一の大河信濃川の中流最大の都市長岡市。
内陸の越後平野ど真ん中、温厚な越後人と言われる中で、信州人気質に似た反骨の偉人を何人も産みだした町だ
明治維新、戊辰戦争で宮様を頂き京から大挙北陸路を下る新政府軍は、加賀藩100万石を始め通過地の全ての藩が恭順無抵抗で長岡手前までやって来た。
長岡城に使者を出し恭順して会津攻撃の先鋒になるよう高飛車に命じてきた。
長岡藩牧野家の家老、河井継之助は新政府軍に中立を申し立てたが敵か恭順しかないと言われて戦う事を決意した。
一度は落城したが夜襲して取り返すなど善戦したが多勢に無勢、ついに敗れて会津へ敗走の途中、河井は傷が悪化して亡くなった。
河井は越後の田舎にありながら時代を先取りした人で逸話も多い、
河井継之助を描いた映画「峠」を見るとよい(原作 司馬遼太郎)
長岡戦争で焼け野原になった長岡城下、敗戦の長岡藩は許されたが収入は3分の1になり藩士も町人も困窮した。
時代は明治だが、まだ日本には大名が継続して存在している
大名の主が徳川将軍から明治天皇に変わっただけだ、新政府の指導者といえども数年前までは大名(殿様)の家来、世間知らずの殿様を騙して新政府造りに協力させた後ろめたさと恐れもある
大将軍西郷隆盛も新政府の立役者大久保利通も、初代総理の伊藤博文も島津や毛利の殿様には頭が上がらない。
それは勝利側の大名の話、負けた長岡藩は惨めだ、支藩の三根山藩が本家長岡藩に米100 俵送ってきた
腹ぺこの藩士は米を食べられる、すぐにわけてくれと喜んだ
しかし藩を切り盛りする藩士小林虎三郎は血走った藩士を諭した
「これを分け与えても、数日後には無くなりもとのままにもどるだけだ、これを商人に売って、そのお金で、学校を整備して子供たちを教育すれば数十年後に藩ならず国を富ませる人材がうまれるだろう」
小林は信州松代藩の奇才佐久間象山に学び、広い視野をもった人だった。
小林の尽力で後に国を代表する大臣や教育者、医師などが育ち、その中には山本五十六元帥もいる。
アメリカ通の山本五十六は対米戦争に傾く軍部の中で戦争反対を言い続けた為、蚊帳の外に出され、その間に開戦は決定的になった。
開戦のハワイ真珠湾攻撃の司令官に任命された山本五十六は腹をくくった。
こうなれば短期決戦で有利なうちに外交で停戦させる というのが山本五十六の筋書きだったそうだ。
しかし真珠湾と同時に行われたマレー作戦も大成功して日本人は沸き立った、停戦など言えば踏み殺されるほどの盛り上がりでアメリカなにものぞの勢いの結果はご存じのとおり
昭和20年1月には長岡市も空襲されて焼け野原となり市長はじめ約1500人が亡くなった
900m近い川幅いっぱい使った長岡大花火大会は2日3日二日間行われて2万発の花火が上がる
600mまで上がり650m開く正三尺玉が1日2発上がる
平原綾香さんのJupiterに合わせて尺玉が川幅いっぱいに次々と打ち上がるフェニックスは長岡空襲と中越地震の犠牲者への鎮魂と、これらからの復興の誓いが込められている。
プーチンはウクライナに次々と高価なミサイルを数多撃ち込み多くの人々を殺した。
プーチンはウクライナに花火を上げなさい、そうすればあなたは真の英雄になれるでしょう。
