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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(180) 甲越 川中島血戦 7

2024年08月25日 09時30分59秒 | 甲越軍記
 長尾景虎が軍を整え、信州に侵入して戦を始めたことは次々と甲府に伝えられた、武田晴信もこれまでとは違う新たなる大敵を認め、急ぎ軍を整えて北信濃へと発向する。
十二日には甲府を発ち、十六日には信州小室に至る、十九日には一戦交えんと海野平に陣を敷いた
晴信は山本勘助、小幡織部正、原美濃守を呼び、「景虎未だ十八歳と言えども項羽をも欺く勇将と聞く、今日の戦いは必定十死に一生の戦となるべし
大事なる合戦であるから、汝ら三人は斥候に出て敵情をつぶさに調べて報告あるべし」と命じた

三人は敵情を細かに調べて大将晴信に伝えた
勘助は「敵の備え速やかなる中に濁りと申すものなり、初めての対戦なれば厳重に備えてわが勢の動きを監視して、その動きに合わせると見えます」
原、小幡も同様に見ゆると申し立て「敵の人数は六千余り、されども余の敵と違い合戦御大事と候らえば誰にても遣わされるべきかと」と言う
三将立ち退いた後、勘助をまた招き備えの意見を聞き、備えの商議をおこなった、勘助は密かに備えの立ち、利害を説き、「景虎はいかなる勇将であれ、味方は一万五千余騎、今日丑の刻まで動かざれば味方の吉刻となり申す、されども味方は勝とは思わず、負けざる術を用いれば敵は次第に弱って、味方は行く末勝利となりましょう」と伝えた
晴信は「汝が意見はどれも理に適っておる」と褒め称えて、「されば陣立てを申す」と諸将に命じた
陣を鶴翼に構え、先手右は小山田備中守、信州先方、相木市兵衛尉、望月甚八、芦田下野守、友野、平尾、岩尾、耳取、依路、平原
先手左は郡内小山田左衛門尉、信州先手は長窪左衛門尉、小曽甚八、塩尻五郎左衛門、福沢、内村など
中の先手は、栗原左衛門尉、信州先手は須田淡路守、室賀、綿内、井上なり
旗本の前備えは、真田弾正忠、丸子、屋澤、次に旗本の右、五丁ほど隔てて、飫富兵部少輔が蜂矢の陣形にて備え、旗本の前後は、馬場民部少輔、内藤修理正、日向大和守、勝沼入道、穴山伊豆守、武田典厩の六軍は本陣の後より弓手の方へ雁行の備えにて、原加賀守は九十騎を率いて引き下がり後ろの備えとする

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ここより「甲越軍記」三編の第一となるところだが
編者の速水春暁先生は都に於いて亡くなってしまった
既に三編に及んだが、未だ完成を見ず、その遺稿を南里亭其楽に託す

文政八乙酉中秋望夜 南里亭其楽

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(yottin ようやく武田信玄と上杉謙信が相まみえる段になって編者が突然亡くなった、幸いに後を任される人物あって、「甲越軍記」は続いていく
最初の編者、速水春暁は江戸時代の軍記本、武田家を記した甲陽軍鑑を主として、これに長尾家を記した北越太平記を加えて編纂したのが「甲越軍記」である、この編纂は明治に近い江戸時代後期に行われたものである。
以下は南里亭其楽の編となる)
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足利将軍、足利義政公(室町幕府6代将軍=銀閣寺を造営)の頃より幕府の力が衰えて、ついには応仁の大乱が勃発して、以後戦国時代へと入っていく。
大永、天文の頃いよいよ天下は乱れた麻の如く群雄割拠、下剋上の争いが日本全国でおこった。
そんな群雄の中でも特に甲斐の国、武田大膳大夫兼信濃守源朝臣晴信入道信玄と越後の国、上杉弾正少弼藤原朝臣景虎入道謙信の両雄が名を轟かせた。
武田晴信は幼名勝千代、父左京太夫信虎、大胆不敵にして暴虐超過を見かねて老臣らと信虎を欺いて駿州の今川家に押し込めて、これを廃す
晴信、時に十八歳、武田家の家督を継ぐ、天性英雄俊秀ゆえに家臣、穴山、甘利、小幡、小山田、板垣、飫富、原、内藤、馬場を始め、累代の勇士晴信を助け、慕い集まる者多し
中でも山本勘助晴幸、真田弾正忠幸隆を得て軍議ますます研究し、戦えば百戦百勝なり、その勢い朝日が昇る如し
天文十二年、剃髪して信玄と号し、武田大膳大夫兼信濃守晴信入道法性院大僧正機山信玄と号す。

上杉景虎、本性長尾、幼名虎千代、喜平治、後平三と号す
父、信濃守為景、越中にて討死のあと、兄弾正左衛門晴景、惰弱乱行の為、国の危うきを察し、晴景を攻め討って天文十六年、長尾家を継ぐ、時に十八歳
性質智勇抜群な上に、古志、宇佐美、加地、杉原、安田、高梨、直江を始め、勇猛の士これを補佐し英名四隣に振るい天文二十年弾正少弼に任じ、管領職並びに上杉の姓を屋形民部少輔憲政より譲り受け、同二十一年剃髪して入道謙信と号し、永禄四年上洛して将軍足利義輝公に謁見する、輝の字を賜い、網代の輿を許され、管領上杉弾正少弼輝虎入道謙信と号す

時に天文十六年、武田晴信二十七歳、長尾景虎十八歳、両雄初めて干戈を交えてから十五年の接戦、中にも川中島の合戦は今に至っても人の口に美談として伝わっている。
この両雄の矛盾の始まりは、武田と村上の国境の争いにより、敗れた村上義清が越後に逃れて長尾景虎を頼った時から始まる。




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