おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
角田光代の小説『ドラママチ』(文春文庫)の嫁姑問題をテーマにした『ワカレマチ』を素材にしながら、角田光代の表現力の巧みさを探ってみる第2回目です。
言わば、角田光代の『ワカレマチ』における表現力の研究です。
特に引用部分の下線にご注目ください。
二世帯住宅の2階に夫の祐市と2人で暮らす主人公の雅子が、甲高い声で話し、口うるさい姑の長塚寿満子に抱いている思いは、死んでくれないか、です。
2階の合鍵を渡しながら留守宅に立ち入らないことを取り決めていたのに、寿満子は、雅子がスーパーの買い物から帰ると、部屋にいます。雅子に「なんですか、お探しものですか」と問われて、「それがね、思い出せないのよ、何を取りにきたんだったか」と答えます。
それでいながら「あなた、アルバイトと変わらないんだからお仕事やめちゃえば? 子どもができたらどうするの? 今みたいな生活は無理でしょう」と嫌味を言います。
玄関から出て行くと、「ものすごい物音が聞こえたから」と、夜の9時過ぎに帰った夫と食事をしているところにやって来ます。
昼の時も夜も寝間着姿だった寿満子を見送った夫婦は、話題を夏休みのことに映し、続いて次の表現が出てきます。
食事を終え、私と祐市はソファに並んで腰掛け、テレビを見る。どうでもいいようなバラエティ番組を、奇妙なくらい夢中になって見、同じところで声をあげて笑う。
どちらが努力しているのかわかりませんが、協力的な関係が伝わってきます。
ところで、祐市には、別居する姉(既婚)と妹(独身)がいます。彼女たちは、母親から意地悪言われながら育てられた、と言い、母親の面倒を見ようとしません。
2階に寝間着姿のままいた日以来、寿満子の奇行は急速に増えます。雅子を泥棒扱いし、雅子の身につけていたネックレスを返せと騒ぐこともあり、総合病院の脳外科と心療内科で受診の結果、アルツハイマー病だと診断されます。
子どもたちにできるだけ関わりたくない、と思わせていた寿満子に対する雅子の感情は、次第に変化していきます。
病院に付き添った帰り、タクシーに乗ると、寿満子は吉祥寺を示し、いぶかしく思った雅子にこう言います。
「寄りたいところがあるの」寿満子はそれだけ答え、さらなる質問を避けるかのように目を閉じてしまう。車内は、あっというまに湿布くさいにおいに満ちる。
雅子が心理的に近づこうとするのに、寿満子が拒否的な態度を示していることがよく理解できます。
雅子は、タクシーの車内に座る寿満子をちらちらと盗み見るのですが、かたく目をつぶったままで、吉祥寺駅近くの「寄りたいところ」の古めかしい喫茶店まで向かいます。
店の奥の、水に沈んでいるような、空に浮かんでいるような女の人2人がゆうゆうと描かれている絵の下に向き合いように腰掛けた2人。
寿満子は「たまごのサンドイッチとソーダフロート」、雅子はコーヒーを注文し、大きな絵は東郷青児の作品だと小馬鹿にしたように言う寿満子の言葉に、雅子は振り返って絵を見ます。
絵から顔を逸らし、正面を向き私ははっとする。目の前の寿満子が、今まで見たことないような柔和な表情で絵に見入っていたからである。この絵がお好きなんですかと訊こうとして、けれど私は言葉を舌に乗せることができず、おだやかな笑みを口に浮かべる目の前の女性に見とれた。それはなんだか、長塚寿満子という人ではなく、私がずっと抱いていた、母というものの総称に見えた。
雅子は、母を知らずに成長した人だったのです。
寿満子に対して実の母とは違った「母なるもの」を感じ始め、それでいてもう1つ言うに言われぬ心理が働いています。雅子はこの段階で、寿満子のことを受け入れるようになっています。
外出先で帰り道がわからなくなってしまったほどにアルツハイマー病が進行した寿満子は、みずから介護マンションに入居したいともらすようになります。
2人の娘が来ないまま寿満子を介護マンションに入居させた夫婦は、帰り道、例の喫茶店に寄ります。
注文したのは、雅子がソーダフロート、祐市がたまごサンドイッチとコーヒー。
祐市は、子どものころ母に連れられて姉・妹とも一緒にこの喫茶店によく来ていたのです。
雅子は祐市のたまごサンドイッチを分けてもらいながら祐市の子どものころの思い出話を聞きます。
私はうなずきながら、サンドイッチを口に入れた。マヨネーズとバターがたっぷりの、やわらかい味が口じゅうに広がったとき、さっき思い描いた家族の光景が、ぐにゃりと歪み変化する。そのことに私自身が驚き大きく目を見開く。
ここで雅子は、「母なるもの」を心身ともに受け入れ、まるで子どものころ寿満子の娘であったかのような幻想にとらわれます。
そして、今まで夫婦のどちらも口に言い出したことのないせりふを口にするのです。
アイスクリームを一口なめて、赤いソファで座りなおし、ふりかえって壁の絵画を見ている祐市に、私はそっと言った。
ねえ、子どもを作ろうか。
この短編『ワカレマチ』は、ここで終わります。
「死んでくれないか」とまで思った寿満子の病(アルツハイマー病)の進行と直面し、寿満子に共感することで、自らの中に「母なるもの」が芽生え、子どもを産みたい気持ちになったのです。
2度目の喫茶店でソーダフロートを注文し、たまごサンドイッチを分けてもらって食べたことで、雅子は、より確かな家族の絆を形成したのです。
女性の心理の移り変わりを角田光代の独特の表現力をもとにご理解いただければ幸いです。
短編が8つからなる小説だけに手軽に読めます。
お勧めです。
<お目休めコーナー> ご近所の借景①
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