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見もの・読みもの日記

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テクノロジーの真実/お母さんは忙しくなるばかり(R.S.コーワン)

2010-12-19 01:38:36 | 読んだもの(書籍)
○ルース・シュウォーツ・コーワン著、高橋勇造訳『お母さんは忙しくなるばかり:家事労働とテクノロジーの社会史』 法政大学出版局 2010.10

 19世紀の工業化と20世紀の家庭電化は、お母さんたちの仕事を本当に楽にしたのか? 科学技術史の研究者である著者が、70年代に研究を開始し、1983年に刊行した原著の初の日本語訳である。

 家事労働という、そもそもデータが残りにくい(賃金が発生せず、社会保険制度もないので、労働時間も従事者の数も計測されていない)問題について、著者は丹念に証言を拾い集め、長い歴史を再構成している。アメリカの文学や映画に疎い私には、非常に興味深くておもしろかった。

 まずは18世紀中頃に遡ろう。炊事は男女両方の労働を必要とした。調理は女の仕事であったが、動物をすること、穀類を育て、脱穀し、粉にすることは男性の仕事だった。不思議なことに、家政には男女分業の決まりがあり、男はリンゴ酒や蜂蜜酒をつくり、女はビールをつくった。布製の衣服を直すのは女で、革製の衣服を直すのは男だった。女は床を磨き、男はそのための灰汁をつくった。なんとか生活していくには、家の中に男女それぞれの大人がいることが必要不可欠だった。面白いなあ。結婚→社会の再生産サイクルを促すための智恵だったんじゃないかと思う。

 19世紀半ば、製粉業が発展し、普通の家庭でも小麦粉やトウモロコシ粉を購入することが可能になった。これにより、穀類生産の全工程に関与していた男性は、家庭内の重要なチョア(骨折り仕事)を免じられて、外に働きに出ることが可能になった。一方、女性は、白色粉が手に入るようになったことで、全粒粉による速製パンでなく、手間のかかる白パンやケーキをつくらなければならなくなり、以前よりも労働時間が増した。

 同じことが、炊事ストーブ、ガス・水道・電気の供給、洗濯機、冷蔵庫、真空掃除機、運搬・交通手段としての自動車の登場時にも起きた。テクノロジーの進歩によって、女性は、メイドや配達人や通いの看護婦にやらせていた家事労働を、自分自身で行わねばならなくなり、しかも「見苦しくない家庭生活」のレベルアップにつれて、いよいよ長時間、働かなければならなくなった。興味深いのは、戦間期の「レディーズ・ホーム・ジャーナル」の広告語を分析すると「罪」がトップ3に入ってくるという。夫や子どもたちに栄養バランスのよい食事をとらせ、評判を落とさない服を着せ、彼女自身も健康で賢く若々しくある…こういったことができない母親は「罪深い」とされたのである。

 本書が書かれたのは1980年代だけど、今もアメリカの家庭には「一点のしみもないワイシャツやピカピカの床」をステイタスとする心理ってあるのだろうか。日本の中産階級の場合、この点はさほど強力ではないけれど、子どもの教育に関して母親の役割を期待する割合は、アメリカ以上ではないかと思う。本田由紀さんの『「家庭教育」の隘路』を思い出した。いま、女性の社会参画推進のために、男性の意識改革が求められているけれど、本書を読むと、やっぱり女性自身の意識改革に、もう一度戻ってみたほうがいいと思った。ただし、必要なのは「できる女」を目標に努力することではなく、「…ができない女は罪深い」という先入観を笑いとばす強さではないかと思う。

 本書には、家事労働軽減のための「失敗した試み」もいくつか紹介されている。やっぱり「共同化・協同化」ってダメなんだなあ。「協同組織は、どんなに美しい文で書いてあっても、米国の文化の中では持続は困難である」と著者はいう。自主自立の国だものね。また、ガス冷蔵庫と電気冷蔵庫のシェア争いでは、無音で故障の少ないガス冷蔵庫のほうが技術的にすぐれていたにもかかわらず、圧倒的な企業力で勝ち残ったのは電気冷蔵庫だった。生産者の立場から見て「ベスト」の機械は、必ずしも消費者から見て「ベスト」ではない(逆も真)。消費者は、自由に商品を選択しているように見えて、実際は「買えるものの範囲」でしか決められないのである。事実に基づいた指摘だけに、よく納得できた。
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