○内田樹、高橋源一郎『沈む日本を愛せますか?』 ロッキング・オン 2010.12
背にも表紙にも二人の名前しかないのだが、読み始めたら「内田」「高橋」の間に入るダッシュ(―)のインタビューアーの態度があまりにも大きい。誰だよ、コイツ、と思って「まえがき」を見たら、渋谷陽一さんだった。つまり実質的には、内田樹(1950年生)、高橋源一郎(1951年早生まれ)、渋谷陽一(1951年生)の鼎談と考えたほうがいい。
本書は、2009年4月から2010年8月まで、雑誌「SIGHT」で、国内政治の時事トピックを素材に語られた連続対談、いや鼎談集である。2009年8月の政権交代を挟み、戦後政治の大転換があったようで、実は何も変わらなかったようでもある1年半。マスコミに登場する政治評論家や政治学者の言葉が、ことごとく的外れな印象で(例外は山口二郎さんの著書『ポピュリズムへの反撃』くらいか)、いや、そうじゃないだろ、と苛立っていた私には、読むほどに腑に落ちて、非常にスッキリした。
いちばん我が意を得たと思ったのは、普天間基地に関して「迷走」した鳩山政権を、待っていたかのように袋叩きにしたメディアについてである。どう考えても、アメリカも沖縄県民もその他の日本国民も、みんなが満足する解などあるわけがなかった。にもかかわらず、自民党時代と相も変わらず、面白おかしく総理の無能をあげつらったマスコミの態度が、私にはそらぞらしく感じられてならなかった。
内田樹さんによれば、鳩山総理が沖縄に行って態度を変更したとき、「アメリカの、沖縄の海兵隊に抑止力があるということを勉強しました」と語っているそうだ。米軍が韓国やフィリピンからは撤収できても沖縄からは撤収できない理由、それは沖縄に「抑止力」すなわち核があるからに他ならない。けれど、メディアはそのことに絶対に触れない。
メディアは、沖縄の人々が鳩山総理に対して怒っている、という報道に終始した。しかし、沖縄の人々は、総理個人にではなく、政権が交代しても変えられない日本の統治システム(アメリカと官僚制とマスコミがつくっている)、さらには共犯者である日本人全体に対して怒っていたのではないか。そして、われわれが、普天間問題に関して「俺たち共犯なんじゃない?」と気づいたことは、とりあえず、よかったのではないか。――同感である。でも、当時、私の周囲には、マスコミの尻馬に乗って、鳩山さんダメだねえ、と憤慨している人が多くて、私は自分の感じ方に自信が持てなかったのだが。
政治家が公約を完全履行できなかったときに「うそつき!」と責め立てることはたやすい。しかし、有権者には、選んだ政治家をサポートする責任がある筈で、われわれが面倒がって政治を「丸投げ」してきたことが、日本の政治の劣化の原因なのではないか。…これは耳が痛い。しかし、それは日本が主権国家ではないからで、僕らにアメリカの統治者を選ぶ権利があったら、もっと真剣に政治にかかわっただろう(内田さん)というのは、戦後政治の宿痾をえぐるような指摘で、スッキリを通り越して、ヒヤリとした。
このほか、思わず膝をうった、見事な「見立て」のいくつかを挙げておく。
・政権交代によって、本当は1980年頃に終わっていた「戦後」の延命装置が外された。
・小泉純一郎の本質は反米独立である(養老孟司先生の説)。アメリカに過剰迎合することで、間違った政策を推進させ、アメリカの没落を準備した。小泉政権以降、日本国民の中にあったアメリカへの敬意がほとんど消えてしまった。→これはすごい! 考えてもいなかった深読み。
・小沢一郎はダライ・ラマの後継者探しのように、死せる自民党の転生先を探しに行って民主党(鳩山由紀夫)に出会った。
・小沢一郎は吉本隆明に似ている。彼の仮想敵は知識人である。
・声なき農民、ナロードニキの小沢一郎と、友愛主義者の貴族、鳩山由紀夫が手を組んだ構図は、ロシア革命的である。
まだまだあって、とにかく面白い。日本の現代政治を語るには、政治学の言語よりも文学の言語のほうがぴったりくるのかもしれない。ぐるぐると同じことを何度も、余談や冗談も含めて語っているうちに、とんでもない本質がぬるりと浮かび上がってくる。針にかかった沼のナマズみたいに。ヘンな連想だけど「道行き」とか「国褒め」という文学形式を思い出した。

本書は、2009年4月から2010年8月まで、雑誌「SIGHT」で、国内政治の時事トピックを素材に語られた連続対談、いや鼎談集である。2009年8月の政権交代を挟み、戦後政治の大転換があったようで、実は何も変わらなかったようでもある1年半。マスコミに登場する政治評論家や政治学者の言葉が、ことごとく的外れな印象で(例外は山口二郎さんの著書『ポピュリズムへの反撃』くらいか)、いや、そうじゃないだろ、と苛立っていた私には、読むほどに腑に落ちて、非常にスッキリした。
いちばん我が意を得たと思ったのは、普天間基地に関して「迷走」した鳩山政権を、待っていたかのように袋叩きにしたメディアについてである。どう考えても、アメリカも沖縄県民もその他の日本国民も、みんなが満足する解などあるわけがなかった。にもかかわらず、自民党時代と相も変わらず、面白おかしく総理の無能をあげつらったマスコミの態度が、私にはそらぞらしく感じられてならなかった。
内田樹さんによれば、鳩山総理が沖縄に行って態度を変更したとき、「アメリカの、沖縄の海兵隊に抑止力があるということを勉強しました」と語っているそうだ。米軍が韓国やフィリピンからは撤収できても沖縄からは撤収できない理由、それは沖縄に「抑止力」すなわち核があるからに他ならない。けれど、メディアはそのことに絶対に触れない。
メディアは、沖縄の人々が鳩山総理に対して怒っている、という報道に終始した。しかし、沖縄の人々は、総理個人にではなく、政権が交代しても変えられない日本の統治システム(アメリカと官僚制とマスコミがつくっている)、さらには共犯者である日本人全体に対して怒っていたのではないか。そして、われわれが、普天間問題に関して「俺たち共犯なんじゃない?」と気づいたことは、とりあえず、よかったのではないか。――同感である。でも、当時、私の周囲には、マスコミの尻馬に乗って、鳩山さんダメだねえ、と憤慨している人が多くて、私は自分の感じ方に自信が持てなかったのだが。
政治家が公約を完全履行できなかったときに「うそつき!」と責め立てることはたやすい。しかし、有権者には、選んだ政治家をサポートする責任がある筈で、われわれが面倒がって政治を「丸投げ」してきたことが、日本の政治の劣化の原因なのではないか。…これは耳が痛い。しかし、それは日本が主権国家ではないからで、僕らにアメリカの統治者を選ぶ権利があったら、もっと真剣に政治にかかわっただろう(内田さん)というのは、戦後政治の宿痾をえぐるような指摘で、スッキリを通り越して、ヒヤリとした。
このほか、思わず膝をうった、見事な「見立て」のいくつかを挙げておく。
・政権交代によって、本当は1980年頃に終わっていた「戦後」の延命装置が外された。
・小泉純一郎の本質は反米独立である(養老孟司先生の説)。アメリカに過剰迎合することで、間違った政策を推進させ、アメリカの没落を準備した。小泉政権以降、日本国民の中にあったアメリカへの敬意がほとんど消えてしまった。→これはすごい! 考えてもいなかった深読み。
・小沢一郎はダライ・ラマの後継者探しのように、死せる自民党の転生先を探しに行って民主党(鳩山由紀夫)に出会った。
・小沢一郎は吉本隆明に似ている。彼の仮想敵は知識人である。
・声なき農民、ナロードニキの小沢一郎と、友愛主義者の貴族、鳩山由紀夫が手を組んだ構図は、ロシア革命的である。
まだまだあって、とにかく面白い。日本の現代政治を語るには、政治学の言語よりも文学の言語のほうがぴったりくるのかもしれない。ぐるぐると同じことを何度も、余談や冗談も含めて語っているうちに、とんでもない本質がぬるりと浮かび上がってくる。針にかかった沼のナマズみたいに。ヘンな連想だけど「道行き」とか「国褒め」という文学形式を思い出した。