見もの・読みもの日記

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軍事情報から近代資料へ/外邦図(小林茂)

2011-08-03 00:35:57 | 読んだもの(書籍)
○小林茂『外邦図:帝国日本のアジア地図』(中公新書) 中央公論新社 2011.7

 「外邦図」と呼ばれる一群の地図が存在することは、知っていた。何かを探していて、たまたま、東北大学の「外邦図デジタルアーカイブ」にアクセスしたことがあったのかもしれない。外邦図とは、文字どおり解釈すれば、第二次世界大戦終結以前の「日本の領土以外の地図」を指すことになるが、それでは、この一語に籠る複雑なニュアンスが抜け落ちてしまう。「外邦図とは何か」という基本を理解するためには、せめて本書を通読する必要があるようだ。

 第一に、その淵源は意外と古い。日本では、1880年代初め、外国人技術者の助力を得て、近代的な三角測量が始まる。その一方、外邦図の作成は、三角測量の開始以前から、精度の高い欧米の海図に依存しつつ、始まっていた。その典型が「朝鮮全図」(1875年)である。うーむ、私、この地図と思しきものを、某所で見たことがあるのだが…。

 その後も朝鮮・中国では、陸軍将校らによる測量が実施された。初期には現地高官の庇護のもとで、日清・日露戦争期には組織的に、その後は秘密測量として、続けられた。興味深いのは、日露戦争で、本格的な陸戦の始まりとされる鴨緑江渡河作戦(1904年2月8日)の際、ロシア軍将校の遺体から、詳細な南部満州地図を入手するという幸運が発生していたことだ。もし日本陸軍が同じものを作製しようとすれば、「数年の労力と巨大の費用」を要したであろうと、大山巌参謀総長が訓示している。前線で敵兵から入手したり、従軍した測量隊が作製した地図は、すぐに複写して各隊に分配された。謄写版やカーボン紙が用いられたという。いやー戦争をするって、大変なことだなと思った。

 第一次世界大戦以後は、空中写真測量が本格的に発展する。当時の地図資料や空中写真は、第二次世界大戦の敗戦と同時に、多くが焼却されてしまった。しかし、アメリカ議会図書館には、日本軍撮影の空中写真約2,000枚が収蔵されている(2002年に判明)。これだけでも驚いたのに、さらにアメリカ公文書館には、日本軍撮影の空中写真が約3万7,000枚ある(カンザス州の倉庫にあって、ワシントンで閲覧申請すると、翌日空輸されてくる)という話には、ほとほと呆れてしまった。整理の難しい大量の資料を「とにかく捨てずに保管していた」姿勢に敬服した。責任ある組織(国家)には、ものごとを短期的な必要性や利便性だけで判断しない、こういう機関って必要なんだよなあ…と思う。

 なお、日中戦争の初期、「いまなお議論が続く」南京事件(1937年12月)の際、日本軍は中国(国民政府)軍参謀本部等で、最新の中国地形図を大量に発見し、押収した。このことは「日本軍の地図事情を一変させた」という。東アジアの近代を通じて、地図は、戦争の帰趨を決する重大な軍事情報であり、前線では、常にその争奪戦が繰り広げられていたわけだ。本書を読んでいると、たかが地図1枚が、多くの人命を左右した生々しさに、息苦しくなってくるほどである。

 現在、日本国内に残る外邦図は、主に東北大・京大・お茶の水女子大と、陸上自衛隊(非公開)に分有されている(詳しくは本書で)。三大学のコレクションは、デジタルアーカイブを通じて公開が進められているが、中国大陸と朝鮮半島の地図は、秘密測量や押収図を元にするものが多いこともあって、公開に至っていないという。確かに本書を読むと、関係諸国の研究者や市民との間に、築かなければいけないコンセンサスの重要性がひしひしと伝わってくる。

 ヨーロッパでは、第二次世界大戦中に連合軍が撮影した空中写真に、ドイツ軍から接収した空中写真を加えた「空中偵察アーカイブズ」(The Aerial Reconnaissance Archives)が立ちあがっており、ひとつのモデルケースと言えるかもしれない。戦争遂行と植民地統治の道具だった外邦図を、当該地域の人々とともに活用できる、景観や自然環境の近代資料に転換していきたいという著者の願いに、支援と共感を送りたいと思う。
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