見もの・読みもの日記

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普遍と特殊/近代日本のナショナリズム(大澤真幸)

2011-08-09 23:48:36 | 読んだもの(書籍)
○大澤真幸『近代日本のナショナリズム』(講談社選書メチエ) 講談社 2011.6

 書き下ろしではなく、2006年から2009年にかけて、著者が雑誌等に発表した5本の論考を再録したもの。テーマは表題の「近代日本のナショナリズム」に集約されているが、そのアプローチ方法はバラバラなので、統一的な読後感を得るには、少し読者の努力を必要とする。

 冒頭の「ナショナリズムという謎」は、グローバルな歴史(とりわけ西洋)におけるナショナリズムの生成過程を考える。ナショナリズムとは、「普遍性への志向が、ある段階で突如として停止し、特殊な共同性の水準が生じる」現象である。なぜ、このような、矛盾に満ちた現象が生ずるのか。著者は、資本主義との関連性を指摘する。

 「ナショナリズムからウルトラナショナリズムへ」は、論点を近代日本の歴史的経験に絞り込んだもの。明治期の「ナショナリズム/天皇の国民」は、大正期の「天皇なき国民」を経て、昭和の「ウルトラナショナリズム/国民の天皇」へと転換する。大正期に、社会・文化の隅々に浸透した〈資本制〉が、極大まで規範を普遍化した結果、かえって審級の空無を呼び、「具象的超越への逆説的な回帰」を果たしたと言える。別の箇所を引用するなら、「肝心なのは、規範の特殊性が退避したとき、強力な特殊性が、突如として強力な普遍性の代替物として回帰することができるということである」。私は、これを「普遍性を言い立てる理論には、注意した方がいい」と解釈して読んだ。違うかしら。

 「『靖国問題』と歴史認識」および「〈山人〉と〈客人〉」は、より個別化された問題を扱う。前者は、山田太一のドラマ『終わりに見た街』の分析を通して、敗者を救済することのできる歴史認識について考える。ドラマ『JIN-仁-』が、さんざん言及していた「神」を思い出すところもあった。同じタイムスリップものなので。後者は、柳田国男の「山人」と折口信夫の「客人(まれびと)」を対比させながら、二人の学者が、敗戦が引き起こした日本人の精神的な危機にどう対処したかを考察する。

 以上の論考とは、少し毛色を異にするのが、最後の「現代日本の若者の保守化?」。NHK放送研究所が5年ごとに実施している「現代日本人の意識構造」調査のデータに、独自の分析を加えたものである。われわれは「1990年代から2000年代にかけて、日本人の意識が急激に保守化してきたという印象をもっている」と著者はいう。うん、まあ同意。しかし、著者の分析によれば、日本への自信は「80年代のピーク時には未だ遠く及ばない」という。ああ、私はこの結果のほうが納得できる。それから、近年保守化しているのは「とりわけ若者である」という印象についても、部分的には適合するが、自国への自信の点で保守化を強めているのは、むしろ高年齢層だという。

 また、これは「まえがき」に示されていることだが、日本への強い愛着を表明している者ほど、海外の交流に積極的で、困っている海外の人を助けたいと思う気持ちも強いという。しかし、日本への自信が強い者は、逆の態度を示す。どうやら「自国への愛着」と「自国への自信」は、違うものであるらしい。これは、すごく共感できる結果だった。

 いちばん意外に思ったのは、若者世代で「選挙」「デモ」「世論」等に対する「政治的有効性感覚」が上昇しているという指摘。ただし、著者はこれを額面どおりには取らない。人権や平等などの近代的な普遍概念が失墜した今日、「普遍性をあからさまに拒否すること」だけが、残された普遍性である。それゆえ、若者は、ナショナリズムという特殊性に「アイロニカルな没入」をせざるを得ないのだ、という。アイロニーか。生きにくい時代を生きる知恵なのか。東アジア他地域のナショナリズム的緊張も、根は同じなのかな、違うのかな。
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