〇竹信三恵子『正社員消滅』(朝日選書) 朝日新聞出版 2017.3
竹信さんの本は『ルポ雇用劣化不況』(岩波新書 2009.4)『ルポ賃金差別』(ちくま新書 2012.4)などを読んできた。いま、これらの感想を読み返してみたら「あまり感心しない本だった」「あまり共感しない本だった」と繰り返していて苦笑した。そうだったかもしれないが、本書はわりと共感できる内容だった。
著者はいう。私たちはいま、二つの意味での「正社員」消滅に直面している。一つは、非正社員(時間雇用、有期契約、昇給なし)の増加による、労働現場からの文字通りの正社員消滅。もう一つは、「正しい(適正な)働きかた」という意味での正社員消滅である。正社員として就職することは、もはや「安定と安心の生活」を保障しない。「正社員なんだから」という理由で課される長時間労働、さまざまな拘束、内面支配。そのあげく、要らなくなれば、正社員でも「追い出し」に遭う。これまでの著者のルポは、主に前者にフォーカスされていたと思うが、後者の問題が重点化している点に、私は共感したのである。
全6章のうち、はじめの1章だけは「正社員の消えた職場」を描く。そこでは、責任もノルマも辞めにくさも、正社員そっくりのパート社員が、低賃金と不安定雇用に苦しみながら働いている。スーパー、郵便局、ハローワーク、製造業までも。「人件費を下げるには、働き手の自尊心を砕くことが最も効果的だ」って、ぞっとするほど怖い記述だ。
次に正社員である。今でこそ正社員は、会社に対して無限の責任を負うかのようになってしまったが、1970年代までは、戦後の国際社会が目指した「あるべき働き方」のモデルだった。この指摘には、あらためて蒙を開かれた。1990年代には、臨時職員と正職員の賃金格差について「同一労働の賃金差は八割を超えてはいけない」という判例が示される。うーむ、なんだこれ。なぜ八割?という問いに対して、ある労働法研究者は「同一義務同一賃金」を唱えた。正社員は残業命令や配転命令に従わなければならず、パートより重い義務を負っているから、賃金も高いのだという。
これが「メンバーシップ型契約」という用語とともに定着していく。この言葉は濱口桂一郎さんの『働く女子の運命』(文春新書 2015.12)で知ったが、少なくとも濱口さんは「日本の正社員はメンバーシップ型だから、無限定に働くべき」なんてことは言っていなかったのに、現状と規範を混同する人が多いのは困ったものだ。
そして「高拘束」の実態には暗澹とする。ハラスメントの横行である。これは非正社員の労働現場にも及んでいて、多くの学生もブラックバイトの餌食となっている。「高拘束に耐える働き手」は素晴らしい、という価値観が広まることで、悪辣なビジネスが淘汰されにくくなっているという指摘は重い。耐えることを称賛する道徳観は、ほんとにもう辞めたほうがいい。
一方で「正社員追い出しビジネス」というものが進化しているらしい。これも酷い話だ。「痛みを感じずにクビを切る」ことを外注する会社もひどいし、それを請け負ってビジネスにしている会社もひどい。しかし、最もひどいのは、リストラ推進に助成金を投じる国の政策である。正社員のクビを切り、同じ職場が低賃金の派遣労働者として、その人を受け入れる。これだけで会社は助成金をもらえるのである。いつの間に日本は、こんな社会に向けて舵を切ってしまったのだろう。
政府主導の「働き方改革」はさらに進む。経営者の代表たちが、とにかく「解雇しやすさ」を切望していることはよく分かった。さらに残業代ゼロ法(ホワイトカラー・エグゼプション)やら、残業時間規制の緩和など。しかし、その結果は、正社員が増えても消費が伸びない現実となっている。確かに会社経営も大変かもしれないが、だからと言って労働者が「わがままはいけない」と我慢する態度が、みんなが幸せな社会の実現に貢献するかは、もう一度考えてみる必要があると思う。
竹信さんの本は『ルポ雇用劣化不況』(岩波新書 2009.4)『ルポ賃金差別』(ちくま新書 2012.4)などを読んできた。いま、これらの感想を読み返してみたら「あまり感心しない本だった」「あまり共感しない本だった」と繰り返していて苦笑した。そうだったかもしれないが、本書はわりと共感できる内容だった。
著者はいう。私たちはいま、二つの意味での「正社員」消滅に直面している。一つは、非正社員(時間雇用、有期契約、昇給なし)の増加による、労働現場からの文字通りの正社員消滅。もう一つは、「正しい(適正な)働きかた」という意味での正社員消滅である。正社員として就職することは、もはや「安定と安心の生活」を保障しない。「正社員なんだから」という理由で課される長時間労働、さまざまな拘束、内面支配。そのあげく、要らなくなれば、正社員でも「追い出し」に遭う。これまでの著者のルポは、主に前者にフォーカスされていたと思うが、後者の問題が重点化している点に、私は共感したのである。
全6章のうち、はじめの1章だけは「正社員の消えた職場」を描く。そこでは、責任もノルマも辞めにくさも、正社員そっくりのパート社員が、低賃金と不安定雇用に苦しみながら働いている。スーパー、郵便局、ハローワーク、製造業までも。「人件費を下げるには、働き手の自尊心を砕くことが最も効果的だ」って、ぞっとするほど怖い記述だ。
次に正社員である。今でこそ正社員は、会社に対して無限の責任を負うかのようになってしまったが、1970年代までは、戦後の国際社会が目指した「あるべき働き方」のモデルだった。この指摘には、あらためて蒙を開かれた。1990年代には、臨時職員と正職員の賃金格差について「同一労働の賃金差は八割を超えてはいけない」という判例が示される。うーむ、なんだこれ。なぜ八割?という問いに対して、ある労働法研究者は「同一義務同一賃金」を唱えた。正社員は残業命令や配転命令に従わなければならず、パートより重い義務を負っているから、賃金も高いのだという。
これが「メンバーシップ型契約」という用語とともに定着していく。この言葉は濱口桂一郎さんの『働く女子の運命』(文春新書 2015.12)で知ったが、少なくとも濱口さんは「日本の正社員はメンバーシップ型だから、無限定に働くべき」なんてことは言っていなかったのに、現状と規範を混同する人が多いのは困ったものだ。
そして「高拘束」の実態には暗澹とする。ハラスメントの横行である。これは非正社員の労働現場にも及んでいて、多くの学生もブラックバイトの餌食となっている。「高拘束に耐える働き手」は素晴らしい、という価値観が広まることで、悪辣なビジネスが淘汰されにくくなっているという指摘は重い。耐えることを称賛する道徳観は、ほんとにもう辞めたほうがいい。
一方で「正社員追い出しビジネス」というものが進化しているらしい。これも酷い話だ。「痛みを感じずにクビを切る」ことを外注する会社もひどいし、それを請け負ってビジネスにしている会社もひどい。しかし、最もひどいのは、リストラ推進に助成金を投じる国の政策である。正社員のクビを切り、同じ職場が低賃金の派遣労働者として、その人を受け入れる。これだけで会社は助成金をもらえるのである。いつの間に日本は、こんな社会に向けて舵を切ってしまったのだろう。
政府主導の「働き方改革」はさらに進む。経営者の代表たちが、とにかく「解雇しやすさ」を切望していることはよく分かった。さらに残業代ゼロ法(ホワイトカラー・エグゼプション)やら、残業時間規制の緩和など。しかし、その結果は、正社員が増えても消費が伸びない現実となっている。確かに会社経営も大変かもしれないが、だからと言って労働者が「わがままはいけない」と我慢する態度が、みんなが幸せな社会の実現に貢献するかは、もう一度考えてみる必要があると思う。