見もの・読みもの日記

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空襲は怖くない/「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」(大前治)

2017-03-13 23:28:33 | 読んだもの(書籍)
〇大前治 『「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」』 合同出版 2016.11

 かつて「防空法」という法律があったことを、私は、2013年下半期のNHKの朝ドラ「ごちそうさん」で知った。主人公のめ以子の夫である西門悠太郎は、大阪市役所の建築課に勤務していたが、戦争がはじまり、空襲に備えて建物疎開をすすめる防火改修課へ異動となる。さらに市民向けの防火演習を担当することになったが、軍の意向を無視して「命が惜しかったら逃げろ」と指導したために逮捕され、満州行きとなる。

 このドラマ、いまBSプレミアムで3年ぶりの再放送が進行中である。明治末年の東京に生まれた主人公が、大正のハイカラ女学生となり、伝統とモダンが同居する大阪での新婚生活、戦中、戦後と、生活風俗の変化がよく描かれていて面白い。空襲による延焼を防ぐため、行政主導で「建物疎開」が行われる一方、人の「疎開」は本人の意思だけで自由にできなかったことなど、私はこのドラマで初めて知った。そして、詳しいことが知りたいと思っていたら、まるで再放送のタイミングに合わせるように、本書が刊行されたのである。

 本書には、当時の新聞・雑誌記事、ビラ、ポスターなど200点以上の図版が掲載されており(カラーも多い)、有無を言わせぬ迫力がある。第一次世界大戦以降の航空技術の発達により、防空の必要性を感じた日本政府は、昭和3年(1928)頃から防空演習キャンペーンを全国的に展開し、昭和12年(1937)3月「防空法」を制定する。当時は、中国大陸での武力衝突も沈静化しており、一般市民は空襲の危機感を抱いていなかった。まずは防空訓練と施設整備から、という触れ込みで制定された「防空法」だったが、同年7月に盧溝橋事件が起き、にわかに戦争が切迫してくると、「警防団」が結成される。これがもう…『警防団教養指針』によれば、団員たる者「忠心愛国、滅私奉公の信念を堅持すべからずを得ず」「徒(いたずら)に理論形式に流れることなく」というのだ。こんな団体いやだ。当時も警防団員になりたがらない人が多く、人員不足に悩んだというのは、少し救われるような気がする。

 そして昭和13年になると、内務省から「警戒警報又は空襲警報発令されたる場合」は「原則として避難せしめざる様指導」するという通達が出る。なんだこれは。老幼病者等、特に認められた者以外は退去・避難させず、「自衛防空の精神により各々自己の持ち場を守り、防空その他の業務に従事する」ことが求められた。そうであれば、この結果、空襲の犠牲になった民間人には、兵士と同様の補償があってしかるべきではないだろうか。

 昭和16年に発表された「国民防空訓」は、勝手に防空壕をつくることを禁じている。防空壕も医薬品も食糧も当局が準備万端ととのえているから、国民は「安心してよろしい」という。さらに、今後は当局が刊行した防空資料を基準とすることを求めている。昭和14年刊行の『国民防空読本』(内務省計画局編)は、焼夷弾の恐ろしさを明記しており、消防作業の困難も予言されていた。ところが、昭和16年頃から「危険でない焼夷弾」「怖くない空襲」の記述が増えていく。果ては「濡れむしろをかぶせる」とか「手袋で手づかみ」を言い出すんだからトンデモない。のちの原発プロパガンダを思い出すところもある…。

 当時も醒めた目で真実を見ていた人々はいた。物理学者の浅田常三郎は著書『防災科学』(昭和18年5月刊)に、焼夷弾の消化は不可能という趣旨のことを書いた。政府の広報誌『写真週報』には、昭和18年、大阪で行われた焼夷弾の消火実験が掲載されている。閃光、爆発、巨大な黒煙など、写真の恐ろしさは身震いするほどだが、なぜか記事は「消火成功」「怖くても逃げるな」でまとめられている。そして、ついに本土空襲が始まり、多くの都市が焼き尽くされた。

 忘れてならないのは、昭和20年7月の青森空襲の悲劇。「空襲予告ビラ」を見た市民が郊外に避難したことに県知事が怒り、「住家に帰らない者は町会の台帳から抹消し、配給を受けられなくする」と脅した。このため、多くの市民が青森市内に戻って来たところに空襲があり、死者1000名を超す大被害となった。これも最近の震災避難者の帰還を促す「恫喝」を思い出して暗澹となった。一方、新潟県知事や八戸市長は、軍や政府の意向に逆らっても「避難」を勧告し、多くの生命を救おうとしたことが本書に記されている(結果的に空襲は行われなかったが)。生きるために必要なのは、大勢に逆らっても合理的判断をする力であり、そういうリーダーを選ぶことだと感じた。

 なお、ドラマ「ごちそうさん」で神回とされる「地下鉄への避難」(史実に基づく)だが、政府は昭和19年の「防空計画」で「地下鉄道の施設は、これを退避または避難の場所として使用せしめざるものとす」と身も蓋もなく定めている。この方針に基づき、空襲が始まると、構内の客は地上の火の海へ追い出された。ひどすぎる。しかし「大阪府防空計画」によると、大阪市営地下鉄は、始発から終電の間に空襲警報が発令されたときは、10分間隔で運転された。これは市民の避難のためでなく、「防空上緊急参集を要する人」を輸送するための措置だった。そして、昭和20年3月深夜の大阪大空襲では、朝の一番電車で移動した体験談が知られているが、6月以降、昼の空襲時には地下鉄駅の入口が固く閉ざされたという。こんな死に方を強いられるような時代は、絶対二度と来てほしくない。
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