見もの・読みもの日記

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読書・出版・大学のゆくえ/教養主義のリハビリテーション(大澤聡)

2018-06-12 21:49:02 | 読んだもの(書籍)
〇大澤聡『教養主義のリハビリテーション』(筑摩選書) 筑摩書房 2018.5

 瀕死の状態にある教養主義に関し、性急なアップグレードでもリバイバルでもなく、じっくりリハビリテーションから始めたい、と考える著者が「先達」と語り合う3本の対話で構成されている。表紙を見たとき、著者の名前は知らなかったが、対談者の3名が、私の好みにぴったりだったので、迷わず購入してしまった。その3名とは、鷲田清一氏(1949-)、竹内洋氏(1942-)、吉見俊哉氏(1957-)である。著者は1978年生まれで、この微妙な世代のばらけ方が、それぞれの対話に活かされているように思った。以下に印象的だった箇所を取り上げていこう。

 鷲田さんは「すぐれたデザイン」を語って「人をパッシブにしない」「多義性」「批評性」を挙げている。もとは教養のインターフェースとして、テレビは読書よりもパッシブという話なのだが、公共空間とか大学の授業とか、さまざまなものに応用できる視点である。現代は、現場的教養(実践的な知)が重視される時代だが、旧来型の教養が持っていた「総合」のモメントも大事、というのが大澤さんの認識である。これに対して鷲田さんが、(近年の)大学教育の「総合」は失敗の連続で、実態はリレー講義でしかない、と喝破している。脇道にそれるが、1980年代の民博にいた文化人類学者たちは、とんでもない個別研究をやっていて、学問上の作法も無手勝流で「野獣ばっかりでした」というのに大笑いした。特定地域の特定課題を追求する研究から、汎用性の高い理論をあぶり出す。そうしたダイナミズムは、80年代半ばから急速に衰退してしまった。

 竹内さんとは教養主義の歴史をめぐる対話が展開されている。阿部次郎が「教養」という言葉をほとんど使っていないという指摘が面白かった。彼は、前近代の「修養」「修行」という言葉を使いながら、新たにインテリ向けの修養主義を立ち上げ、実質的に大正期の教養主義を牽引していく。昭和初期に、教養主義の鬼子として現れるのが、マルクス主義と日本主義。マルクス主義は全体知ないし総合知を志向する点で教養主義的な側面がある。マルクス主義的なものが経済学部から撤退するとともに、社会科学に制度的に組み入れられていた「文学部的なもの」(思想史、哲学、歴史など)が、大学改革によって一気につぶされてしまった。あとは研究者の劣化スパイラル、文化ポピュリズムを嘆く絶望談義。「論文を書かないことが美徳」みたいな旧時代が本当によかったかは疑問だが、学者が効率ばかりを追い求め、学問的な基礎体力をつけることを面倒くさがる現在の傾向は確実に問題だと思う。

 吉見さんは細かい世代論が面白かった。70年代後半に学生時代を送った吉見氏が師事した先生のほとんどは1930年代後半生まれ(見田宗介、栗原彬、蓮実重彦)で、小学校高学年か中学生で敗戦を迎え、戦後のどさくさ、つまり自由度の大きい時代に自己形成を行っている。彼らは60年安保世代であり、68-69年の大学紛争では、博士課程の大学院生や助教授などの若手教員だった。「60年代末の大学紛争をめぐる議論は、1940年代後半生まれの全共闘世代と30年代後半生まれのこの世代、それから大学執行部にも入っていた1920年代生まれの世代の微妙な価値観の違いにもっと繊細であるべきですね」という指摘は、すごく重要だと思った。

 また、大学に対する提言の数々も刺激的だった。政治家が選んだ課題にキャッチアップしないと予算がもらえないという仕組みの不合理を指摘する一方、教員中心主義にも批判を向ける。学生の視点に立った「大学の自由」を実現するには、教員が自分たちの既得権益と相反する改革に取り組めるかどうかが問われているという。さらに授業の負担を軽減し、質を維持するには、1つの授業で取得可能な単位数を思い切って増やすこと、学生がクリティカルに社会とかかわる回路を増やすこと、専攻の二刀流主義、デジタルアーカイブの構築と活用、などが述べられている。

 最後に著者の談話ふうの小文がある。3本の対話をおさらいするような内容であるが、ここでも気になった箇所だけを取り上げておく。教養とは「全体性への想像力」であるが、はじめから検索ツールの便利さを教えこまれると、検索結果の一覧を「全体」と錯覚し、ツール(ウェブ)の外部が見えなくなる危険性がある。具体例をあげると、人文・社会科学系の領域では、学会誌より大学の紀要類の電子化のほうが進んでいる(機関リポジトリのおかげ)。その結果、高度な査読を経た学会誌論文よりも紀要論文のほうがヒットする確率が高い。研究者たちは、そのあたりの事情を了解して、ネット上の情報を補助的に使っているというけど、本当にそうか?という問いかけに、深く考えさせられるものがあった。いや、紀要類の電子化をやめたほうがいいという意味ではないと思うけれど。
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