見もの・読みもの日記

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失敗した立憲君主/ヴィルヘルム2世(竹中亨)

2018-06-20 23:43:12 | 読んだもの(書籍)
〇竹中亨『ヴィルヘルム2世:ドイツ帝国と命運を共にした「国民皇帝」』(中公新書) 中央公論新社 2018.5

 ドイツの歴史には全く詳しくないので、ヴィルヘルム? 森鴎外がドイツ留学したときの皇帝かな?と思ったら、それは祖父のヴィルヘルム1世(1797-1888)だった。その程度の予備知識なのだが、先日たいへん面白く読んだ君塚直隆氏の『立憲君主制の現在』には、ドイツの皇帝の話がなかったなあと思い、本書で補完してみることにした。

 ヴィルヘルム2世(1859-1941)は、両端を跳ね上げた「カイゼル髭」の由来となった人物で、筋金入りの硬派、ドイツ至上主義に凝り固まった排外主義者のイメージがある。しかし、その実態は、流布したイメージとはずいぶん異なる人物だったことを本書は徐々に明らかにしていく。プロイセン王太子の父フリッツ(のちフリードヒ3世)とイギリス王女の母ヴィッキーの間に生まれたヴィルヘルムは、母の祖国であるイギリスに、生涯、強い愛着を持っていた。また、生まれたときから左腕に運動障害があったため、母親からあらゆる矯正療法を課せられ、障害が克服できないと分かったあとも、スパルタ式の帝王教育を強いられた。こうした生い立ちの結果、ヴィルヘルムは、自己肯定感が傷つき、「男らしさ」を装うようになったのではないかと著者は推測する。

 1888年3月、老皇帝ヴィルヘルム1世が世を去り、息子のフリードヒ3世が後を継いだが、すでに病状が重く、6月に死去した。即日、ヴィルヘルム2世が即位。ドイツでは1888年を「三皇帝の年」と呼ぶそうだ。ちなみに1884年にドイツに留学した森鴎外がベルリンを発って帰国の途についたのが1888年7月、横浜着が9月である。これは余談。

 即位から2年後、ヴィルヘルム2世は、祖父ヴィルヘルム1世の片腕だった宰相ビスマルクを更迭し、本格的な親政を開始する。しかし、すでに立憲君主制を整えていたドイツ帝国では、内閣や議会を無視して皇帝が権力を揮うことはできなかった。しかもヴィルヘルム2世は気まぐれで自信過剰。地味な実務が大嫌いで、書類への書き込みは「よし!」とか「ナンセンス!」という感嘆詞のみだったという。清朝盛期の勤勉な皇帝とはえらい違いである。一方、積極的にメディアに露出し、統一国民国家のシンボルであろうとした姿は興味深い。大衆の政治参加を基礎に君主権を強めることが目的だったが、当人に確たる政策構想がないので、結局は、世論に流されるだけになってしまう。現代のポピュリスト政権を先取りした感もある。

 第1次世界大戦において外交・軍事に失敗し、英仏露に敗れたヴィルヘルム2世は退位を迫られる。しかし退位を拒否した結果、君主制そのものが倒され、閣僚が一方的に共和国樹立を宣言する事態となる。その力量もないのに、歴史の転換点に立たされてしまった人間の不幸。できすぎたドラマの脚本のようだ。そしてドラマは終わらない。ヴィルヘルムはオランダへ亡命し、物質的には何不自由なく、安楽な晩年を過ごした。ただし、精神的には憤怒と怨恨を抱え、帝国の破滅の原因はユダヤ人にあると考えた。また共和国を憎悪し、帝政復活を望み、一時はナチスに期待をかけた(へええ!)。しかし、党勢拡大の間は旧皇帝の権威を利用していたナチスも、政権を奪取すると、もはや旧皇帝を用済みと見なした。ヴィルヘルムはナチスへの憎悪をもらすようになった。1941年、ナチス・ドイツの敗北を見ることなく、ヴィルヘルムはこの世を去る。

 19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパで、多くの人々が体験した辛苦や惨禍に比べれば、ヴィルヘルム2世は「恵まれた人生」だったと著者は総括する。そうかなあ。私は彼の人生に、生い立ちから晩年まで「幸福」を見出すことが全くできない。でも、彼のような失敗例と比較すると、イギリスなど、20世紀を生きのびた「立憲君主制」の君主たちが乗り越えたハードルの高さを感じることができる。
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