〇高木久史『撰銭とビタ一文の戦国史』(中世から近世へ) 平凡社 2018.8
『貨幣が語るローマ帝国史』を読み終えたところで、引き続き貨幣の歴史を読む。「はじめに」にいう。本書は、銭を主人公とし、銭が英雄たちをどう振り回したのか、英雄たちが動かした歴史ではなく、英雄たちを動かした現実にアプローチする。最後まで読み終えて再びこのページに戻ると、納得できて味わい深い宣言である。
なお、銭(ぜに)とは金属製の、円形で中央に方孔のある塊をいう。銭の貨幣単位は「文(もん)」で、金貨銀貨に比べて少額の貨幣であるから、銭の流通具合を見ることで、庶民経済の発展を知ることができる。
日本では13世紀後半から14世紀にかけて銭が不足したため、民間で中国の銭が模造されるようになった。これを「偽造」と表現するのは適切でない。政府による供給が十分でない場合、民間が不足する交換手段を自律的につくりだすことは、しばしば起きる現象である。15世紀から16世紀、室町時代の盛期から戦国時代にかけても模造銭は造られ続けた。15世紀には日本独自の貨幣、無文銭も登場する。日本では錫が取れず、錫が少なく銅が多い銭は文字がはっきり出にくいのだという。ただし無文銭は特定の地域内の売買でのみ用いられ、中央政府や地方政府は、おおむねその使用を禁じた。
教科書には、足利義満が明と国交を樹立し、銭を輸入したと記述されているが、室町幕府が輸入した銭の量は大きくない。実は日本は琉球へ銭を輸出し、それが中国へ再輸出されることもあったらしい。これはびっくり! そして、日本国内では、銭の不足を補う手段として、100文未満の銭の束を100文として扱う省陌(せいはく)、割符(さいふ)や祠堂銭預状(しどうせんあずかりじょう)など一種の紙幣、掛取引、信用取引などが行われた。
15世紀後半から16世紀になると、1枚1文という銭の等価値使用原則に反する現象が目立つようになる。一つは撰銭(えりぜに)で、15世紀後半になると銭種による撰銭が頻発した。新しい銭より古い銭が好まれたことは、理由を聞くと納得がいく。しかし明の洪武通宝は九州で好まれたとか、永楽通宝は九州と関東では好まれたが機内では嫌われたなど、よく分からない地域差があるのは面白い。二つ目は「銭の階層化」で、1枚1文の基準銭に対し、1枚1文未満の減価銭が通用するようになった。なお、ある地域の基準銭が、別の地域では減価銭として扱われることもあった。そのため京都では銭そのものを売買する市場も成立した。目を白黒するような話で、中世における「銭」が、現代の貨幣とはかなり異質だったことが分かる。
中央および地方政府の為政者たちは、まず撰銭に対しては、これを規制し、「悪銭」の使用を禁じたり、非基準銭を一定の割合まで混ぜることを許容した組成主義を適用したりした。これらは食糧の売買において、買い手(銭の所有者)の購買力を保護することを目的とした施策である。
次に「銭の階層化」に対しては、この慣行に乗って財政を運営せざるを得なかった。ここから、信長、秀吉、家康というおなじみの戦国の覇者が登場する。信長は銭の不足に直面した結果、基準銭と各種減価銭の換算比を公示して、基準銭以外も積極的に流通させることにした。一方、米を交換手段として用いることを禁じ、食糧としての米を確保した。これらは特に信長の独創ではなく、現実を受け入れ、慣行に乗ったものだという。そして信長が羽柴秀長の名で発した法によって「ビタ建て」が登場する。ビタとは、従来の基準銭以外を指したらしいが、次第に価値が上がって基準銭になっていく。
秀吉は無文銭の使用を禁じたが、それ以外の狭義のビタを基準銭とする路線を受け継いだ。家康は「慶長貨幣法」によって、金貨・銀貨・銭の比価を定め、基準銭であるビタの範囲を定義した。それでも現実の取引では、ビタを上銭・中銭・下銭に階層化する慣行が根強く残ったという。そんな中で、彦根藩ではビタを全て等価とする江戸幕府法に準拠して会計を処理していたという小さな余談には、さすが井伊家!と微笑んでしまった。
17世紀初め、徳川家光は1枚1文の寛永通宝を発行する。17世紀は東アジアの各国が、それぞれ独自の銭を発行するようになった時代である。寛永通宝が流通するようになると、ビタは市場から姿を消し、銭における長い中世に終わりが訪れた。
以上に摘記しなかった点にも、興味深い記述が多数あり、今後、博物館などで日本の銭を見るときの参考になると思う。中世の銭を知ることによって、現在の貨幣のありかた(等価値使用原則とか、国家ごとに貨幣があるとか)が、実は今の時代に限定的なものだということを教えられた。同時に、電子マネーとかユーロのような統合通貨とか、未来の貨幣がどう変わっていっても不思議ではないと感じた。
『貨幣が語るローマ帝国史』を読み終えたところで、引き続き貨幣の歴史を読む。「はじめに」にいう。本書は、銭を主人公とし、銭が英雄たちをどう振り回したのか、英雄たちが動かした歴史ではなく、英雄たちを動かした現実にアプローチする。最後まで読み終えて再びこのページに戻ると、納得できて味わい深い宣言である。
なお、銭(ぜに)とは金属製の、円形で中央に方孔のある塊をいう。銭の貨幣単位は「文(もん)」で、金貨銀貨に比べて少額の貨幣であるから、銭の流通具合を見ることで、庶民経済の発展を知ることができる。
日本では13世紀後半から14世紀にかけて銭が不足したため、民間で中国の銭が模造されるようになった。これを「偽造」と表現するのは適切でない。政府による供給が十分でない場合、民間が不足する交換手段を自律的につくりだすことは、しばしば起きる現象である。15世紀から16世紀、室町時代の盛期から戦国時代にかけても模造銭は造られ続けた。15世紀には日本独自の貨幣、無文銭も登場する。日本では錫が取れず、錫が少なく銅が多い銭は文字がはっきり出にくいのだという。ただし無文銭は特定の地域内の売買でのみ用いられ、中央政府や地方政府は、おおむねその使用を禁じた。
教科書には、足利義満が明と国交を樹立し、銭を輸入したと記述されているが、室町幕府が輸入した銭の量は大きくない。実は日本は琉球へ銭を輸出し、それが中国へ再輸出されることもあったらしい。これはびっくり! そして、日本国内では、銭の不足を補う手段として、100文未満の銭の束を100文として扱う省陌(せいはく)、割符(さいふ)や祠堂銭預状(しどうせんあずかりじょう)など一種の紙幣、掛取引、信用取引などが行われた。
15世紀後半から16世紀になると、1枚1文という銭の等価値使用原則に反する現象が目立つようになる。一つは撰銭(えりぜに)で、15世紀後半になると銭種による撰銭が頻発した。新しい銭より古い銭が好まれたことは、理由を聞くと納得がいく。しかし明の洪武通宝は九州で好まれたとか、永楽通宝は九州と関東では好まれたが機内では嫌われたなど、よく分からない地域差があるのは面白い。二つ目は「銭の階層化」で、1枚1文の基準銭に対し、1枚1文未満の減価銭が通用するようになった。なお、ある地域の基準銭が、別の地域では減価銭として扱われることもあった。そのため京都では銭そのものを売買する市場も成立した。目を白黒するような話で、中世における「銭」が、現代の貨幣とはかなり異質だったことが分かる。
中央および地方政府の為政者たちは、まず撰銭に対しては、これを規制し、「悪銭」の使用を禁じたり、非基準銭を一定の割合まで混ぜることを許容した組成主義を適用したりした。これらは食糧の売買において、買い手(銭の所有者)の購買力を保護することを目的とした施策である。
次に「銭の階層化」に対しては、この慣行に乗って財政を運営せざるを得なかった。ここから、信長、秀吉、家康というおなじみの戦国の覇者が登場する。信長は銭の不足に直面した結果、基準銭と各種減価銭の換算比を公示して、基準銭以外も積極的に流通させることにした。一方、米を交換手段として用いることを禁じ、食糧としての米を確保した。これらは特に信長の独創ではなく、現実を受け入れ、慣行に乗ったものだという。そして信長が羽柴秀長の名で発した法によって「ビタ建て」が登場する。ビタとは、従来の基準銭以外を指したらしいが、次第に価値が上がって基準銭になっていく。
秀吉は無文銭の使用を禁じたが、それ以外の狭義のビタを基準銭とする路線を受け継いだ。家康は「慶長貨幣法」によって、金貨・銀貨・銭の比価を定め、基準銭であるビタの範囲を定義した。それでも現実の取引では、ビタを上銭・中銭・下銭に階層化する慣行が根強く残ったという。そんな中で、彦根藩ではビタを全て等価とする江戸幕府法に準拠して会計を処理していたという小さな余談には、さすが井伊家!と微笑んでしまった。
17世紀初め、徳川家光は1枚1文の寛永通宝を発行する。17世紀は東アジアの各国が、それぞれ独自の銭を発行するようになった時代である。寛永通宝が流通するようになると、ビタは市場から姿を消し、銭における長い中世に終わりが訪れた。
以上に摘記しなかった点にも、興味深い記述が多数あり、今後、博物館などで日本の銭を見るときの参考になると思う。中世の銭を知ることによって、現在の貨幣のありかた(等価値使用原則とか、国家ごとに貨幣があるとか)が、実は今の時代に限定的なものだということを教えられた。同時に、電子マネーとかユーロのような統合通貨とか、未来の貨幣がどう変わっていっても不思議ではないと感じた。