〇比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史:権力と図像の千年』(中公新書) 中央公論新社 2018.9
ローマ帝国については高校の世界史程度の知識しかないのだが、このように具体的なモノから入る歴史記述なら私にも読めるかもしれないと思って読み始めた。新書にしては図版が豊富なのも気に入った。
ローマ帝国の貨幣といえば表面に皇帝の肖像が描かれたものを想像する。全ての貨幣がそうだったのかはよく知らないが、世界史の資料集などに「〇〇皇帝」の肖像として貨幣の図像が掲載されていたことを記憶している。為政者の肖像を描くか否かは前近代における日本と西洋のお金の大きな違いである。と著者は述べているが、むしろ「東アジアと西洋の違い」と言いたいところだ。
ローマ人が自ら貨幣を造り始めたのは前3世紀で、ギリシア貨幣の伝統を受け継ぎつつ、独自性を発揮していく。戦争に関わる図像が多いのはそのひとつ。絶え間ない戦争によって勢力を拡大したローマ人は戦争での勝利を何よりも重んじたためだという。また、前2世紀前半から、下級役人である造幣者(造幣三人委員)の名前を記した貨幣や、造幣者の家系や祖先の功績を図像で示す貨幣が現れる。ただし自分自身を称えるような貨幣は出現しない。
前2世紀(共和政期)のローマ社会は、単独統治者、つまり独裁者の登場を登場を強く恐れた。市民集会が行われるローマ中心部の広場から、許可なく建てられた人物像が撤去されたほどである。したがって、貨幣に自己の肖像を描出することも独裁への意欲ありと見なされ、不人気につながることから忌避されたと考えられる。英雄神や、すでに亡くなった祖先は独裁者になる心配がないので許容された(しかし祖先の肖像は駄目)。へええ、共和政時代のローマ人って面白い。
だが、前1世紀には貨幣を通じた自己宣伝が激しくなり、ついにカエサルのライバルであったポンペイウスの功績(ヒスパニアの反乱鎮圧)を描いた貨幣が鋳造される。この背景には、ポンペイウスが、指揮官と個人的に結びついた志願兵の軍団を率いたことがある。志願兵である市民たち、あるいは公職者たちも、実力者の庇護の下に入るため、強者を顕彰する貨幣が造られ始める。続いてポンペイウスの肖像を描く貨幣が現れ(ただし死後)、ついに存命中に貨幣に肖像を描出された人物が現れる。カエサルである(前44年頃)。これはカエサルの意思というより、カエサルの庇護を願う下位の人々がおこなった一種の追従だった。意外なようで、よく考えると納得がいく。
カエサルの死後も、オクタウィアヌス(アウグストゥス)、カリグラ、ネロなど皇帝の肖像を描出した貨幣が造り続けられた。表面には皇帝の肖像、裏面にはいずれかの神を描いた貨幣が一般的となる。造幣者の名前は貨幣から消えていく。細かく見ていくと、前帝の姿によって帝位継承の正当性をアピールしたり、自分の後継者をアピールしたり、いろいろな意図が読み取れて面白い。
なお余談だが、ローマ皇帝「家」は、帝国財政の大半を私的な財産によって担っていた。もちろん皇帝直轄州やいくつもの農地・鉱山・工場から得られる収入も莫大だったが、市民への富の配分(え?)、神殿への供物、首都の建築物の建造と修復、ローマ軍・警備隊・消防隊への給与支払いなど、支出も膨大だった。うーん、いったい統治機構がどうなっていたのか、非常に興味が湧いてきた。たとえば中国のような東洋の帝国とどのように違うのか。
次にローマ属州のバラエティに富んだ貨幣を見ていく。ヘレニズム時代(前323-前30)、地中海世界の諸都市は、臨機応変に諸王国の権威を利用していた。やがてローマがヘレニズム諸王国を滅ぼすと、諸都市はローマの「権威」に服するようになる。しかしローマは「小さな政府」を国是とし、問題が起きない限り各都市の自治を認めた。そのため、都市ごとに貨幣、特に市民の日常生活に必要な銅貨の鋳造が続けられた。ただし3世紀末には、ローマ帝国の行政改革、公職者の増員が行われ、属州に対する介入が強まり、属州諸都市が独自に貨幣を発行することは認められなくなる。
最終章はキリスト教と貨幣について。4世紀初めにキリスト教が公認されると、キリスト教に関わる図像がローマの貨幣に登場する。キリスト教は普遍的な単一神を信仰するという点で、ギリシアやローマの土着的な多神教とは異質である。ただし、キリスト教以前に一神教がなかったわけではない。エジプトに出自を持つセラピス神は、ギリシアの神々がローマ土着の神々に置き換えられたのと異なり、セラピス神のまま、各地で各民族に信仰された。普遍的な単一神という点で、かなりキリスト教に似ている。この章は貨幣の図像を材料に、もっぱら古代地中海世界の信仰について語っており、初めて知ることが多くて示唆的だった。
ローマ帝国については高校の世界史程度の知識しかないのだが、このように具体的なモノから入る歴史記述なら私にも読めるかもしれないと思って読み始めた。新書にしては図版が豊富なのも気に入った。
ローマ帝国の貨幣といえば表面に皇帝の肖像が描かれたものを想像する。全ての貨幣がそうだったのかはよく知らないが、世界史の資料集などに「〇〇皇帝」の肖像として貨幣の図像が掲載されていたことを記憶している。為政者の肖像を描くか否かは前近代における日本と西洋のお金の大きな違いである。と著者は述べているが、むしろ「東アジアと西洋の違い」と言いたいところだ。
ローマ人が自ら貨幣を造り始めたのは前3世紀で、ギリシア貨幣の伝統を受け継ぎつつ、独自性を発揮していく。戦争に関わる図像が多いのはそのひとつ。絶え間ない戦争によって勢力を拡大したローマ人は戦争での勝利を何よりも重んじたためだという。また、前2世紀前半から、下級役人である造幣者(造幣三人委員)の名前を記した貨幣や、造幣者の家系や祖先の功績を図像で示す貨幣が現れる。ただし自分自身を称えるような貨幣は出現しない。
前2世紀(共和政期)のローマ社会は、単独統治者、つまり独裁者の登場を登場を強く恐れた。市民集会が行われるローマ中心部の広場から、許可なく建てられた人物像が撤去されたほどである。したがって、貨幣に自己の肖像を描出することも独裁への意欲ありと見なされ、不人気につながることから忌避されたと考えられる。英雄神や、すでに亡くなった祖先は独裁者になる心配がないので許容された(しかし祖先の肖像は駄目)。へええ、共和政時代のローマ人って面白い。
だが、前1世紀には貨幣を通じた自己宣伝が激しくなり、ついにカエサルのライバルであったポンペイウスの功績(ヒスパニアの反乱鎮圧)を描いた貨幣が鋳造される。この背景には、ポンペイウスが、指揮官と個人的に結びついた志願兵の軍団を率いたことがある。志願兵である市民たち、あるいは公職者たちも、実力者の庇護の下に入るため、強者を顕彰する貨幣が造られ始める。続いてポンペイウスの肖像を描く貨幣が現れ(ただし死後)、ついに存命中に貨幣に肖像を描出された人物が現れる。カエサルである(前44年頃)。これはカエサルの意思というより、カエサルの庇護を願う下位の人々がおこなった一種の追従だった。意外なようで、よく考えると納得がいく。
カエサルの死後も、オクタウィアヌス(アウグストゥス)、カリグラ、ネロなど皇帝の肖像を描出した貨幣が造り続けられた。表面には皇帝の肖像、裏面にはいずれかの神を描いた貨幣が一般的となる。造幣者の名前は貨幣から消えていく。細かく見ていくと、前帝の姿によって帝位継承の正当性をアピールしたり、自分の後継者をアピールしたり、いろいろな意図が読み取れて面白い。
なお余談だが、ローマ皇帝「家」は、帝国財政の大半を私的な財産によって担っていた。もちろん皇帝直轄州やいくつもの農地・鉱山・工場から得られる収入も莫大だったが、市民への富の配分(え?)、神殿への供物、首都の建築物の建造と修復、ローマ軍・警備隊・消防隊への給与支払いなど、支出も膨大だった。うーん、いったい統治機構がどうなっていたのか、非常に興味が湧いてきた。たとえば中国のような東洋の帝国とどのように違うのか。
次にローマ属州のバラエティに富んだ貨幣を見ていく。ヘレニズム時代(前323-前30)、地中海世界の諸都市は、臨機応変に諸王国の権威を利用していた。やがてローマがヘレニズム諸王国を滅ぼすと、諸都市はローマの「権威」に服するようになる。しかしローマは「小さな政府」を国是とし、問題が起きない限り各都市の自治を認めた。そのため、都市ごとに貨幣、特に市民の日常生活に必要な銅貨の鋳造が続けられた。ただし3世紀末には、ローマ帝国の行政改革、公職者の増員が行われ、属州に対する介入が強まり、属州諸都市が独自に貨幣を発行することは認められなくなる。
最終章はキリスト教と貨幣について。4世紀初めにキリスト教が公認されると、キリスト教に関わる図像がローマの貨幣に登場する。キリスト教は普遍的な単一神を信仰するという点で、ギリシアやローマの土着的な多神教とは異質である。ただし、キリスト教以前に一神教がなかったわけではない。エジプトに出自を持つセラピス神は、ギリシアの神々がローマ土着の神々に置き換えられたのと異なり、セラピス神のまま、各地で各民族に信仰された。普遍的な単一神という点で、かなりキリスト教に似ている。この章は貨幣の図像を材料に、もっぱら古代地中海世界の信仰について語っており、初めて知ることが多くて示唆的だった。