見もの・読みもの日記

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明治の東京少年/牛のあゆみ(奥村土牛)

2019-04-05 23:50:11 | 読んだもの(書籍)

〇奥村土牛『牛のあゆみ』(中公文庫) 中央公論新社 1988.7

  先だって、山種美術館の『奥村土牛』展を見に行ったとき、ミュージアムショップで購入した1冊。画家・奥村土牛の自伝エッセイである。展覧会の会場には、芸術に対する真摯な情熱にあふれ、非常に調子の高い土牛のことばがいくつか掲げてあって、それに感銘を受けて、本書を手に取ったのだが、本書は、生い立ちから修業、晩年までが、万事淡々と語られていた。

 著者は、明治22年、京橋鞘町に生まれた。両親は、父が十六、母が十五で結婚し(むかしの数え方だろう)、著者の前に子どもが二人あったが育たず、著者が実質的な長子であったという。父親は出版業を営んでいたが、本当は画工(画家)になりたかった人で、土牛少年を展覧会に連れていったり、歴史の話をしたりするのが好きだったとか、そのまま明治の小説のようだと思った。鏑木清方先生に絵葉書を描いてもらった話もよい。

 少年時代は、向いの家に住む親友と行き来して、学校から帰ると二人で絵の「写しっくら」して遊び、17歳で入門した梶田半古塾でも、ただ黙々と絵を描いていた。梶田先生が亡くなったあとは、馬込にあった小林古径先生の画室にご厄介になった。訪れる人もまれで、先生も口数が少なかった。先生がいないと、十日も誰とも口を利かないこともあったという。ああ、明治あるいはそれ以前の人々って、無駄なことは喋らないのが普通だったんじゃなかったかな。

 大正の大震災。戦争。その間に著者は結婚し、次々に子供も生まれる。一方、父を亡くし、戦時中に母も病没する。昭和20年2月には、母のお棺を手に入れることができず、3日間、遺体のそばで過ごしたという。厳しい時代である。

 その後の著者が、昭和30年代から40年代にかけて、流麗で清新な作品を次々に生み出したのは、たゆまぬ精進の成果もあるけれど、やっぱりこの厳しい時代からの解放が原動力になっているのではないかと思う。昭和29年に『舞妓』、昭和30年に『城』を出品するにあたっての気持ちを「描きたいと思った対象なら、人物、風景、動物、花鳥、なんでも失敗をおそれずぶつかっていきたい、無難なことをやっていては、明日という日は訪れて来ない、毎日そう考えるようになっていた」と述べている。著者はこのとき、65-66歳である。

 私の好きな画家には長生きした人が多く、60や70を過ぎた頃から、こんなふうに自由になる。本書の執筆時、著者は数えの86歳だというが、まださらに15年を生き、代表作を描き続ける。こういう晩年を過ごしたい。たとえ体の自由は利かなくなっても、精神の自由を持ち続けたい。

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