見もの・読みもの日記

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絆(ほだし)の物語/高木和子『源氏物語を読む』

2021-08-10 14:29:26 | 読んだもの(書籍)

〇高木和子『源氏物語を読む』(岩波新書) 岩波書店 2021.6

 著者は源氏物語についての著書が多数ある専門家だが、本書は何か独自の見解を強く主張するものではない。原典のストーリーを分かりやすく丁寧にたどることに徹し(この態度が素晴らしい)、最後に研究者として、控えめにその魅力を解説するにとどめている。

 重要な場面では、数行程度の原文や和歌が引用されている(ただし表記は濁点あり・適宜漢字を用いた読みやすいかたちで)が、面倒であれば、古文を読み飛ばしても、全体像の理解には差支えない。好きな人は、自分なりに原文の味わいを確かめることもできる。また、新しい研究成果や研究者間で意見が分かれている点も説明されており、巻末の参考文献一覧で、原典の研究論文にあたることもできるので、すでに源氏物語を何度も熟読している愛好者にも役立つと思う。また個人的には、『源氏物語絵巻』でよく知られる場面の解説が嬉しかった。

 私は大学時代に国文学を専攻し、むかし高校で古文の教師をしていた必要もあって、源氏物語の簡訳本は何度か読んでいる。全訳は、玉上琢弥氏訳注の全10巻本(角川ソフィア文庫)を、光源氏が退場する第7巻まで読んだが、そこで止めてしまった。それもかなり以前のこと(2004年)なので、かなり忘れている。最近は、源氏物語を題材にした美術作品を見ても、これは何の場面?というのが、なかなか解読できなくて、歯がゆい思いをしていた。やっぱり源氏物語は、平安文学だけでなく、それ以降の日本のあらゆる芸術分野の基礎教養だと思う。

 久しぶりに源氏物語の世界に浸って、新鮮に感じたことがいくつかある。むかしの私は、「一人の男主人公と多数の女性たち」という世界が、実はよく分からなかった。江戸の大奥を舞台にしたドラマとか、あったのかもしれないが、あまり若い女性の嗜好に入ってくるものではなかったと思う。今回、本書を読みながら、中国の宮廷ドラマ『瓔珞』や『如懿伝』、ちょうど最近まで見ていた『明蘭(知否知否応是緑肥紅痩)』などを思い出すことが多かった。最愛の紫の上がいるのに、ほかの女性に心動かされる源氏の「悪い癖」は、宮廷ドラマの乾隆帝みたいである。また、本書は女房など「端役たちの活躍」にしばしば言及しているが、これも中国ドラマに登場する宮女や嬤嬤(年長の宮女)を思い出した。あと主君の男女と相前後して、それぞれの従者の男女が恋仲になるのも、ドラマでよく見た光景である。

 光源氏については、東宮に入内予定だった、右大臣家の六の君・朧月夜と一夜を過ごしたことが、右大臣家の計画を狂わせ、結果的に政局をゆるがせたという指摘が、あらためて興味深かった。恋の物語は、政治の物語としても読めるのだ。源氏が明石での不遇の時代を終えて帰京した後、誠実に待ち続けた末摘花や花散里が幸せを得るのに対し、右大臣家におもねって離反した人々は苦い報復を受けており(空蝉もその一人)、善因善果、悪因悪果の説話仕立てであるということも気づいていなかった。

 また、この物語世界には、すでに故人である「先帝」が設定されており、桐壺帝が藤壺中宮を、朱雀帝が藤壺女御(女三の宮の母)を入内させ、光源氏が藤壺、紫上、女三の宮と先帝系の血脈に執心することに、「滅びゆく王統の者への憧憬と鎮魂と救済の物語としての骨格」が見出せるというのも興味深い。

 当時の人々にとって「救済」を分かりやすく目に見えるかたちで表すのが、出家であったろうと思われる。しかし、多くの登場人物の出家が語られる中、光源氏は出家に心ひかれながら、思いとどまる。紫の上への執着(源氏は紫の上の出家を許さない)と、薫の行く末を案ずる気持ちが理由として示される。本書は、これを「絆(ほだし)」という言葉で説明する。「絆(ほだし)」の委譲と積み重ねで進んできた物語の最後に、人々の「絆(ほだし)=束縛」をすべて代わりに担うところに晩年の光源氏の主人公性があるという。主人公性、すなわち王者の役割と言い換えてもよいと思う。能動的に全てを切り拓いていくのが主人公だという近代の文芸観に染まり過ぎていると、こういう古い物語の構造が見えにくいことを思った。

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