見もの・読みもの日記

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紫式部日記絵巻も特別公開/一生に一度は観たい古写経(五島美術館)

2024-10-05 21:13:02 | 行ったもの(美術館・見仏)

五島美術館 館蔵・秋の優品展『一生に一度は観たい古写経』(2024年9月3日~10月14日)

 今期は『紫式部日記絵巻』の特別展示(10月5日~14日)を待っていたので、今日、ようやく行ってきた。展示室1がかなり混んでいたので、順番を変えて、展示室2から見ることにした。おそらく『紫式部日記絵巻』は展示室2に出ているのだろう、と思っていたのだが、予想は外れた。

 展示室2は、大東急記念文庫創立75周年記念特集展示・第2部「絵巻・絵本」と題して19件を展示する(ちなみに同特集展示・第1部「古文書・古記録」は、今年5月11日~6月16日に行われた。このときはメインの展示が近代日本画だったので見逃してしまった)。大東急記念文庫、漢籍や国書の稀覯本のイメージが強かったのだが、実は近世文学・江戸資料に優れているのだな。それにしても、美麗でサイズの大きい奈良絵本をたくさん持っていて驚いた。奈良絵本は、絵画史的には特に注目もされていないのだろうけれど、このこってりした濃彩の美学が、どこから来てどこへ流れていくのかには興味がある。また文学作品としても「くまのの本地」「おたかのほんち(ものぐさ太郎)」「十二段草子」等々、どれもストーリーがぶっとんでいて面白い。いまどきの中国ドラマの古装ファンタジーに匹敵するんじゃないかと思う。『北野天神縁起絵巻断簡(弘安本)』は「菅公贈位」と「銅細工娘受福」を見ることができた。

 あらためて展示室1に戻って古写経を見ていく。奈良時代の写経では『金光明最勝王経』に目が留まる。奥書に「大周長安三年」「三蔵法師義浄」が「長安西明寺」で制作したという漢訳の事情が記されており、そのまま写されていた。長安3年(703)は則天武后の晩年にあたるとのこと。漢訳に携わった僧侶の名前は「沙門〇〇寺△△」という形式で記されているが、一部「婆羅門」と書かれた者もいた。『中阿含経 巻三十四』には「善光」という朱印(枠無し、古様な字体)があり、法華寺の寺主であった善光尼ではないかと推測されている。

 平安時代の写経では、埼玉県・慈光寺伝来の『大般若経』。奥書に阿倍小水麻呂という人物が災害や悪疫の除去を願って奉納したとあるが、発願者の事蹟は不明で、ただ写経だけが伝わっているのが奥ゆかしい。『紺紙金字観普賢経(平基親願経)』は、見返し絵が着彩。常闇のような紺色を背景に二菩薩(普賢と観音?)が歩いている。ほかに眷属も連れず、舞い散る蓮弁などの装飾もないので、なんだか寒々しい孤独を感じる。これは、慶応義塾(センチュリー赤尾コレクション)所蔵とあった。もう1点、同じ「平基親願経」で、紺紙に雅楽の胡蝶に扮した童子二人を描いたもの(東京国立博物館所蔵)も並んでいた(こっちは、かつて「夢石庵コレクション」展で見ているようだ)。写経の本文は平基親の自筆と見られ、写経生や能書家と異なる素朴な(自然な)文字が並ぶ。

 鎌倉時代の写経では『華厳経(高山寺尼経)』の存在を初めて知った。承久の乱で処刑された貴族の妻たちが明恵を頼って高山寺に集まったのを機縁として善妙寺(この名前!)という尼寺が設けられたらしい。明恵の入寂後、善妙寺の尼たちが追善のために華厳経を書写したもの。幅の狭い冊子(粘葉装?)で、変わったかたちをしていた。

 肝腎の『紫式部日記絵巻』は、展示室のいちばん奥に展示されていた。五島本は、大正9年(1920)に森川勘一郎(如春庵)が発見した巻子本の一部で、全5段の第1、2、4段目にあたる。第5段目は森川家を経て、現在は個人蔵。第3段目は、益田鈍翁を経て、現在は東博所蔵。残りの3段分は、戦後、高梨家を経て五島美術館が収蔵することになったという。展示は原本の詞書・絵画に、加藤純子氏による現状模写も並べてあって、細部まで味わうことができた。何度も見ている作品なのだが、やっぱり大河ドラマの影響で(見てはいないのだが)、斉信といえば、あ~はんにゃか、実資といえば、ロバート秋山か、と役者さんの顔が浮かんでしまうのには苦笑した。あと、酒がまわって乱れた宴会場面、顕光=65歳、斉信=42歳、実資=52歳、公任=43歳、という解説を読んで、ちょっと興醒めしてしまった。

 藤原道長筆『紺紙金字法華経(金峯山埋経)』が展示されていたことも付け加えておこう。ただし、上から7~8文字までで、下半分が欠損している。元禄4年(1691)に出土したと伝わるが、当時はどのくらいのニュースバリューだったのかなあ、知りたい。

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