〇渡邊義浩『三国志:演義から正史、そして史実へ』(中公新書) 中央公論新社 2011.3
著者の最新刊『漢帝国』(中公新書、2019)が面白かったので、旧著をさかのぼって読んでみることにした。はじめに日本と中国における「三国志」受容の違いが簡潔に示される。現代の日本人に最も大きな影響を与えた吉川英治の『三国志』は、湖南文山の『通俗三国志』(元禄年間)を下敷きにしており、その底本は明代の李卓吾本である。一方、中国では清代の毛宗崗本が決定版である。毛宗崗本の特徴は「義絶」関羽・「智絶」孔明・「奸絶」曹操を三大主役と捉える点にある。李卓吾本はまだそれほど関羽を熱く語らないし、曹操は毛宗崗本において虚構を交えて悪役ぶりを強調される。
もともと陳寿の『三国志』は曹魏を正統としていたが、東晋の時代に(非漢民族に中原を追われるという国際関係を背景として)蜀漢正統論が芽生え、南宋の朱子によって完成される。清代の毛宗崗本は、官学であった朱子学の影響を受け、蜀漢を正統とする歴史小説になったという。この千年を跨ぐ壮大な影響関係の見取り図に感服してしまった。
本書は『演義』の虚構を出発点として、正史『三国志』と比較し、陳寿の『三国志』も所詮は曹魏の正史である(西晋の正統性を示すための)という限界を明らかにして、さらに史実に迫る。二袁(袁術・袁紹)、曹操、孫呉の人々(孫堅・孫策・孫権)、関羽、諸葛亮を中心に、その周辺の登場人物にも言及する。
まず面白かったのは、有名な黄巾の乱の「蒼天已に死す、黄天当に立つべし」の解釈で、蒼天は儒教の天のことで、「儒教国家」後漢の終わりと、黄老思想に基づく新たな国家の建設の主張だという。曹操も同様に「儒教国家」に代わる新しい価値観を求めたので、儒教国家=漢の再建を求める荀彧とは対立せざるを得なかった。著者によれば、曹操が儒教の価値観を相対化するために選んだものは「文学」だった。この解釈はすごく面白い。「文学」が、国家の価値観の対立概念になり得るなんて、ちょっと考えられないけど、そこが曹操の天才なのだろう。
諸葛亮について。劉備の遺言「君自ら取る可し」(我が子劉禅に才能がなければ、君が自ら君主の座を取れ)を陳寿の『三国志』は君臣の信頼関係の象徴として描くが、明の遺臣・王夫之はこれを「乱命」(出してはいけない命令)と評している。裏をかえせば、劉備は諸葛亮を全面的には信頼しておらず、諸葛亮の即位に「釘をさした」ものだという。意地の悪い読みだが、なるほどなあと思う。そして諸葛亮は、劉備の信頼を得られなかったことを当然知りつつ、一切の恨みを表に出さずに『出師表』を書いたのかと思うと、一層味わいが深まる。
なお軍師としての諸葛亮の神格化は、元代の『三国志平話』で頂点を迎える。しかし、行き過ぎた神格化は空々しく、文学としての完成度は低い。これに対して『演義』毛宗崗本の諸葛亮は、志を捨てず、人智の限りを尽くして死後の準備をする。その人間らしさに読者は惹かれるのだ。神にならなくてよかったと思う。
本書全体を通して、何度も確認されるのは、中国の「古典古代」の正統となる「漢」の規制力の強さである。同じ著者の『漢帝国』をすでに読んでいたこともあって、よく理解できた。そして、その強固な正統性を乗り越えた曹操の比類ない革新性も、あらためて認識できた。
余談だが、私は、むかし吉川英治の『三国志』は読んだが、それほど熱心な「三国志」マニアではなかった。それが、近年中国で制作されたドラマ『軍師聯盟』や『三国機密』を見て、急に「三国志」に興味が高まりつつある。ドラマのおかげで、本書に出てくる人名の多くを、具体的にイメージすることができた。特に、司馬懿、司馬師、司馬昭の名前が出てくると嬉しかった。あと鄧艾、鍾会にも反応してしまった。冒頭に、日本人の「三国志」受容は李卓吾本、中国人は毛宗崗本、という紹介があったが、この違いは、現代の両国のドラマやマンガにも影響を及ぼしている気がする。