見もの・読みもの日記

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講演会 「伊藤若冲の多彩な絵画ワールド」(講師:小林忠)

2010-06-21 22:56:51 | 行ったもの2(講演・公演)
千葉市美術館 講演会「伊藤若冲の多彩な絵画ワールド」(講師:小林忠)(2010年6月20日)

 『伊藤若冲 アナザーワールド』に再び行ってきた。この日は小林忠館長の講演会が予定されていたが、前日、美術館サイトをチェックしたら、6月5日の辻惟雄先生の講演会の「混乱」に懲りて、12:00から入場券を配付するという。迅速で誠実な対応に感謝したい。

 そこで、11:45頃到着を目指して、東京の家を出た。美術館1階のさや堂ホールには椅子が並べられ、到着した順に前から詰めて座っていく。私は50人目くらいだったと思う。時間になると、2人の職員が座席表を持って、先頭から順に、講堂の希望座席を聞いて、その番号を書き込んだ入場券を配付するシステム。これなら公平で、文句のつけようがない。前回、座席は150人分だったと思うが、今回は、壁際までぎりぎり詰めて190人座れるレイアウトになっていた。それでも定員をオーバーしたようだが、11階講堂の生中継を1階ホールに飛ばして、講演会の雰囲気を伝えることはできたようだ。小林館長は「これが私たちにできる全てでございます」とおっしゃっていたけれど、よくぞやってくれました。拍手。

 入場券をもらったあとは、11階のレストランで昼食を取り、展覧会の第1会場だけ眺めて、講演会を待つ。小林館長のお話は、5日のお詫びから始まり、「若冲人気、さほどとは思っていませんでした」と述べられた。ブーム沸騰以前から、研究者として若冲にかかわってきた小林館長のお言葉だけに、実感がこもっていた。

 1971年(昭和46年)、東博の絵画室で研究員をしていた小林忠氏(当時30歳)は、辻先輩と、辻さんの「心の友」のプライス氏から、お前、若冲展をやれ、と焚きつけられて、特別展観「若冲」を企画する。「特別展観」というのは、館員の研究成果を発表する展覧会なので、スポンサーもなく、図録作成、保険、運送費など全部ひっくるめて、予算は100万円(今の1,000万円くらいか?と小林氏)。ただ、もと帝室博物館の東博ならではのプレステージで、宮内庁から「動植綵絵」30幅を(15幅×2期)借り出すことができた。また、プライス氏は自分のコレクションから10数点を自費(!)で持ってきて貸してくれた上、図録1,000部のうち、300部を買い上げてくれたという。うわー、いい話だなあ。私は当時、小学生。さすがにこの展覧会は記憶にない。

 一般に「若冲享受史」は、このあと、いきなり2000年、狩野博幸氏による京博の若冲展に飛んでしまうけど、私の個人史としては、80年代に澁澤龍彦と幻想文学ブームがあって、澁澤の著作を通じて若冲を知り、1994年に三の丸尚蔵館の展示で「動植綵絵」を見たことも忘れないでおきたい。2006年のプライスコレクション展は4会場で100万人を集め(”若冲と江戸絵画”って「あんまりだよ」と苦笑まじりの小林氏。”北斎と江戸絵画”とか”応挙と江戸絵画”ならともかく…)、2007年、相国寺の釈迦三尊像と動植綵絵は3週間で10数万人を集めたという。このとき、動植綵絵30幅を宮内庁から借り出すにあたっては、相国寺派管長の有馬頼底氏の力が大きかった、というのは辻先生もおっしゃっていたが、今上天皇のご学友なのだそうだ。

 有馬氏によれば、明治の廃仏毀釈に苦しめられた際、動植綵絵30幅を献上して1万円の御下賜金をいただいたことで、相国寺1万8,000坪を売却せずに済んだという。若冲の動植綵絵は相国寺を救ったのである。だから、相国寺は境内の若冲の墓(生前墓。石峰寺とは別)を今でも大切にし、有馬氏は、1984年、現在の承天閣美術館を建てるにあたって、いつか釈迦三尊像と動植綵絵30幅の展示を実現するつもりで、そのための展示室をつくっておいたという。これもいい話だ!

 皇室に献納された動植綵絵は、一時、天井の高い洋間向きに表装されていたが、近年、普通の表具に戻されたそうだ。1999年から6年間にわたる修復作業は、京博の構内に設けられた工房で行われたそうで、辻氏、小林氏は、これをたびたび覗きに行ったという。その結果、判明した裏彩色の効果は、2006年、三の丸尚蔵館の展覧会でも紹介されたとおり。ところで、このときも一緒に展示されていた『旭日鳳凰図』は、相国寺とは別経路で皇室に入ったものだが、明治天皇は非常に絵画好きだったそうだ。特に日清戦争で広島城内に大本営が置かれていたときは、明治天皇の無聊を慰めるため、浅野家はさまざまな絵画を御覧に入れ(→気に入れば献納せ)ざるを得ず、たいへん弱ったという。へえ、初めて聞く。たとえば動植綵絵に満悦する明治大帝の図、想像するとちょっと楽しい。

 本展覧会の目玉、MIHOミュージアムの『象と鯨図屏風』発見の第一報が、金沢の辻先生の教え子から届いたとき、辻先生がハサミで封筒を開けて写真を取り出すのを、小林氏は横で見ていたそうだ。「(MIHOは)すぐ買っちゃった。お金あるんでんすねー」というつぶやきには、公設美術館の悲哀を感じてしまった。

 小林氏は、若冲は鯨はもちろん、象も実際に見ていたにちがいない、という。享保13年(1728)に長崎に上陸した象は、翌年4月、京都に到着し、中御門天皇の上覧にあずかった。若冲12歳。「好奇心の強い若冲少年が、都大路を歩く象を見ていない筈がない」と断言する。屏風の白象には牡丹の花が添えてあるが、牡丹は本来、獅子の付属物である。それを、若冲は素直に少年時代の象体験に従って、象こそ百獣の王、と読みかえたのであろう。

 最後に、プライスコレクションの『鳥獣花木図屏風』について。小林氏は、これが東博の開かずの箱に眠っていた頃に発見し(図録所収の論文によれば、倉庫の階段の踊り場で見つけたって、ええ~っ!)、びっくりして上野動物園の飼育課長に、描かれている鳥や動物の名前を聞きにいったところ、たちどころに世界各地に生息する品種に特定され、さらにびっくりした記憶があるそうだ。この作品は、近年、若冲の関与を否定する見解もあるけれど、これほど「インデペンデントな発想」に若冲がからんでいないわけがない、と小林氏は主張する。確かに、世間に若冲作で通っているものには「ちょっと違う」と感じるものもある。それは、お弟子さんがつくった、いわゆる「工房作」であろう。しかし、そうしたものも含めて「若冲ワールド」を考えてもいいのではないか。これは、異論もあるだろうけど、小林館長から若冲への「愛」の表明だと思った。

 その一方、江戸絵画においては、ちょっと若冲ひとりに光が当たり過ぎている…とおっしゃるのも分かる。でも、私自身もそうだったように、若冲を入口として、江戸絵画の豊饒な世界に多くの人々(特に若者)が入ってくるのは、慶賀すべきことなんんじゃないかな。楽しい話がたくさん聞けてよかった!

※記念の入場券


(株)岡墨光堂
当日の話に出てきた、文化財の保存・修復業者。
リンクをたどると↓下記の団体あり。

一般社団法人 国宝修理装コウ師連盟
主に日本・アジア地域で製作された「絵画」「書跡」「典籍」「古文書」等を対象に国指定文化財の保存修復を行う修理技術者集団。私、こういう仕事をしたかった。性格が雑すぎて、無理かな…。

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2 コメント

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Unknown (meme)
2010-06-26 20:55:14
こんばんは。
小林先生の講演を諦めてしまったので、
記事を書いていただいて大感謝です。
先生の語り口が目に浮かびました。

今上天皇と有馬管長がご学友だったとは!
初耳でした。
返信する
meme様 (jchz)
2010-06-28 00:59:58
こんばんは。
私は小林先生のお話を聞くのは初めてでしたが、
豊富な知識と人生経験(!)から
多方面に脱線するお話が楽しかったです。
返信する

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