○原武史『滝山コミューン1974』 講談社 2007.5
先日、竹内洋先生の書評集で本書の存在を知り、遅ればせながら読んだ。原武史さんの本は、鉄道論から天皇論まで、かかさずチェックしていたのに、こんな大事な1冊を、刊行から1年半も知らずにいたのは情けない。
舞台は東京の西郊、東久留米市にある滝山団地。著者は1969年から75年までをこの団地で過ごし、東久留米市立第七小学校(七小)に通った。当時、全共闘世代による「政治の季節」は、表面的には終息に向かっていたが、舞台を「郊外の団地へと移しながら」なおも続いていたと見ることもできる、と著者は語る。
すなわち、「民主的なPTAづくり」に立ち上がった母親たちによって、小学校は単なる初等教育の場ではなくなり、さまざまな課外活動が可能になった。母親たちの圧倒的な支持を得たのが、新人教師の片山勝先生。片山先生は、全生研(全国生活指導研究協議会)が提唱する「学級集団づくり」という手法を七小に持ち込む。初めはとまどいを感じていた生徒たちも、次第に集団主義の陶酔に吸い寄せられていく。
教師と母親と生徒たちが一体となってつくりあげた地域共同体、それを著者は「いささかの思い入れを込めて『滝山コミューン』と呼ぶ」と書いている。そのクライマックスは、生徒たちの自主的な運営で行われた(ように見えて、実際は全て片山先生が仕切った)1974年7月の林間学校だった。「ひとり」が「みんな」とつながることの素晴らしさを説く、感動的な大合唱の中で、小学6年生の著者は「ここにいるのは『みんな』ではない。ぼくだ。『ひとり』だ」と胸の内でつぶやきながら、顔を上げずに沈黙を守り通す。
こう要約してしまうと、本書は、全共闘世代や全生研の集団教育に対する恨みツラミだけで書かれたように思われるかもしれないが、それは皮相な読み方である。
唐突なようだが、本書の結び近くに、著者は歴史学者の東島誠の言葉を引いている。中世日本に誕生した「公界」は、既存の公権力に抗する形で勃興しながら、結局のところ上位権力と同質の「公(オオヤケ)」を作り出したにすぎなかった――これは重い認識である。同様に、上位権力から子供を守り、自由で民主的な学園をつくろうとした善意の教師たちに「自らの教育行為そのものが別の形での権威主義をはらむ」(古茂田宏)という自覚は、まだなかった。けれども、著者は自身が体験した「美しい物語」の手触りに、九分の冷たい抵抗と同時に、一分の愛惜を感じているように思う。
刊行から既に1年半も経った本なので、ネット上には、さまざまな書評が上がっており、それらを読み比べてみるのも面白い。ちなみに私が「コイツは駄目だろ」と思った書評は、阿部重夫氏のブログ(滝山コミューンでGoogle検索すると上位に来るので腹が立つ)。著者のアンビバレンツな思いを掬いあげて「分かっているな」と感じたのは、北田暁大さんの書評である。
先日、竹内洋先生の書評集で本書の存在を知り、遅ればせながら読んだ。原武史さんの本は、鉄道論から天皇論まで、かかさずチェックしていたのに、こんな大事な1冊を、刊行から1年半も知らずにいたのは情けない。
舞台は東京の西郊、東久留米市にある滝山団地。著者は1969年から75年までをこの団地で過ごし、東久留米市立第七小学校(七小)に通った。当時、全共闘世代による「政治の季節」は、表面的には終息に向かっていたが、舞台を「郊外の団地へと移しながら」なおも続いていたと見ることもできる、と著者は語る。
すなわち、「民主的なPTAづくり」に立ち上がった母親たちによって、小学校は単なる初等教育の場ではなくなり、さまざまな課外活動が可能になった。母親たちの圧倒的な支持を得たのが、新人教師の片山勝先生。片山先生は、全生研(全国生活指導研究協議会)が提唱する「学級集団づくり」という手法を七小に持ち込む。初めはとまどいを感じていた生徒たちも、次第に集団主義の陶酔に吸い寄せられていく。
教師と母親と生徒たちが一体となってつくりあげた地域共同体、それを著者は「いささかの思い入れを込めて『滝山コミューン』と呼ぶ」と書いている。そのクライマックスは、生徒たちの自主的な運営で行われた(ように見えて、実際は全て片山先生が仕切った)1974年7月の林間学校だった。「ひとり」が「みんな」とつながることの素晴らしさを説く、感動的な大合唱の中で、小学6年生の著者は「ここにいるのは『みんな』ではない。ぼくだ。『ひとり』だ」と胸の内でつぶやきながら、顔を上げずに沈黙を守り通す。
こう要約してしまうと、本書は、全共闘世代や全生研の集団教育に対する恨みツラミだけで書かれたように思われるかもしれないが、それは皮相な読み方である。
唐突なようだが、本書の結び近くに、著者は歴史学者の東島誠の言葉を引いている。中世日本に誕生した「公界」は、既存の公権力に抗する形で勃興しながら、結局のところ上位権力と同質の「公(オオヤケ)」を作り出したにすぎなかった――これは重い認識である。同様に、上位権力から子供を守り、自由で民主的な学園をつくろうとした善意の教師たちに「自らの教育行為そのものが別の形での権威主義をはらむ」(古茂田宏)という自覚は、まだなかった。けれども、著者は自身が体験した「美しい物語」の手触りに、九分の冷たい抵抗と同時に、一分の愛惜を感じているように思う。
刊行から既に1年半も経った本なので、ネット上には、さまざまな書評が上がっており、それらを読み比べてみるのも面白い。ちなみに私が「コイツは駄目だろ」と思った書評は、阿部重夫氏のブログ(滝山コミューンでGoogle検索すると上位に来るので腹が立つ)。著者のアンビバレンツな思いを掬いあげて「分かっているな」と感じたのは、北田暁大さんの書評である。