見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

総合的災害論/人はなぜ逃げ遅れるのか(広瀬弘忠)

2012-02-10 22:28:28 | 読んだもの(書籍)
○広瀬弘忠『人はなぜ逃げ遅れるのか:災害の心理学』(集英社新書) 集英社 2004.1

 残念な売り方をされてしまった本だと思う。昨年、3.11の震災以降、平積みになっている本書をたびたび見たが、刊行年で分かるとおり、震災の便乗企画本では全くない。タイトルの「人はなぜ逃げ遅れるのか」も、やや煽情的にすぎる。著者の専門は災害心理学で、確かにタイトルどおりの内容も含まれるが、一命を取り留めたあとの被災者に必要な支援とか、災害予知の限界とか、災害が引き起こす社会システムの変動など、本書は、かなり幅広い内容を扱っている。

 予想される巨大地震の発生に関し、我々にできることは、住宅の耐震補強と「津波の被害を避けるすばやい避難行動」しかないと、2004年の時点で語っていることも興味深い。

 文体は、最近めずらしいほど古典的な学術書スタイルである。「私は」「僕は」みたいに著者がシャシャリ出てくる箇所がほとんどなく、冷静で客観的な叙述が一貫している。この文体だから信用できるものの、いろいろ常識に反して、意外なことが書かれている。たとえば、災害直後には「生き延びた強烈な喜び」によって被災者の間に運命共同体体意識が生まれ、短期的に愛他的で平等主義的な非常時規範が生まれるとか(災害後のユートピア段階)。

 よく「パニックは怖い」というが、パニックを恐れて、危険の大きさを緩和して伝えたため、避難が遅れ、大惨事を引き越したケースがたびたびあるそうだ。パニックという言葉を用いて被害を説明しようとする時は、災害や事故の原因究明を放棄し、防災上の失敗をごまかそうとする不純な動機があるのではないかと、疑ってかかるべきだという指摘には、深いものがある。

 それから日本語には「サバイバー」に相当する言葉がない、という指摘にも虚を突かれた。英語の「サバイバー」には、とにかく生き残った、いまは困難を切り抜けた、という誇りと喜びがあるのに対し、日本の「被災者」は、自分の身替りに誰かが死んだという罪(デス・ギルト)や恥を意識する傾向が強いのだそうだ。こういう「自虐」的な人生観はいかんよね。

 「生きのびる」条件に関しては、年齢(若さ)で決まるとか、富めるものが有利だとか、実に身も蓋もない記述もある。しかし、個々の事例を見ていくと、洞爺丸海難事故の生存者が語る沈着冷静な行動(真似できない…)とか、別の海難事故で「あなたが私を助けるのよ!」と他人を指名することにより、本当に生還した中年女性の話(人間は指名されないと冷淡な傍観者になってしまう)、あるいは、アクション映画のファンだったので、映画の主人公のように絶対に生き残れると信じることができたという男性とか、興味深い証言がたくさん紹介されている。

 「災害のもたらす社会的な影響の本質は社会的変化の先取り」である、というのも蘊蓄のある言葉だと思った。被災した社会システムは、事態に適応するため、機能の効率化を図る。このとき、古くて非効率な部分は切り捨てられるか、思い切った再編が必要になる。これも身も蓋もない言い方だけど、被災前の社会をそっくり「復元」するのは不可能なんだな…。

 急速に成長しつつあるコミュニティは被災しても急速に復興する。関東大震災後の東京、戦後の東京がそうだった。さて、もし今の東京が災害に襲われたら、復興の底力は残っているだろうか。1666年の大火のあとに面目を一新したロンドン、中世ヨーロッパを襲ったペストも、人口激減→労働者不足→労働集約化と技術革新のモチベーションが高まる→近代精神の誕生につながっていくなど、単純な善悪・災福二元論で割り切れないところが、歴史の面白さだと思った。
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わたしが子どもだった頃/「鉄学」概論

2012-02-08 23:48:16 | 読んだもの(書籍)
○原武史『「鉄学」概論:車窓から眺める日本近現代史』(新潮文庫) 新潮社 2011.1

 NHK教育テレビ「知る楽 探求この世界」のテキストとして刊行された『鉄道から見える日本』(2009)を加筆改稿し、再編集したものだという。当時、番宣などをチラ見した記憶では、もっと鉄道ファン向けの内容だと思っていた。本書は「鉄道」を糸口に、意外と手堅い政治社会史論になっている。各章のタイトルを挙げておくと、

1 鉄道紀行文学の巨人たち

 内田百、阿川弘之、宮脇俊三と連なる鉄道紀行文学の系譜を紹介。「鉄学」(鉄道を媒介として日本の近現代を俯瞰する学問)としては、わりとマトモなお題だと思う。

2 沿線が生んだ思想

 前章の補講。永井荷風、高見順、坂口安吾、須賀敦子、中井久夫の作品に現れた鉄道を語る。高見順の『敗戦日記』に登場する横須賀線の復員兵、進駐軍の描写を知って、読んでみたくなった。

3 鉄道に乗る天皇

 これは著者得意のフィールドだが、明治、大正、昭和天皇の行幸啓の密度を地図に落とし込んだ比較が興味深い。

4 西の阪急、東の東急

 阪急の小林一三、東急の五島慶太。梅田駅と渋谷駅など、比較のポイントはいろいろあるのだが、小林一三の逸翁美術館が、収蔵品約5,000点のうち国宝は1点もなく「一品一品を肩書きにこだわらず、自らの眼で厳しく鑑定した」といわれるのに対し、五島美術館は約4,000点のうち国宝5点、重文50点で「高価なもの、権威あるものを中心に集めた感は否めない」というのはどうなんだろう。逸翁美術館にもう少し通ってみるまで、判断保留。

5 私鉄沿線に現れた住宅

 本章以下は、多面的な切り口で展開する東京論。著者と同世代、同じ東京育ちの私には、言外ににじむ面白さがある。本章は1950~60年代、東京郊外に相次いで造成された「団地」について論ずる。

6 都電が消えた日

 漱石の『三四郎』『それから』に描かれた路面電車は、戦後の1960年代まで現役だった。ところが、60年代後半、地下鉄の建設ラッシュにより、都電はきわめて短期間のうちに姿を消してしまい、以後の人々の「空間認識」に大きな変化をもたらす。地下鉄日比谷線が日比谷と霞が関の間で急カーブしているのは、皇居進入を避けるためだが、地下では分かりようがない。そうか、そうだったのか! 著者は「都電の記憶をもつ最後の世代」と書いているが、私もそうだ。小学校にあがる以前、東京東郊の下町(橋本健二さんふうに言えば、労働者階級の住む新しい下町)から浅草(伯母がいた)や深川(母の実家があった)まで、都電で出かけた記憶がおぼろに残っている。

7 新宿駅一九六八・一九七四

 新宿駅は、60年代後半~70年代初頭「政治の季節」の重要な舞台となった。1968年、69年と相次いでおきた騒乱事件。しかし、下町の小学生だった私は、さすがにまだ覚えていない。それから5年後の1974年、小学校六年生の著者は、中学受験に備えて、中野の進学塾に通っていた。著者より2歳上の私も同じ進学塾に通った。ただし、日曜テストは父親のマイカーで送ってもらうのが常だった。春休みや夏休みの講習は、子どもだけで電車に乗って通うのが楽しかった。

8 乗客たちの反乱

 1970年代前半、国労・勤労が頻繁に用いた戦術「順法(遵法)闘争」。1973年の3月から4月にかけては、怒ったサラリーマンの暴動事件が頻発している。そうかー。私はこの年、中学に入学し、電車通学を始めているのだ。「国鉄スト」が決まると、学校が休みになるので、単純に喜んでいたが、かなり切実な危険回避の意味があったんだな、と今さらのように思う。

 自分が子どもだった頃の「歴史的意味」って、意外と知らないものだ。原先生、東京の60~70年代を、ぜひもっと掘り下げて書いてください。
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沖縄旅行2012:食べたもの

2012-02-06 22:50:05 | 食べたもの(銘菓・名産)
初めて、沖縄に行ってきた。金曜の夜、仕事が終わってから東京を出て、正味2泊2日。
昨年4月から沖縄在住になった友人に案内してもらった。ありがとう!!

観光初日の昼食。米軍住宅を見下ろすロケーションの「沖縄そば」の店。


初日の夕食は、このお店。特製ブレンドの古酒(クース)美味しかったなあ…。


2日目、首里城の鎖之間(さすのま)で味わうことのできるお茶セット。さんぴん茶(香片茶)と、花ぼうる・くんぺん・ちいるんこう・ちんすこうの伝統菓子4種。いちばん気に入ったのは、ピーナツ餡のくんぺん(薫餅)で、冊封使にも供された高級菓子だという。


2日目の昼食も沖縄そば。ジューシー(沖縄炊き込みご飯)が美味。関西のかやくご飯より味が濃くて好きだ。


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沖縄旅行2012:那覇市内観光

2012-02-05 23:57:22 | ■アジア(中国以外)
○牧志公園~崇元寺石門~公設市場~やちむん通り~首里城公園~円覚寺跡~龍潭~玉陵~那覇空港

日曜の朝、同宿の友人より一足先にホテルを出て、公設市場に向かう予定が、途中の牧志公園の小さな塚に心ひかれ、地図を見たら、崇元寺の石門が近いことも分かって、ふらふらと寄り道。迷い込んだ裏通りも楽しかった。市場で慌ただしく買い物、ホテルに戻り、今日もローカルガイド兼ドライバー役をつとめてくれる沖縄在住の友人と落ち合う。

やちむん通りを散策。骨壺専門店に驚く。↓部長!という感じのこわもてシーサー。



首里城。おお!男性職員は、ほんとに琉球官僚の扮装なんだ。御庭にいるのは黄色い冠(はちまち)の中級官僚、宮殿内にいる職員は紫冠で、着物の色も少し違う。しかも年配者が多い印象。



正殿が二層式というのが面白い。二階の玉座の背後には3枚の扁額が掛けてあって、中央の「中山世土」は康煕帝の御筆、向かって左の「永祚瀛壖(えいそえいぜん)」は乾隆帝、右の「輯瑞球陽」は、その場で分からなかったが雍正帝だそうだ。なるほどね。琉球新報の過去記事に「沖縄戦で9枚が焼失したが、3枚の復元が実現した」とあった。琉球王国は光緒年間に滅びたのだから、順治帝から光緒帝の9代かな。

南殿では『テンペスト』衣装展を開催中(※写真)。沖縄の友人もドラマを見ていたそうで、徐丁垓人形のふてぶてしさに笑ってしまった。

円覚寺跡。こんなに首里城から近いと思っていなかったが、第二尚氏王統の菩提寺だったのか。沖縄戦で、放生池の石橋以外は全て失われてしまった。残った石橋(放生橋)にも、現状では近づくことができないが、石彫の美しさは遠目にも分かる。



龍潭。弁財天堂のある四角い小島に渡るのが天女橋。沖縄の友人は「仏像」「廃墟」「給水塔」好きなのだが、私はかなり「橋」好きなのである。鉄橋も木製の橋もいいが、やっぱり石橋に一番うっとりする。



龍潭で見かけた、インパクトのある水鳥。デカい。群れをなしている。そして、人間を怖がらない。調べたら、バリケンといって、和歌山県立自然博物館の方が「バリコレ」という情報サイトを作っていた。



玉陵(たまうどぅん)。第二尚氏王統の歴代国王の陵墓。友人は「ここに来ると落ち着く」という。私も好きだ、この石積みに囲まれた雰囲気。併設の資料室は、コウモリの「たまちゃん」をキャラクターにしている。石彫のこれ↓が由来かと思ったら、玉陵の入口付近の茂みにある木に、本物のオオコウモリの「たまちゃん」が住み着いているのだそうだ。



コイツも気になる。シーサーなんだろうか。



このあと、金城町石畳道と識名園の観光を計画していたのだが、玉陵向かいの店で昼食をとりながら時計を見たら、とても間に合わないことが判明。あきらめて空港に向かうが、車が渋滞に巻き込まれる。「モノレールを使ったほうが安全」との忠告を受け、沖縄の友人とは、慌ただしくお別れ。空港では、お土産を見る時間もなく、搭乗口に駆け込んで、なんとか間に合った。

じっくり観光できて楽しかったけど、いろいろ見残してきてしまった。また行かねば…。

(2/7記)
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沖縄旅行2012:中部ドライブ

2012-02-04 00:17:50 | ■アジア(中国以外)
○沖縄本島中部ドライブ:那覇~宜野湾~中城城(なかぐすくじょう)~中城高原ホテル跡~金武観音寺・鍾乳洞~万座毛~残波岬灯台

沖縄在住11ヵ月目の友人の運転する車でドライブに出発。友人の職場に寄り道。



中城城に隣接する中城高原ホテル跡は、沖縄海洋博開催の1975年7月開業を予定していたが、博覧会の開催直前に建設をしていた企業が倒産し、30年以上放置されたままの廃墟。



国頭郡金武町(きんちょう)の金武観音寺は、16世紀創建の古刹。木立の奥に覗く赤瓦の本堂は昭和17年再建だが、近世建築の様式を残す。ご本尊はよく見えなかったけれど、ご朱印は「聖観音」だった。ちなみに、これまでに私がいただいたご朱印の最南端(長崎?)・再西端(平戸?)記録を大幅に更新。



境内に地下30mの鍾乳洞があり、天然の古酒蔵として利用されている。→※金武酒造



境内の売店で売っている古酒。プレミアム古酒「平成元年」という銘柄があった。私は、いまの仕事に就職したのが平成元年なので、あと10年ほど寝かしておいてくれないかなー。定年祝いに飲みたい。



定番観光地の万座毛、残波岬の風景も美しかった。万座毛の断崖から覗き込んだ海は、普陀山の潮音洞を思い出した。海岸に自生(?)するアダンの木を見た(※アダンの実から筆を作ることがある)。残波岬には、琉球王国から初めて明国に遣わされた泰期(たいき)の像が立っている。1372年、洪武年間だから、朱元璋に拝謁しているのかー。像建立の経緯がいろいろありそうで、興味深かった。

(2/7記)続きは明日(というか今夜)。
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沖縄旅行2012:到着

2012-02-03 23:47:28 | ■アジア(中国以外)
○到着:東京~那覇空港~ホテル

沖縄へは、長いこと訪ねる機会を逸していた。飛行機に乗り慣れないのと、車の免許を持っていないので、心理的なハードルが高かったのだ。けれども、この数年、仕事やプライベートで飛行機を利用する機会が増え、昨年4月から友人のひとりが、沖縄に赴任した。さらに昨年はドラマ『テンペスト』にハマって、いよいよ沖縄に行きたい思いをこじらせていたところ、別の友人が沖縄に行くというので、便乗させてもらうことにした。

金曜は、ふだんどおり出勤。羽田から20時発の飛行機に乗ると、23時近くに那覇空港着。遅い新幹線で、東京から名古屋あるいは京都に移動するようなものだ。同行の友人は先に着いているはず。彼女が選んだホテルはゆいレールの牧志駅の近くで、



プリントアウトしてきた地図を見たら、駅の下の橋に「蔡温橋」とある(↓巨大シーサーを背にした朝の写真)。



蔡温といえば、18世紀の琉球王国を代表する政治家。『テンペスト』の主人公・孫寧温の「モデル?」と噂になった人物でもある。橋の名の由来は、蔡温が、この下を流れる安里川を、港まで船が通れるように整備したことによるそうだ。そんな由緒ある地に沖縄の第一歩を記すことができて、旅のはじめから、ちょっとツイてる気分。

(2/6記)
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敢えて曖昧な歴史の語り/湖の南(富岡多恵子)

2012-02-02 23:11:14 | 読んだもの(書籍)
○富岡多恵子『湖の南:大津事件異聞』(岩波現代文庫) 岩波書店 2011.10

 「大津事件異聞」という副題が目に留まって、本書を手に取った。なんだかとても不思議な、ぐにゃぐにゃした小説で、そこが小説を読み慣れない自分にも面白かった。

 冒頭は、琵琶湖の南、大津に住む語り手の「わたし」(という一人称は注意深く避けられている)が、浜大津の駅で「近江八景展」のポスターを見かけ、『ビワ湖八景』というドイツ語の本を思い出すところから始まる。著者はダウテンダイというドイツ人。そんな本が本当にあるのか、それとも全て作者の仕掛けた虚構なのか、導入部では、まだこちらも神経をとがらせている。

 そんな用心深い読者を尻目に、作者は『ビワ湖八景』に収められた八ツの物語の一ツを機縁に、大津事件の語りに入っていく。明治24年(1851)5月11日、日本を訪問中のロシア皇太子ニコライが、警護に動員されていた津田三蔵巡査に斬りつけられて負傷した。事件の朝、津田は三井寺観音堂の裏手にある西南戦争記念碑前で二人の外国人(ロシア人)に遭遇する。その日の午後に「事件は起った」と記したあと、語りは津田の少年時代に遡り、ゆるゆると進む。津藩の藩校で漢学教育を受け、13歳で明治維新、17歳で入営を命じられ、西南の役で負傷、その後も各地を転々し、27歳にして、ほぼ10年の兵役をやっと解かれる。

 「学制」に乗りはぐれ、新時代の教育を受け損ねた津田に許された職業といえば、巡査くらい。郷里の三重県で、トラブルを起こし、免職になるが、またも滋賀県の巡査を志願している。不行跡の兄。扶養すべき妻と母と幼い子。作者は、津田の書簡を資料に、彼の「事件」以前の半生を淡々と描き出していく。特別に不運とも幸運とも言えない、幕末明治期のある世代、ある階層の平凡な人生が浮かび上がってくる。

 そして、19章からなる本編の第8章、ちょうど真ん中あたりで、ようやく「事件」は起きる。ここからは、主にニコライの日記と津田の予審調書を参照しながら、やっぱり淡々とした叙述が続く。この突き放した態度がいいのだ。対象に共感しようとすれば、何らかの嘘が入る。その様子を、作者は「いわば『動機』が訊問によって再構成されていく」と冷静に見つめなおす。いや、予審調書の尋問者は、予断をまじえず「ドーダ」を繰り返して、本人の陳述を促している。その辛抱強さは驚くほどだ。けれども津田は「何ガナシニ」と言いかけては、言葉につまるばかり。近代以前の日本人は、今のように多く語る習慣がなかったというし、今の時代だって、こんな大事を起こした理由を誠実に語ろうとしたら、「自分ナガラ分ラヌ」としか言いようがないだろう。

 その結果、新聞は津田を「狂人」と書き立て、後世『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎は、津田三蔵を「素朴な攘夷主義の信者」「思想的狂人」と見ている。何となしに、司馬さんは、こういうぐにゃぐにゃした人間は苦手だろうなあ、と思う。

 私は、大津事件の後日談を全く知らなかったが、ロシアの対日感情悪化を恐れる閣僚たちが、裁判も待たずに「犯人を殺せ」と色めき立ち(副島種臣「法律もし三蔵を殺すこと能わずんば種臣彼を殺さん」…おいw)、日本全土、官民あげて、ロシア皇太子への慰問、見舞、平癒祈願が行われ、某村では「津田の姓を付するを禁ず」という村条例まで決議された。ダメだなあ、この国民…。一方、皇太子ニコライは、日記に見るかぎり、日本人を嫌いになった様子はなく、「かつてと同じように日本人のあらゆるすばらしい品物、清潔好き、秩序正しさは、私の気に入っている」と記し、「道を行き来する娘たちに遠くから見とれていたことを認めなければならない」と付け加える余裕さえ保っている。後年のこと(日露戦争、革命、処刑)を思うと、いろいろと感慨深い。

 小説は、第14章から、とつぜん「わたし」の周辺に戻ってくる。20年ほど前、××市に住んでいた時の「近くの電気屋の息子」を名乗る男性(タビト)から、頻繁に不可解な手紙が来るようになる。その電気屋の息子を紹介してくれた家政婦のEさんのことを思い出す。どこか不安な日常を過ごしながら、作者は、引き続き、ニコライの日記と津田三蔵の予審調書や書簡を読み続ける。遠い過去と近い過去、ロシアと日本、歴史的事件と平凡な日常、史実と伝聞が地滑り的に錯綜する。結局、それらに決定的な違いはないのではないか。そんな曖昧な感想の中、大津の花火大会に集まる若い人びとのユカタ姿を眼前に、美容師さんから聞いた去年の祇園祭のエピソードで、物語は閉じられる。

 巻末解説は成田龍一。本作品の目指したものを「事件の再構成を図るのはない、歴史の語り」と捉えている。
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