○広瀬弘忠『人はなぜ逃げ遅れるのか:災害の心理学』(集英社新書) 集英社 2004.1
残念な売り方をされてしまった本だと思う。昨年、3.11の震災以降、平積みになっている本書をたびたび見たが、刊行年で分かるとおり、震災の便乗企画本では全くない。タイトルの「人はなぜ逃げ遅れるのか」も、やや煽情的にすぎる。著者の専門は災害心理学で、確かにタイトルどおりの内容も含まれるが、一命を取り留めたあとの被災者に必要な支援とか、災害予知の限界とか、災害が引き起こす社会システムの変動など、本書は、かなり幅広い内容を扱っている。
予想される巨大地震の発生に関し、我々にできることは、住宅の耐震補強と「津波の被害を避けるすばやい避難行動」しかないと、2004年の時点で語っていることも興味深い。
文体は、最近めずらしいほど古典的な学術書スタイルである。「私は」「僕は」みたいに著者がシャシャリ出てくる箇所がほとんどなく、冷静で客観的な叙述が一貫している。この文体だから信用できるものの、いろいろ常識に反して、意外なことが書かれている。たとえば、災害直後には「生き延びた強烈な喜び」によって被災者の間に運命共同体体意識が生まれ、短期的に愛他的で平等主義的な非常時規範が生まれるとか(災害後のユートピア段階)。
よく「パニックは怖い」というが、パニックを恐れて、危険の大きさを緩和して伝えたため、避難が遅れ、大惨事を引き越したケースがたびたびあるそうだ。パニックという言葉を用いて被害を説明しようとする時は、災害や事故の原因究明を放棄し、防災上の失敗をごまかそうとする不純な動機があるのではないかと、疑ってかかるべきだという指摘には、深いものがある。
それから日本語には「サバイバー」に相当する言葉がない、という指摘にも虚を突かれた。英語の「サバイバー」には、とにかく生き残った、いまは困難を切り抜けた、という誇りと喜びがあるのに対し、日本の「被災者」は、自分の身替りに誰かが死んだという罪(デス・ギルト)や恥を意識する傾向が強いのだそうだ。こういう「自虐」的な人生観はいかんよね。
「生きのびる」条件に関しては、年齢(若さ)で決まるとか、富めるものが有利だとか、実に身も蓋もない記述もある。しかし、個々の事例を見ていくと、洞爺丸海難事故の生存者が語る沈着冷静な行動(真似できない…)とか、別の海難事故で「あなたが私を助けるのよ!」と他人を指名することにより、本当に生還した中年女性の話(人間は指名されないと冷淡な傍観者になってしまう)、あるいは、アクション映画のファンだったので、映画の主人公のように絶対に生き残れると信じることができたという男性とか、興味深い証言がたくさん紹介されている。
「災害のもたらす社会的な影響の本質は社会的変化の先取り」である、というのも蘊蓄のある言葉だと思った。被災した社会システムは、事態に適応するため、機能の効率化を図る。このとき、古くて非効率な部分は切り捨てられるか、思い切った再編が必要になる。これも身も蓋もない言い方だけど、被災前の社会をそっくり「復元」するのは不可能なんだな…。
急速に成長しつつあるコミュニティは被災しても急速に復興する。関東大震災後の東京、戦後の東京がそうだった。さて、もし今の東京が災害に襲われたら、復興の底力は残っているだろうか。1666年の大火のあとに面目を一新したロンドン、中世ヨーロッパを襲ったペストも、人口激減→労働者不足→労働集約化と技術革新のモチベーションが高まる→近代精神の誕生につながっていくなど、単純な善悪・災福二元論で割り切れないところが、歴史の面白さだと思った。
残念な売り方をされてしまった本だと思う。昨年、3.11の震災以降、平積みになっている本書をたびたび見たが、刊行年で分かるとおり、震災の便乗企画本では全くない。タイトルの「人はなぜ逃げ遅れるのか」も、やや煽情的にすぎる。著者の専門は災害心理学で、確かにタイトルどおりの内容も含まれるが、一命を取り留めたあとの被災者に必要な支援とか、災害予知の限界とか、災害が引き起こす社会システムの変動など、本書は、かなり幅広い内容を扱っている。
予想される巨大地震の発生に関し、我々にできることは、住宅の耐震補強と「津波の被害を避けるすばやい避難行動」しかないと、2004年の時点で語っていることも興味深い。
文体は、最近めずらしいほど古典的な学術書スタイルである。「私は」「僕は」みたいに著者がシャシャリ出てくる箇所がほとんどなく、冷静で客観的な叙述が一貫している。この文体だから信用できるものの、いろいろ常識に反して、意外なことが書かれている。たとえば、災害直後には「生き延びた強烈な喜び」によって被災者の間に運命共同体体意識が生まれ、短期的に愛他的で平等主義的な非常時規範が生まれるとか(災害後のユートピア段階)。
よく「パニックは怖い」というが、パニックを恐れて、危険の大きさを緩和して伝えたため、避難が遅れ、大惨事を引き越したケースがたびたびあるそうだ。パニックという言葉を用いて被害を説明しようとする時は、災害や事故の原因究明を放棄し、防災上の失敗をごまかそうとする不純な動機があるのではないかと、疑ってかかるべきだという指摘には、深いものがある。
それから日本語には「サバイバー」に相当する言葉がない、という指摘にも虚を突かれた。英語の「サバイバー」には、とにかく生き残った、いまは困難を切り抜けた、という誇りと喜びがあるのに対し、日本の「被災者」は、自分の身替りに誰かが死んだという罪(デス・ギルト)や恥を意識する傾向が強いのだそうだ。こういう「自虐」的な人生観はいかんよね。
「生きのびる」条件に関しては、年齢(若さ)で決まるとか、富めるものが有利だとか、実に身も蓋もない記述もある。しかし、個々の事例を見ていくと、洞爺丸海難事故の生存者が語る沈着冷静な行動(真似できない…)とか、別の海難事故で「あなたが私を助けるのよ!」と他人を指名することにより、本当に生還した中年女性の話(人間は指名されないと冷淡な傍観者になってしまう)、あるいは、アクション映画のファンだったので、映画の主人公のように絶対に生き残れると信じることができたという男性とか、興味深い証言がたくさん紹介されている。
「災害のもたらす社会的な影響の本質は社会的変化の先取り」である、というのも蘊蓄のある言葉だと思った。被災した社会システムは、事態に適応するため、機能の効率化を図る。このとき、古くて非効率な部分は切り捨てられるか、思い切った再編が必要になる。これも身も蓋もない言い方だけど、被災前の社会をそっくり「復元」するのは不可能なんだな…。
急速に成長しつつあるコミュニティは被災しても急速に復興する。関東大震災後の東京、戦後の東京がそうだった。さて、もし今の東京が災害に襲われたら、復興の底力は残っているだろうか。1666年の大火のあとに面目を一新したロンドン、中世ヨーロッパを襲ったペストも、人口激減→労働者不足→労働集約化と技術革新のモチベーションが高まる→近代精神の誕生につながっていくなど、単純な善悪・災福二元論で割り切れないところが、歴史の面白さだと思った。