○富岡多恵子『湖の南:大津事件異聞』(岩波現代文庫) 岩波書店 2011.10
「大津事件異聞」という副題が目に留まって、本書を手に取った。なんだかとても不思議な、ぐにゃぐにゃした小説で、そこが小説を読み慣れない自分にも面白かった。
冒頭は、琵琶湖の南、大津に住む語り手の「わたし」(という一人称は注意深く避けられている)が、浜大津の駅で「近江八景展」のポスターを見かけ、『ビワ湖八景』というドイツ語の本を思い出すところから始まる。著者はダウテンダイというドイツ人。そんな本が本当にあるのか、それとも全て作者の仕掛けた虚構なのか、導入部では、まだこちらも神経をとがらせている。
そんな用心深い読者を尻目に、作者は『ビワ湖八景』に収められた八ツの物語の一ツを機縁に、大津事件の語りに入っていく。明治24年(1851)5月11日、日本を訪問中のロシア皇太子ニコライが、警護に動員されていた津田三蔵巡査に斬りつけられて負傷した。事件の朝、津田は三井寺観音堂の裏手にある西南戦争記念碑前で二人の外国人(ロシア人)に遭遇する。その日の午後に「事件は起った」と記したあと、語りは津田の少年時代に遡り、ゆるゆると進む。津藩の藩校で漢学教育を受け、13歳で明治維新、17歳で入営を命じられ、西南の役で負傷、その後も各地を転々し、27歳にして、ほぼ10年の兵役をやっと解かれる。
「学制」に乗りはぐれ、新時代の教育を受け損ねた津田に許された職業といえば、巡査くらい。郷里の三重県で、トラブルを起こし、免職になるが、またも滋賀県の巡査を志願している。不行跡の兄。扶養すべき妻と母と幼い子。作者は、津田の書簡を資料に、彼の「事件」以前の半生を淡々と描き出していく。特別に不運とも幸運とも言えない、幕末明治期のある世代、ある階層の平凡な人生が浮かび上がってくる。
そして、19章からなる本編の第8章、ちょうど真ん中あたりで、ようやく「事件」は起きる。ここからは、主にニコライの日記と津田の予審調書を参照しながら、やっぱり淡々とした叙述が続く。この突き放した態度がいいのだ。対象に共感しようとすれば、何らかの嘘が入る。その様子を、作者は「いわば『動機』が訊問によって再構成されていく」と冷静に見つめなおす。いや、予審調書の尋問者は、予断をまじえず「ドーダ」を繰り返して、本人の陳述を促している。その辛抱強さは驚くほどだ。けれども津田は「何ガナシニ」と言いかけては、言葉につまるばかり。近代以前の日本人は、今のように多く語る習慣がなかったというし、今の時代だって、こんな大事を起こした理由を誠実に語ろうとしたら、「自分ナガラ分ラヌ」としか言いようがないだろう。
その結果、新聞は津田を「狂人」と書き立て、後世『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎は、津田三蔵を「素朴な攘夷主義の信者」「思想的狂人」と見ている。何となしに、司馬さんは、こういうぐにゃぐにゃした人間は苦手だろうなあ、と思う。
私は、大津事件の後日談を全く知らなかったが、ロシアの対日感情悪化を恐れる閣僚たちが、裁判も待たずに「犯人を殺せ」と色めき立ち(副島種臣「法律もし三蔵を殺すこと能わずんば種臣彼を殺さん」…おいw)、日本全土、官民あげて、ロシア皇太子への慰問、見舞、平癒祈願が行われ、某村では「津田の姓を付するを禁ず」という村条例まで決議された。ダメだなあ、この国民…。一方、皇太子ニコライは、日記に見るかぎり、日本人を嫌いになった様子はなく、「かつてと同じように日本人のあらゆるすばらしい品物、清潔好き、秩序正しさは、私の気に入っている」と記し、「道を行き来する娘たちに遠くから見とれていたことを認めなければならない」と付け加える余裕さえ保っている。後年のこと(日露戦争、革命、処刑)を思うと、いろいろと感慨深い。
小説は、第14章から、とつぜん「わたし」の周辺に戻ってくる。20年ほど前、××市に住んでいた時の「近くの電気屋の息子」を名乗る男性(タビト)から、頻繁に不可解な手紙が来るようになる。その電気屋の息子を紹介してくれた家政婦のEさんのことを思い出す。どこか不安な日常を過ごしながら、作者は、引き続き、ニコライの日記と津田三蔵の予審調書や書簡を読み続ける。遠い過去と近い過去、ロシアと日本、歴史的事件と平凡な日常、史実と伝聞が地滑り的に錯綜する。結局、それらに決定的な違いはないのではないか。そんな曖昧な感想の中、大津の花火大会に集まる若い人びとのユカタ姿を眼前に、美容師さんから聞いた去年の祇園祭のエピソードで、物語は閉じられる。
巻末解説は成田龍一。本作品の目指したものを「事件の再構成を図るのはない、歴史の語り」と捉えている。

冒頭は、琵琶湖の南、大津に住む語り手の「わたし」(という一人称は注意深く避けられている)が、浜大津の駅で「近江八景展」のポスターを見かけ、『ビワ湖八景』というドイツ語の本を思い出すところから始まる。著者はダウテンダイというドイツ人。そんな本が本当にあるのか、それとも全て作者の仕掛けた虚構なのか、導入部では、まだこちらも神経をとがらせている。
そんな用心深い読者を尻目に、作者は『ビワ湖八景』に収められた八ツの物語の一ツを機縁に、大津事件の語りに入っていく。明治24年(1851)5月11日、日本を訪問中のロシア皇太子ニコライが、警護に動員されていた津田三蔵巡査に斬りつけられて負傷した。事件の朝、津田は三井寺観音堂の裏手にある西南戦争記念碑前で二人の外国人(ロシア人)に遭遇する。その日の午後に「事件は起った」と記したあと、語りは津田の少年時代に遡り、ゆるゆると進む。津藩の藩校で漢学教育を受け、13歳で明治維新、17歳で入営を命じられ、西南の役で負傷、その後も各地を転々し、27歳にして、ほぼ10年の兵役をやっと解かれる。
「学制」に乗りはぐれ、新時代の教育を受け損ねた津田に許された職業といえば、巡査くらい。郷里の三重県で、トラブルを起こし、免職になるが、またも滋賀県の巡査を志願している。不行跡の兄。扶養すべき妻と母と幼い子。作者は、津田の書簡を資料に、彼の「事件」以前の半生を淡々と描き出していく。特別に不運とも幸運とも言えない、幕末明治期のある世代、ある階層の平凡な人生が浮かび上がってくる。
そして、19章からなる本編の第8章、ちょうど真ん中あたりで、ようやく「事件」は起きる。ここからは、主にニコライの日記と津田の予審調書を参照しながら、やっぱり淡々とした叙述が続く。この突き放した態度がいいのだ。対象に共感しようとすれば、何らかの嘘が入る。その様子を、作者は「いわば『動機』が訊問によって再構成されていく」と冷静に見つめなおす。いや、予審調書の尋問者は、予断をまじえず「ドーダ」を繰り返して、本人の陳述を促している。その辛抱強さは驚くほどだ。けれども津田は「何ガナシニ」と言いかけては、言葉につまるばかり。近代以前の日本人は、今のように多く語る習慣がなかったというし、今の時代だって、こんな大事を起こした理由を誠実に語ろうとしたら、「自分ナガラ分ラヌ」としか言いようがないだろう。
その結果、新聞は津田を「狂人」と書き立て、後世『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎は、津田三蔵を「素朴な攘夷主義の信者」「思想的狂人」と見ている。何となしに、司馬さんは、こういうぐにゃぐにゃした人間は苦手だろうなあ、と思う。
私は、大津事件の後日談を全く知らなかったが、ロシアの対日感情悪化を恐れる閣僚たちが、裁判も待たずに「犯人を殺せ」と色めき立ち(副島種臣「法律もし三蔵を殺すこと能わずんば種臣彼を殺さん」…おいw)、日本全土、官民あげて、ロシア皇太子への慰問、見舞、平癒祈願が行われ、某村では「津田の姓を付するを禁ず」という村条例まで決議された。ダメだなあ、この国民…。一方、皇太子ニコライは、日記に見るかぎり、日本人を嫌いになった様子はなく、「かつてと同じように日本人のあらゆるすばらしい品物、清潔好き、秩序正しさは、私の気に入っている」と記し、「道を行き来する娘たちに遠くから見とれていたことを認めなければならない」と付け加える余裕さえ保っている。後年のこと(日露戦争、革命、処刑)を思うと、いろいろと感慨深い。
小説は、第14章から、とつぜん「わたし」の周辺に戻ってくる。20年ほど前、××市に住んでいた時の「近くの電気屋の息子」を名乗る男性(タビト)から、頻繁に不可解な手紙が来るようになる。その電気屋の息子を紹介してくれた家政婦のEさんのことを思い出す。どこか不安な日常を過ごしながら、作者は、引き続き、ニコライの日記と津田三蔵の予審調書や書簡を読み続ける。遠い過去と近い過去、ロシアと日本、歴史的事件と平凡な日常、史実と伝聞が地滑り的に錯綜する。結局、それらに決定的な違いはないのではないか。そんな曖昧な感想の中、大津の花火大会に集まる若い人びとのユカタ姿を眼前に、美容師さんから聞いた去年の祇園祭のエピソードで、物語は閉じられる。
巻末解説は成田龍一。本作品の目指したものを「事件の再構成を図るのはない、歴史の語り」と捉えている。