見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

ローマ帝国の贅沢と日常/ポンペイ(東京国立博物館)

2022-04-09 20:56:02 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館 特別展『ポンペイ』(2022年1月14日~4月3日)

 東京では終わってしまった展覧会だが、これから京都展・九州展もあるので、記録を書いておくのも無駄ではないかもしれない。紀元後79年、ヴェスヴィオ山の噴火により、火山噴出物に埋没したローマ帝国の都市ポンペイ。本展は、ナポリ国立考古学博物館の全面的協力のもと、壁画、彫像、工芸品の傑作から食器、調理具まで150件余りを展示し、2000年前の都市社会と豊かな市民生活をよみがえらせる。

 ポンペイ滅亡の物語は子供の頃から知っていた。少年マンガ誌や学習雑誌の読みもの記事で得た知識ではないかと思う。曖昧な記憶だが、1960~70年代のマンガやアニメには、ポンペイの運命を換骨奪胎したストーリーが描かれることもあったように思う。大人になってからは、澁澤龍彦がプリニウスを主人公にした『火山に死す』も読んでいる。しかし、これらは全て物語やイマジネーションに属するもので、ポンペイ遺跡の現状を映像で見たり、発掘された遺物に接したことは一度もなかったので、本展は衝撃的に面白かった。

 ポンペイの発掘は18世紀(具体的には1748年)に開始され、今日も続いているという。完璧な姿を残す彫像(大理石やブロンズ)に加え、色鮮やかなフレスコ画やモザイク画が多数残っているのが驚きだった。ポンペイは詳しい市街図が判明しており、「ファウヌスの家」(陽気なファウヌス像が出土)「竪琴奏者の家」(竪琴を弾くアポロ像が出土)などは、広大な邸宅の間取りも分かっている。これら邸宅の壁や床を飾るフレスコ画やモザイク画が素晴らしい。特に細かい石片(?)を組み合わせて微妙な色調を表現したモザイク画は、遠目には普通の精巧な絵画に見える。

 「ファウヌスの家」の談話室の床には巨大な「アレクサンドロス大王のモザイク」が敷き詰められている。マケドニア軍とペルシア軍がぶつかり合う戦闘場面で、これは残念ながら複製と映像しか展示されていなったが、世界史の教科書でおなじみのアレクサンドロス大王の肖像は、このモザイク画の一部である。1916年に発見場所の床面から剝がされて、ナポリ国立博物館の収蔵となったそうだ。火山灰に埋もれたポンペイが、タイムカプセルのようにこのモザイク画を保存してこなかったら、私たちの教科書の挿絵も違ったものになっていたかもしれない。

 あと、屋敷に飼犬がいることを示す「猛犬注意」のモザイク画は、ポンペイの(ローマ帝国の?)定番だったようだ。装飾ではなく注意喚起の実用のためか、色もデザインもシンプルだが、家によってイヌの姿に個性があり、「民藝」的な面白さを感じた。

 美麗なガラス杯、金のランプ、貴金属アクセサリーなど豪奢な品々も展示されていたが、むしろ面白かったのは、人々の暮らしに密着した品々である。一番人気は、なんといってもこの「炭化したパン」だろう。けっこう厚みのあるタイプである。ほかにも炭化したキビや炭化した干しブドウが展示されていた。

「仔ブタ形の錘(おもり)」。食器の間に並んでいたが、何に使うのかよく分からなかった。

「目玉焼き器、あるいは丸パン焼き器」。どう見ても、たこ焼き器にしか見えない。

 市内の劇場付近の住宅の庭園に飾られていたという土製の人形(背景は写真)。女性役、おそらく遊女を演じる俳優の姿だという。ローマ演劇は(ギリシア演劇も)仮面をつけて演じると聞いていたが、具体的にどんな姿か見たことがなかったので、興味深かった。自然な人の顔に近い仮面なのかな。

 ヴェスヴィオ山の噴火で埋もれた都市はポンペイだけではない。本展では、エルコラーノ及びソンマ・ヴェスヴィアーナの発掘についても紹介する。後者は、2003年から東京大学による本格的な発掘調査が開始されているそうだ。ローマ帝国の遺跡なんて、もうすっかり発掘調査が完了しているのかと思っていたが、まだ新しい発見がもたらされるかもしれないのだな。期待していよう。

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文化工作の実態/大東亜共栄圏のクールジャパン(大塚英志)

2022-04-07 21:03:42 | 読んだもの(書籍)

〇大塚英志『大東亜共栄圏のクールジャパン:「協働」する文化工作』(集英社新書) 集英社 2022.3.22

 戦時下、いわゆる大東亜共栄圏に向けてなされた宣伝工作である「文化工作」の具体的な姿を追う。短い序章では、戦時下の「文化工作」の特徴として(1)多メディア展開 (2)内地向けと外地向けの差、および地域ごとのローカライズ (3)官民の垣根を越えた共同作業、特にアマチュアの能動的参加、の3点を示す。最後の点に関連して、文化を含む翼賛体制構築のための実践の基本原理が「協働」である、と指摘されている。余談だが、私は長年、文教関係の公的セクターで仕事をしているが、現在もこの言葉はよく使われており、4月に入職した職場の一室に「協働スペース」の看板が掲げられているのを見つけて、苦笑している。

 本書が扱う分野(メディア)には、まんが、映画、アニメがある。新興の表現、マージナルな表現ほど(承認欲求のゆえに)動員されやすかったという指摘は、現代に通じる問題として記憶しておきたい。まんがについては、まず、前著『「暮し」のファシズム』でも紹介されていた『翼賛一家』を取り上げる。新日本漫画家協会の作家たちが制作し、アマチュアの参画を目論んだ、翼賛体制の宣伝と啓蒙のための作品である。本書では、この作品が、華北・台湾・朝鮮でどのようにローカライズされたか、誰が制作に関わったかを見ていく。

 次に、外地に赴き、まんが教育をおこなった2人の漫画家を検討する。「のらくろ」の田河水泡と「タンクタンクロー」の阪本牙城である。特に満州の開拓団や義勇隊をまわって少年たちにまんがの描き方を指導しながら、その過酷な実態を見てしまい、体験の一部を作品やエッセイに残した阪本牙城の話が興味深かった。戦後は漫画の筆を折り、阪本雅城として水墨画に専心したというのも知らなかった。

 映画に関する文化工作は、最も生臭く、キナ臭い物語だった。戦時下の上海では、日本軍と東宝が現地映画人を巻き込み、「光明影片公司」という偽装映画会社を立ち上げ、中国大衆向けの「文化工作」映画を製作していた。ところが、この映画会社にかかわっていた台湾出身の劉燦波が(おそらく漢奸=裏切者として)暗殺されてしまう。翌年(1941年)東宝と中華電影は、劉の死を題材にした映画『上海の月』(成瀬巳喜男監督)を製作し、公開する。『上海の月』のフィルムは失われてしまったそうだが、当時の新聞広告のコピーがすごい。「抗日女スパイの暗躍に抗して敢然起つ 文化戦士の血みどろの挑戦」とか…俗情におもねるとはこういうことか。

 また、中華電影に籍のあった多田裕計は、劉の死を思わせる描写のある『長江デルタ』を発表する。そして同作は同年の芥川賞を受賞する。当初、佐藤春夫、宇野浩二ら審査員の評価はあまり高くなかったが、これをひっくり返したのは横光利一である(ちなみに多田は横光の狂信的なファンだった)。選考過程の記録がきちんと残っているところは、公明正大というべきかもしれないが、それにしてもまあ…。

 最後はアニメ『桃太郎 海の神兵』について。「桃太郎」を日本軍の表象とし、鬼を敵国に見立てるという発想は、なんと日露戦争時代からあるそうだ(アール・ヌーヴォー様式の桃太郎!)。一方で桃太郎を侵略者、鬼を侵略される側として描くことも、尾崎紅葉『鬼桃太郎』(1891年)など早くからあり、大正末期から昭和初期には「桃太郎に軍国主義・侵略主義を説くこと」が「インテリの観念」となる。ところが、日中戦争期に入ると、これが反転し、桃太郎は「南方侵略肯定」のアイコンとなる。宝塚歌劇では「日出づる国」からやってきた植民地解放者として描かれるのだ。

 関連して、柳田国男『桃太郎の誕生』の冒頭が、1931年版と1942年版で全く違うことも初めて知った。ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」を見て、海から来る神々のイメージを想起した旧版が、南方の島々に日本と共通の記憶を探す、大東亜共栄圏的関心に書き換えられているのである。

 そして、名作の誉れ高いアニメ『桃太郎 海の神兵』であるが、実は印象的なシーンの多くは、先行する記録映画、ディズニー、戦争画、プロパガンダ雑誌などの視覚表現の「引用」であることが検証されている。いや、別に引用だから価値がないというわけではないが、戦時下には、こうした戦時表象の「引用の織物」が多数つくられていたのである。

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2022年3月関西旅行:泉屋博古館、琵琶湖疎水船ほか

2022-04-05 22:19:16 | 行ったもの(美術館・見仏)

 2泊3日関西旅行最終日。前日は五条川端のホテルに泊まったので、朝は川端通りの桜並木を四条方面へ歩く。祇園白川筋の桜はほぼ満開。結婚式の前撮り写真を撮りにきているカップルとカメラマンが何組もいた。あれは中華圏の習慣だと思っていたが、日本でもこんなに広まっているのか。

 四条河原町からバスで泉屋博古館へ。今日はいくつか展覧会を見ていく予定なのだ。

泉屋博古館 『旅スル絵画-住友コレクションの文人画』(2022年3月26日~5月15日)

 「旅」をキーワードに江戸時代の京・大坂を中心とする文人画を紹介し、あわせて東アジアを舞台にした書画による文人画家の交流にも注目する。冒頭には、三浦梧門筆『山水図』16面が展示されていた。やや茶ばんだ四角い画面に墨書や淡彩でさまざまな風景を描く。住友林業からの寄贈。この三浦梧門、日根対山など、よく知らない画家が多かった。

 異国の画家といえば、まず沈南蘋。『牡丹鳩図』は、南蘋様式の華やかさに欠けるが、地味な鳩が巧いと思った。『花卉図』の張秋穀は写実的な惲寿平様式を伝え、このひとに私淑したのが椿椿山。作風を見てなるほどと思う。来舶四大家の江稼圃(江大来)は清朝正統派の様式を伝え、これを学んだのが鉄翁租門、という具合に、日本の画家と中国・朝鮮の画家に幾筋もの関係がつながるのが面白かった。

細見美術館 『細見コレクションの漆芸 根来 NEGORO-朱と黒のかたち-』(2022年2月10日~4月10日)

 中世に紀州・根来寺で作られた飲食器や什器に始まるとされ、用途に適した簡潔なフォルム、長年の使用に耐えうる堅牢な造り、明快な色彩〈朱と黒〉を特徴とする「根来」を紹介する。シンプルで力強い根来は、墨蹟一行書や寺院の文書、春日南円堂曼荼羅、狭衣物語絵巻断簡(江戸初期)など、どんなものと取り合わせても、空間がピリッと締まってよい。私は、同館にこんな豊かな根来コレクションがあるとは知らなかったが、細見コレクションの創始者・初代古香庵(1901-1979)氏には『根来の美』(浪速社、1966)という著書もあるのだな。

京都近代美術館 『サロン!雅と俗-京の大家と知られざる大坂画壇』(2022年3月23日~5月8日)

 江戸時代から近代にかけて、京都と大坂で活躍した画家の代表的な作品を紹介するとともに、その交流によって形成された文化サロンにも焦点を当てる。展示替えを含めて239件、大英博物館からの出陳もある国際的な大規模展である。蕪村、大雅、応挙、芦雪など江戸絵画の「鉄板」メンバーあり、鶴亭、耳鳥斎など目配りに感心する画家あり、知らない名前あり(私が関東人だからか)、近代の画家・北野恒富や小出楢重の作品もある。大阪歴史博物館所蔵の『蒹葭堂日記』も久しぶりに見た。実に細かい字でびっしり書き込まれている。近世の画人・文人が、やたらと共作(寄書)しているのも面白かった。

琵琶湖疎水記念館蹴上インクライン

 展覧会を3つ見て、岡崎疎水の桜並木を眺めながら蹴上インクライン方面に向かう。まだ少し時間があったので、琵琶湖疎水記念館(入館無料)に立ち寄って、琵琶湖疎水の歴史や役割を簡単に学ぶ。

 インクラインは、琵琶湖疏水の急斜面で、船を運航するために敷設された傾斜鉄道の跡地。桜の名所で、結婚式の前撮りカップルや、着物姿の若い女性グループで大混雑だった。

琵琶湖疎水船

 事前に予約していた「びわ湖疎水船」クルーズは、蹴上を出発して大津へ向かう上り便である。この時間の1席しか空きがなかったので、何も考えずに予約してしまったが、実は蹴上→大津の上り便は所用35分、大津→蹴上の下り便は所用55分なのだ。この差は、水の流れに逆らう上り便の場合、波で転覆しないよう、全行程を猛スピードで走り続けることによる。

 防火用水として御所に水を送っていた旧御所水道ポンプ場の前から乗船。設計は片山東熊。ちなみに1回だけ、防火用水として使われたことがあったとか。

 船は2列(背中合わせ)12人乗りの小型船。水路は、船がぎりぎり通れる程度の幅なので、遊園地のアトラクションで、ウォータースライダーに乗っているような気持ちである。しかもコースの半分くらいはトンネルの中。

 山科あたりでは少し疎水の幅が広がり、両岸に桜並木が続く。遊歩道を歩く人たちが、老いも若きも、珍しそうに船に手を振ってくれるので、こっちも積極的に振り返す。

 山科を抜けると、再び長いトンネル(全長2,436m)に入る。内壁に京都府知事・北垣国道の扁額があったり、一瞬だが竪坑を下から覗くことができたり、暗闇の中でも見どころはある。さらにトンネルの壁に解説ビデオを投影して見せる工夫には驚いた。最後は、大津・三井寺近くの下船場に出る。ガイドさんの話で、三井寺の秘仏・観音堂の下を通ってきたと聞いて、ちょっとうれしい。下船後、トンネル出口の扁額の説明や大津閘門の案内があって解散となる。とても面白かった。なお、しっかりした防寒対策が必要であることを書き留めておく。

 これで盛りだくさんの2泊3日関西旅行はおしまい。

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2022年3月関西旅行:浄瑠璃寺、西大寺、薬師寺花会式

2022-04-02 23:34:49 | 行ったもの(美術館・見仏)

小田原山 浄瑠璃寺(京都府木津川市)

 関西旅行2日目。浄瑠璃寺は、行政区分では京都府に属するが、観光エリア的には奈良のお寺である。事前に調べたら、奈良市内から直通のバスは、観光シーズンの土日しか運行されていなかったので、JR奈良線で加茂駅に出て、加茂駅から小型のコミュニティバスに乗った。ハイキングらしい女性客が2人、岩船寺で下りたあと、浄瑠璃寺前で下りたのは私1人だった。まだ10時になったばかりで、土産物屋も開いておらず、人影のない参道に、人恋しげな犬が2匹、うろうろしていた。

 コブシや馬酔木など、花木に埋もれた参道の先には黄色い漆喰塀と小さな門。これぞ大和路、という風情である。

 開いたばかりの受付で拝観をお願いしたあと、本堂(阿弥陀堂)の濡れ縁に上がり、ぐるりと裏をまわって、受付とは反対側の入口から中に入る。すぐに目に入るのは、等身大の力強い四天王像(持国天、増長天)。残りは東博と京博に寄託されていることを思い出す。その隣り、横に長い須弥壇の上には九体の阿弥陀如来坐像が並ぶ、と書きたいところだが、左から3番目と6番目は「修復中」のため空席だった。実は中尊も昨年度修復されたところで、9体全て順番に修復予定らしい。

※Japan Art and Culture:京都・浄瑠璃寺の国宝「九体阿弥陀」の中尊、1年ぶり本堂に…「見えない部分まできれいに」(2021/7/7)

 来迎印の中尊を除き、脇尊は全て同じポーズ(弥陀の定印)だが、表情に少しずつ違いがある、私は左から2番目の阿弥陀仏に惹かれた。

 中尊の右横には吉祥天のお厨子があり、開扉されていた。私は、なんとなく青い衣のイメージを持っていたので(薬師寺の吉祥天女画像の復元模写のイメージかも)上下とも深紅の衣であるのを見て、記憶を修正した。薄暗い、ほぼ自然光の本堂でも、匂い立つような華やかさである。このほか、中尊右手の空席には地蔵菩薩立像が、須弥壇の右奥には不動明王と二童子像が祀られていた。

 本堂奥の出口の横には、若いお坊さんが座っていらした。「ありがとうございました」と挨拶して出ようとしたら、胸元に大きな猫ちゃんを抱えていた。実は拝観中、お坊さんの席のあたりからゴロゴロ大きな音がするので、朝から居眠りして鼾をかいているのか?と思ったのは、この子が喉を鳴らす音だったのだ。「お寺で飼われているんですか?」とお尋ねしたら、にこにこしながら「ここに住んでいるんです」とおっしゃっていた。火の気のない本堂なので、寒いときは猫ちゃんが暖房代わりになるのかもしれない。写真は、あとで本堂の濡れ縁で、拝観用の車椅子の横にうずくまっていた猫ちゃん。帰りの参道では、別の猫を7、8匹見かけた。

 それから、無人の浄土式庭園を独り占めして散策。いいなあ。この雰囲気、10年先も20年先も変わらないでほしい。自然に囲まれた九体阿弥陀堂(本堂)は、絵本の「ちいさいおうち」のように思われた。

 バス停に戻る途中、参道の土産物屋さんが開き始めていた。時間つぶしに店内を見せてもらったので「浄瑠璃寺みやげ」のシールの貼られたくず餅をひとつ買って行く。帰りはバスで加茂駅に出たあと、別の路線バスに乗り継いで、近鉄奈良駅に出た。梅見台という住宅地を通ったので、観光地の奈良・京都とは違う街の顔が見えた。

真言律宗総本山 西大寺(奈良市西大寺柴町)

 今回の奈良旅は、久しぶりの古寺巡礼に徹することにして、東大寺にも興福寺にも寄らず、西大寺に向かった。残念ながら聚宝館は閉まっていたが、四王堂、本堂、愛染堂を拝観した。四王堂には、右手に錫杖を執る長谷寺式の大きな十一面観音像がいらっしゃった。あと、かなり美形の道鏡禅師坐像が安置されているのが珍しかった。2021年に八尾市の「道鏡を知る会」から寄贈されたもので、芸大の籔内佐斗司先生の制作である(※八尾市記事)。

 本堂の本尊釈迦如来立像は清凉寺式。文殊菩薩騎獅像ならびに四侍者像(鎌倉時代)も見応えがあった。少し離れた奥の院にある、興正菩薩叡尊五輪塔も見てきた。

法相宗大本山 薬師寺(奈良市西ノ京町)

 薬師寺に着いたのは午後1時半頃だったと思う。この時期、薬師寺では花会式(修二会)が行われており、午後1時から日中、続いて日没の法要があることは事前にチェックしていた。金堂から、にぎやかな読経の声(マイクを使用している)が流れていたので、慌てて行ってみた。

 正面は階段の下までしか近づくことができないが、須弥壇の左右には立ち入ることができる。私は下手(左)側で聴聞することにした。須弥壇の前には10人の練行衆が座る、ベンチのような台が設置されており、上手側の長い台には4人、下手側のL字型の台には6人の席がある。

 私は昨年、国立劇場で薬師寺花会式の公演を見ていたので、だいたい何をしているかは理解できた。上手席の先頭の僧侶が、扇をトンと立てて人を呼び、草履を用意させたときは、おお、咒師(しゅし)だ!と興奮した。国立劇場の公演と同じく、やがて銅鈴を振り鳴らして立ち上がった咒師は、須弥壇の四方でくるりと一回転して、四天王を勧請した。

 日中・日没の法要が終わって、練行衆が退出したのは午後3時過ぎ。耳と目は飽きないが、東大寺の修二会聴聞と違って、立ちっぱなしなのが辛かった。それでも大勢の方が熱心に聴聞していた。午後7時からの初夜・半夜の法要では、咒師が二本の剣を構えて堂内を巡る「咒師作法」があるのだが、また次の機会に譲ることにした。東院堂の聖観音、玄奘三蔵院伽藍などを拝観して、今夜の宿の京都へ向かった。

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2022年3月関西旅行:長谷寺、大神神社

2022-04-01 23:58:47 | 行ったもの(美術館・見仏)

長谷寺(奈良県桜井市)

 室生寺、大野寺を後にして長谷寺へ。仁王門前で拝観受付をして、長い登廊(のぼりろう)を上がって本堂を目指す。

 今回の関西旅行、長谷寺を訪ねようと決めたのには理由があった。私の実家の宗旨は真言宗豊山派なのである。総本山の長谷寺で、最近、四十九日を済ませたばかりの父の回向(廻向)をお願いしたいと思ったのだ。

 しかし全国のお寺を趣味で訪ね歩いているものの、回向のお願いは初めてなので、けっこう緊張しながら本堂の窓口に申し出た。渡された用紙に戒名など必要事項を記載すると、チェックをして受領してくれた。普通の回向(月牌回向)5,000円と特別な回向(日牌回向)10,000円のどちらにしますか?と聞かれたので、普通の回向でお願いした。あとでお札(契証)を郵送してくれるらしい。豊山香というお線香もいただいた。

 最後にお坊さんから「ご本尊のご参拝はされましたか?」と聞かれた。現在、本堂では「本尊大観音特別拝観」が行われていて、特別拝観料1,000円を収めると、本堂内部に入り、巨大な十一面観音のお御足に触れてお参りすることができる。しかし私は2009年にも体験したことがあったので、今回はパスでもいいかと思って、特別拝観券を買っていなかった。そうしたら、回向の特典(?)で「どうぞ」と特別拝観の入場口を通してくれた。ラッキー~(ただし記念の授与品はなし)。

 境内は、桜には少し早かったが、白いコブシや黄色のミツマタ、濃いピンクの枝垂れ桜などが乱れ咲いていてきれいだった。

■山の辺の道:金谷の石仏大神神社大直禰子神社(奈良県桜井市)

 近鉄・桜井駅で下車。スマホのGoogleマップをたよりに金谷の石仏を訪ねてみた。まわりは小さな公園みたいに整備されており、道の向かい側には美術館もできていた(入口は反対側)。

 さらに北上して大神神社を目指す。むかしは「山の辺の道」の道標をたよりに歩いたものだが、Googleマップが違う経路を案内してくるので、Google先生に従う。無事、大神神社にたどり着いて、拝殿に参拝したが、拝殿の背後にあるという「三ツ鳥居」は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため拝観中止の措置がとられており、実見できなかった。

 もう一箇所、見たかったのは、大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ、若宮社)である。その場でスマホで検索して、二の鳥居から北上した突き当りにあることを確認し、行ってみた。この社殿が、もと大御輪寺(だいごりんじ)の本堂で、明治に入るまで、現・聖林寺安置の十一面観音菩薩立像が祀られていたところである。昨年、東博の『国宝 聖林寺十一面観音』展で知って、来てみたいと思っていたのだ。

 十一面観音の高貴なお姿に思いを馳せて感慨に耽りたいところだったが、ちょうどお寺の方が賽銭箱の中身の回収に来ていらして、あまり風情がなかった。

 このあと、JR三輪駅から桜井線で奈良市内へ向かったが、JRの車窓から巨大な一の鳥居が見えた。そういえば、一の鳥居は間近まで行ったことがない。次回は一の鳥居から大神神社周辺を踏破することも考えてみたい。

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