〇神奈川県立金沢文庫 特別展『名品撰品-称名寺・金沢文庫の名宝への学芸員のまなざし-』(2020年3月26日~5月22日)
称名寺から寄託を受けた文化財を中心に、県立金沢文庫が所蔵・保管する文化財を交えて、 それぞれの学芸員がテーマを決めて選んだ名品を展示する。同館の展示は何度も見ているので、絵画の『十二神将像』、彫刻の釈迦如来立像と十大弟子立像、工芸の青磁壺や青磁香炉(どちらも元時代)が出ていたのは予想どおり。声明や韻律・音楽関係の文書が多いことも、以前から紹介されていたので納得できた。
本展の見どころは、今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を意識した(?)文書がいくつか展示されていることだろう。『ゑんさい願文』は、金沢文庫の創設者である北条実時(1224-1276)の妻・尼ゑんさいが、亡夫・実時とともに源義経(1159-1189)の成仏を願ったもので、細かい仮名書きの中に「みなもとのよしつね」の文字がある。解説によれば、義経の死から60年目を翌年に控えた宝治2年(1248)2月には、鎌倉で義経の怨霊を宥める評定が行われたという。ネットで探してみたら、弘前市立弘前図書館の「おくゆかしき津軽の古典籍」のページに『吾妻鏡』宝治2年(1248)2月5日の条が掲載されていた。永福寺の修理にあたり、北条時頼が往時を回顧して、頼朝が「ただ私の宿意をもって」義経、泰衡を誅亡したことを悔い、その怨霊をなだめ、供養する必要があると論じている。義経、確かに怨霊になっても全く不思議はないのだが、そうならなかったのは、北条氏の人々がねんごろに弔い続けたおかげかもしれない。
頼朝を祭神とする(義経も合祀されている)鎌倉・西御門の白旗神社は、頼朝の持仏堂(法華堂)の跡地である。『六十六部縁起断簡』(室町時代)には、頼朝の前世は六十六部聖(廻国聖)で、時政、景時、広元も、それぞれ勧進聖や旦那(檀越)だったという夢告を頼朝に注進する者があり、頼朝が歓喜して法華堂を建立した、という逸話が載っていた。前世が坊主だったと聞いて、何がそんなに嬉しいかなあ…と思うのは現代人で、仏縁の有無、ひいては死後に極楽往生できるかどうかは、当時の武士にとって切実な問題だったのだろう。
なお、義時や政子の墳墓も法華堂(跡)の名前で呼ばれている。いま北条義時法華堂跡では、看板にある二次元コードを読み込むと実際の風景の中にCGで再現した建物を表示できるのだそうだ。連休に鎌倉に遊びに行って、やってみよう。
※参考:タウンニュース鎌倉版「ARで義時の法華堂再現」(2022/1/21)
『覚禅抄』には、寿永2年(1183)11月、後白河院が蓮華王院に高僧を集め、木曾義仲の調伏を祈願して、大威徳転法輪法を修したことが記録されている。まさに先週の『鎌倉殿の13人』の時期のことだ。後白河院は「寿永二年十月宣旨」によって、頼朝による東国支配権を公認し、頼朝は義経らを京へ派遣した。義経の軍勢は11月には近江に達するも、11月19日、義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して後白河院を幽閉する(法住寺合戦)。大威徳転法輪法で使用される大威徳明王像はこんな感じ(※文化遺産オンライン)。中世の禍々しさが感じられて、ぞくぞくする。
呪術や信仰を離れたところでは、北条実時の息子・実政が、元寇(弘安の役)に際して現地総司令官として九州に下向し、そのまま鎮西探題となって、ほぼ全生涯を九州で過ごしたという話がおもしろかった。今も昔も人間の転機は分からないものだなあ。以後、北条氏は九州に土着して地盤を形成していく。
また『東鑑(吾妻鏡)』は、鎌倉時代末年に幕府が編纂した歴史書だが、その編纂のもとになった一次資料(と思われる文書)が『吾妻鏡断簡』として展示されていた。ふだん版本しか見る機会がないので、なかなか新鮮だった。