15世紀中頃に大森氏が築いた山城が前身で、その後戦国大名「北条早雲」
が乗っ取って以来、関八州に君臨する北条氏の本拠地となっていた。
豊臣秀吉の小田原攻めに備えるために築造された、城下町を囲む延長9kmに及ぶ総構えの出現により城の規模は最大に達しました。
天正18年(1590)豊臣秀吉により北条氏政・氏直父子討滅を策略、大軍にて小田原を包囲、関東各地の支城を次々と攻略された。
その間、石垣山に一夜城を築かれた北条氏は度肝を抜かれ、降伏に至る。
北条氏滅亡後、秀吉から関東を与えられた徳川家康は家臣の大久保忠世を小田原城主とし、城は改修され近世城郭の姿になりました。
大久保氏改易後に城は破却されますが、寛永年間に稲葉氏が城主となると、再び改修工事が実施され城の姿は一新、貞享3年(1686)に大久保忠朝が父祖の地に再封され、その子孫が明治維新を迎えた。
明治3年、廃城となり、売却された後次々と解体されましたが、昭和35年に市制20周年記念事業として総工費8千万円をかけて復興され小田原のシンボルとなっています。
天守閣は3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、鉄筋コンクリート造、延床面積1,822㎡となっています。 国指定史跡
に指定され、今も整備が続けられています。
標高60mの最上階からは相模湾が一望でき、真鶴半島また良く晴れた日には房総半島まで見渡す事ができます。
平成22年度から史跡整備に伴う発掘調査を行っている、史跡小田原城跡の御用米曲輪(ごようまいくるわ)や23年度には、石垣を伴う障子掘(しょうじぼり)が発見され戦国時代の小田原城でも石垣が使われていたとのことです。
天守閣への正規な登城ルートは、お堀端通りにある正面入口、馬出門土橋を渡り馬出門(うまだしもん)を抜け馬屋曲輪(うまやくるわ)を通り住吉橋へ、銅門(あかがねもん)から階段を登り常盤木門を抜けると左手本丸に堂々とした天守閣が確認できます。