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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

ゴシップ的日本語論

2020-10-03 18:13:11 | 丸谷才一

丸谷才一 2007年 文春文庫版
丸谷さんのこの文庫本はずいぶん前に買った中古、いまふりかえってみたら去年の二月だった、例によって長く放っておいたのを最近やっと読んだ。
単行本は2004年らしいが、あとがきによると、丸谷さんが書こうと発想したものぢゃなくて、編集者が考えてくれた企画で、講演(挨拶を含む)、対談など、話をしたものばかり集めてつくろうというもの。
テーマはもちろん日本語で、あとがきで「とりわけ巻頭の日本語論二篇は力がこもつてゐて、まあ、わたしなりの憂国の論であります」というくらい、話し言葉だからわかりやすそうではあるが、実は気合の入った内容。
冒頭の「日本語があぶない」では、文部省は日本語を使ってものを考えるということは国語教育だけぢゃなくあらゆる教育の基礎であるという認識がない、って厳しく指摘したあと、テレビが読み書きの能力を急低下させたという意見を述べる。
テレビ画面では登場する人物が、声のほかに表情やしぐさをみせる、声にしても大小強弱イントネーションをつけて出す、
>そのために、言葉それ自体が抽象的に表出されるのではなくて、いはばコンテクスト(文脈)を持つてゐて、前後関係を説明する補助的な要素をともなつて出てくる。(p.43)
そういうコンテクストが膨大な言葉なので、文章を読むのとは違うという。
>昔の子供は、小さいうちから字面だけのテクストと対面して、テクストを読み取る能力を自分で養つてきた。ところが、今の子供はその訓練を経てゐない。文字を習ふ前から、テレビで、コンテクストがびつしりついてゐるテクストを見てゐるために、テクストとつきあふ能力をかなり弱められてしまつたのではないだらうか。
>文章とは、抽象的な、中立的な読者を想定して書かれるものだし、また、そのやうにして書かれなければならない。ところが、テレビ時代にはいつて成長した人々には、テクストがさういふものだといふことを知らない人が多いから、さういつた文章を書きにくくなつた。(p.44)
って、問題の重要性を指摘、こういう時代だからこそ、読書の訓練、作文の訓練はいっそう重要なのに、文部省はその認識がないってまた攻撃するんだけどね。
つづく「ゴシップ的日本語論」は、なにがゴシップ的かというと、いきなり、昭和天皇が皇太子だったときに受けた教育には重大な欠陥があった、なんてすごい話から始まる。
まわりが、事なかれ主義的な教育方針をとったせいで、「言語能力の面で非常に問題のある方になつた」なんて言う、いや丸谷さんの戦争・軍隊嫌いは知ってるけど、そんな戦前戦中に言えなかったようなこと、いま持ち出してどうするのってちょっとハラハラしちゃう。
で、政治家とか軍人とか学者なんかと社交的に親しく話をする習慣がなかった昭和天皇を、昭和24年になって、侍従に呼ばれた辰野隆、徳川夢声、サトウ・ハチローの三人が馬鹿っ話をしにいって喜ばせた、っていう記事が文藝春秋に載ったというんだけれども。
当時の編集局長が、この記事の企画がもちあがったときに、編集部内のインテリぶったイヤな奴が猛反対したんで、「待てよ、あーゆー奴が反対するなら、普通のひとは喜ぶかもしれない」って思ってゴーサイン出した、っていうのもゴシップ的。
まあ、そういう逸話をまくらにしてんだけど、言ってることはきわめてまとも。
ほかにも、メーカーの製品マニュアルの文章はひどいと、メーカーもわかってて新機種発売すると、マニュアルの問い合わせ対応にコールセンターに社員増員したりしてる、そういうことを、
>なぜかといふと、文章なんてものは大したことぢやないんだ、いざとなれば口で説明すればいいんだ、といふ発想が根強くあるわけです。文章で伝達しようといふ心がまへが根本的にない。遠い所にゐる人への伝達を原則にしてゐない。つまり村落的人間の生き方なんですね。(p.70)
と指摘して、日本文明はそういうところが弱い、政治家だって言うことの内容がまず無いし、何言ってるかわかんないし、技巧がなくて、表現力が乏しい、それぢゃ民主政治になんないよと憂う。
それはそうと、そういうコミュニケーション力みたいな言語論よりも、やっぱ文学に関することのほうが丸谷さんの論はおもしろい。
泉鏡花論では、近代日本文学(日露戦争以降?)では、小説のロマネスクな魅力ってのがなくなって、自然主義と私小説が主流になって、
>(略)文学といふものの性格を自然科学とごつちゃにして、自然科学的な真実の探求が文学だと考へたわけですね。必然的に人生の暗黒面を探ることに熱中しがちであつた。その探り方も単純になりがちだつた。さういふ狭苦しい自然科学的文学観に対して泉鏡花ははつきりと抵抗し、「違ふ、文学はもつとお祝ひのやうな、お祭のやうなものなのだ」といふことを示したのです。(p.155)
って言って、泉鏡花の偉大さをたたえているんだけど、まあ、泉鏡花賞受賞の挨拶だということを差っ引いても、いい意見だ。
小説論については、瀬戸内寂聴さんとの対談で源氏物語の話から、
>小説というものは、個人主義的な文学だと、みんなが思い込んでいる。一人の作者の自己表現でなければだめだ、そうでないのは非文学だと思い込んでいる。だから、紫式部が一人で書いたということにしたいし、その一人ということも、ごく純粋な一人ということにしたいと思っている。
>でも、僕はそうじゃなくて、もっと幅の広い一人と考えて構わないし、あるいは複数と考えてもいい。むしろ、そういうものだと小説論的ないし表現論的に考えている。それを現在、我々は一人の作者で、団体性、複数性を兼ねてやっているんですよ。自己表現でありながら、しかも、共同体の表現であるようなことをする。それが現在の小説家の形なんだというふうに僕は思っているわけですよ。(p.203)
って発言をしてるんだけど、これは傾聴に値するというか、考えさせられるものがある文学観だと思った。
ほかにも、木田元・三浦雅士との座談では、現代思想をテーマにして、西洋哲学ってソクラテスこのかた、女性や奴隷は人間として扱わずに考えてきたから人間の概念が狭くて限定的、それに対して二十世紀の精神分析学とか人類学では、女性や子供、原始人や西洋以外の文明の人類を対象にして人間を考えるようになった、みたいな話をしてるのが興味深い。
そこでも、やっぱり、たとえば戦前の哲学の翻訳の日本語はひどいって日本語論とか、自身の『輝く日の宮』について、
>木田 丸谷さんの論理で言えば、丸谷才一という個人が書いているんじゃないことになるような気がしますね。
>丸谷 そうですねえ、木田さんがおっしゃったように、あれは文学の伝統が書いているんですよ。(p.250)
みたいな小説論をちらっと言いつつ、論理とレトリックのきれいに絡み合った書き方を日本人はもっと学ぶべきみたいな意見いうのがとても刺激的だったりする。
コンテンツは以下のとおり。

日本語があぶない
ゴシップ的日本語論
II
文学は言葉で作る
折口学的日本文学史の成立
泉鏡花の位置
人間の時間というものを
III
男と女が合作する小説 対談:瀬戸内寂聴・丸谷才一
新しい歌舞伎の時代 対談:中村勘三郎・丸谷才一
思想書を読もう 座談会:木田元・三浦雅士・丸谷才一

コメント
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