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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

退屈なパラダイス

2017-04-15 20:47:38 | 読んだ本
山崎浩一 1992年 ちくま文庫版
去年のおわりに、キヨシローの『ロックで独立する方法』を読んでから、非常に気になってしまった山崎浩一さんのことが。
で、年明けころに古本屋で文庫を探して買ってみた、読んだのつい最近だけど。
エッセイというか評論というか、そういうのの集まり。
読んでるあいだから、あー八十年代だなー、という感じがしてきた、単行本の発行は一九八八年一一月というから昭和のおわりに向かうころか。
どこがどうというわけではないけど、八十年代後半には背伸びして小難しいことを読もうとしていた私には、やっぱあのころの時代の雰囲気がする。
>今の東京の街の面白さは、ハイテックなインテリジェント・ビルとローテックな路地裏が混在する、ミスマッチによって主に生まれていると思う。(p.54「都市のトータルコーディネーション」)
>近代的すなわち産業化社会的な遊びの大衆化と、経済のポスト産業化が、日本では同時に到来した。(略)「遊び」が社会によって奨励どころか強迫される時代に突入してしまったのである。(p.90「刺激装置のトートロジー」)
>消費者(つまりぼくたち全部)とは、このアンビバレントな志向の間を揺れ動く存在なのである――というのが異化と他己のジレンマ、すなわち《イカタコ合戦》である。(p.168「イカタコ合戦 差異化と同一化」)
>都市はあらゆる土着的なものを等価な情報=記号に変換してしまうシステムでもある。そこの住人は、だから土着から自由になった(あるいは疎外された)ニュートラルな情報環境の住人でしかない。(p.265「国際化時代のガイジンごっこ」)
とかとか、各章から適当にパッと見で抜き出してみたりしても、なんかこういうのが八十年代っぽいなあという感じがする、しない?
いま思うと、情報化社会とか高度消費社会とかいっても、中途半端な時代だったのかなあという気がする。
大まかな章立ては以下のとおり。
1 都市 medio-cosmos
2 刺激/退屈 pleasuredome
3 子供 child in time
4 消費 easy money
5 TV eye in the sky
6 政治 scritti-politti
7 知性 talking book
8 世代 blank generation

どうでもいいけど、
>この「世間を騒がせた罪」という名の罪は刑法のどこにも書かれてはいないものの、日本という国では最も大きな、そして便利な罪名だ。(略)
>彼らが犯した肝心の罪そのものは曖昧にされたまま、とにかく「世間を騒がせたこと」を詫びさえすればそれですむのだ。(略)
>そして、なんとそれだけで彼らは「世間」に許されてしまったりもするのだ。とても面白い法治国家だと思う。(p.248「去勢された反逆 校庭机文字事件」)
って一節は、とても気にいっている。
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透明な迷宮

2017-04-09 18:35:58 | 読んだ本
平野啓一郎 平成二十九年一月 新潮文庫版
1月に買った文庫、つい最近読んだ。
このひとの書くものはおもしろいんで読むんだけど、新刊が出るたび買うというところまでは行ってないかなという感じ、私にとっては。
文庫でたら読むかってとこで、3年くらいの時間差ができてしまうんだが、それで古くすたれてしまうようなものではないから、いいのだ。
これも、お、新しい文庫か、って買ってはきたんだけど、開いて目次みるまで短編集だとは気づかなかった、なんかその程度の興味ではあるのだが。
読めば、ちゃんとおもしろいから、よかったよかった。
「消えた蜜蜂」
山陰の小さな村で「僕」が知り合った郵便配達員の青年は、色が白くて表情の乏しい二十代後半の男。
彼は他人の書いたものを見て、そっくりの筆跡で文字を書くことができるという特殊能力の持主だった。
「ハワイに捜しに来た男」
ハワイに滞在して人探しをしている「俺」だが、依頼人は探してほしい人の名前も容貌も教えてくれなかった。
人の探しかたは、誰かに会ったら「俺に見覚えがないか?」と訊けという。
「透明な迷宮」
東京の会社員の岡田は仕事の出張でブダペストにいるとき、ヨーロッパを転々としているというミサという八歳年下の女性に出会う。
そこから二人は拉致監禁されてしまったのだが一晩で解放されて、やがて日本に帰って再会する。
拉致されたときの悪夢を乗り越えるのに苦労する岡田にミサは意外な提案をする。
えっ、そーくる、と思わされる展開がよかった、これ。
「family affair」
八十六歳で死んだ父の葬儀をおえた、娘であり晩年の介護をよくした六十二歳の登志江と、妹の五十四歳のミツ子は、後日形見分けなどする。
長男の宏和とは連絡もとれないし、その娘の葵は葬儀にもきたけど、ミツ子は彼女のことが好きではない。
とは言っても、たいした遺産があるわけでもなく、家のなかに残された品を二人で整理しさえすればよかったのだが、新聞紙に包まれた物騒なものが出てきてしまう。
「火色の琥珀」
とある地方の和菓子屋の倅である「私」の告白調の話。
小学生のときに、雑木林の小屋につくった子どもたちの秘密基地が燃えた、それを見てから「私」は火を恋しつづけることになった。
「Re:依田氏からの依頼」
小説家の大野は、知りあいを通じて、かつて対談などしたことのある劇作家で演出家の依田氏からの依頼をもちこまれる。
依田夫人が本人から聴き取った話を、小説にしてくれというのだが、事故にあってからの依田氏のこの二年間の状態は聞くものを惑わせる強烈なものだった。
どうでもいいけど、最終盤に「天気雨の中、白髪のベレー帽の男に瞋恚が憑いた。」(p.259)って文があって、「しんい」はルビ振ってくれてあるんだけど、意味知らなかった。
さすがに辞書(広辞苑)ひいた。【瞋恚】しん-い(シンニ)とも〔仏〕三毒の一。自分の心に逆らうものをいかりうらむこと。怒り。
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もしもし、運命の人ですか。

2017-04-08 20:14:38 | 穂村弘
穂村弘 平成29年1月 角川文庫版
あれえ、これ読んだことなかったっけかあ、とか思いながら、たしか2月末に買った新しい文庫。
単行本2007年で、2010年にいちど文庫化されてるっていうし、やっぱ以前の私は、書店で手のばしかけて見送ったのかも。
私の好きな歌人の穂村弘による、恋愛エッセイ。(そんな分類あるか知らんが。)
で、例によって、著者のときめくとこは、微妙にズレてるっていうか、ちょっと変わったアングルもってるので、そこをおかしく感じながら読むことになる。
なんたって、たとえば初対面の女性の名刺に「小谷真由美」とか「高田泉」なんて文字を見ると、シンメトリー(左右対称)だから運命のひとぢゃないだろうかと、どきっとしたりするんだから、どういう基準なんだよって。
でも、そんなのは特別なネタみたいなもんで、やっぱ行動がちょっとヘンなひとに魅かれてしまうとこがあるみたいなんだけど、そういうのは同意できるものある。
女性二人と車に乗っていると、運転してる女性に、もうひとりの車を運転しない女性が「エンストって何?」って訊いた。
答えないでいるとおもったら、突然がっくんと車がとまって、運転してる女性であるAさんが言う「これがエンスト」。
これに対して「その瞬間、私はAさんのとりこになってしまった。」(p.77「心の地雷原」)とかね。
部屋からみえる花火に対して、どこで打ち上げてるか何時まで続くのか正確なことわからないのに、「みにいこうよ。みえてるじゃん。あれに向かって歩けばいいんだよ」という女性に、つい「素敵だ。」(p.102「行動パターンと相性」)とかね。
それはいいけど、やっぱ基本的には妙に妄想を抱きがちな性格だから、必要以上にどきどきすることが多いようで。
友だちの家に夜集まって遊んでいるときに、コンビニに買い出しにいくのに自分が名乗りをあげたら、ひとりの女性が「じゃあ、あたしも行く」と言った。
それだけで、このコは自分のことが好きなんぢゃないかと想像が止まらない。
>私の未来に大きく影響する情報だ。
>〈今〉を起点として無数に枝分かれする未来ルートの何本かが、きゅんきゅんきゅーんと点灯するのがみえる。(p.169「コンビニ買い出し愛」)
大袈裟な。
そんな調子だから、友人の女性には、「ほむらさん、恋愛に対するセンサーが過敏っていうか、意識が過剰だよ」(p.90「1%のラブレター」)とか言われてしまう。
また、何年もつきあってた女性にも、「誰のことも、一番好きな相手のことも、自分自身に較べれば十分の一も好きじゃないよね、あなたは」(p.108「恋と自己愛」)と言われてしまったらしいんだけど、自己愛の強さには自覚はあって、だからいろんな場面で不安になるらしい。
「このフタ、固いの。開けてくれる?」なんて女の子から瓶をわたされると、とたんに緊張して、試練だ、開かなかったら二人の関係はどうなってしまうんだろうと恐怖にかられる。
そういう気持ちを、女の子は男ならフタ開けられると思いこんでるんだから困るよなー、みたいに打ち明けると、居合わせた女性からけちょんけちょんに反論される。
「そういうとき、本気の本気でやればあたしでも何とかなりそうかな、っていうのをわざわざ渡したりしてるんですよ」
「そうそう、だからうだうだ云わずに、がっとやってくれれば大丈夫なの」
「フタが開いたら『わあ、すごーい』って云って貰えるんですよ。最初からそれが云いたくて渡してるんだから」
「うん。男女のコミュニケーションの一種なんですよ」(p.143-144「男子力と女子力」)
とか言われてビックリさせられてしまってる。こういう情けなさがおもしろくていい。
でも、そのあとの、
「そもそも固いフタを渡されるくらいがなんだっていうの。女ならできる筈、って男が勝手に思い込んでることは、その100倍くらいあって、とっても大変なのに」
ってのには、私なんかも痛、痛っ、痛いな、と思うところはあるかもしれない。
でも、たとえば、「ボタンとれた? つけてあげるよ」とか言われたら、自分でできるよなんて言わずにキュンキュンして渡してしまうかもしれない。
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裏声で歌へ君が代

2017-04-02 19:24:20 | 丸谷才一
丸谷才一 昭和57年 新潮社
去年11月に地元の古本屋で手に入れた。
丸谷才一を読み返すというか、読んだことないものも含めて読んでんだけど、ここんとこ。
これは以前いちど読んだはずなんだが、うちになくて。
処分するわけないから、きっと昔むかしむかし(十年ひと昔)読んだときには、ガッコのトショカンででも借りたんだろうと思う。
ところが、探してもなかなか見つからなくて、見つからないと、またどうしても読みたくなるもので。
ところがところが、あるときにはあるもので、その古本屋さんでは、別々の棚だけど、二冊も置いてあった。
うーん、両方ひっぱりだして詳細に状態見比べるほど私は厚かましくないので、箱に帯のあるほうでいっか、くらいのノリで選んで買った。
御店主のとこへ持ってくまえに、やっぱ一度箱から出して値段は見たけどね。高かったらどうしよと思ったけど、初版、1000円。ふつうの古本。

で、手に入れたことで満足しちゃって、しばらく本棚へ眠らせたままにしちゃってたけど。
(近ごろたいていの本は、床に積んだままにしちゃってるんだが、さすがにこれは棚に空きスペースつくって入れた。)
読んだのは、つい最近。あまり電車のなかで読んだりしないのだ、まじめに読みたい小説は。休日に時間つくって(ただし態度はよろしくなく寝転がって)読む。
おもしろいって記憶だけあって、どんな話だったかはまったく忘れてたけど。
それが新鮮に楽しめて読めるんだから、忘却もわるいことばかりぢゃあないね。
主人公は五十歳くらいの画商。むかし陸軍幼年学校の生徒だったが、学徒出陣したころには、もう戦争は終わるころだった。
で、銀行に勤めてたんだけど、あるときガウディの建物の写真を見て、会社を辞めてスペインまで飛んで行った、その一年後には離婚。
そういう無鉄砲なところはあるんだが、物語の冒頭では、一度会ったことがあるきりの女性を見かけて、地下鉄のエスカレーター逆に駈け下ってて、食事に誘うという無鉄砲ぶりをみせる。
ところが、その前に寄らなければいけないところがあると言って、つれてくのが台湾民主共和国の大統領就任のパーティ。
この台湾の国というのが、ほんとに主権を世界中から認められてるわけぢゃなくて、当時支配していた蒋政権に逆らって台湾人本来の国家をつくって独立しようっていう有志の集まり。ときは昭和50年ころとおもわれる。
新大統領というのも主人公の友人で、バナナの貿易でもうけて、いまは日本国内でスーパーマーケットの社長とかやってる、ふつうっぽいひと。
かくして、台湾独立をめぐるごたごたと、エスカレーター逆乗りしてまで追っかけてった三十代女性との恋とで、縦横織りなされてって物語はすすむ。
初めて読んだときはねえ、50になった男が恋愛なんかするのかしらんと思ったもんだが、いまになれば私にもわからんこともな…ウォッホン、ゲホゴホ。
さてさて、国家について、台湾の存在しない国をめぐって動いてるひとたちと話してるうちに、
>とすれば、結局のところ、国家はただ何となく在ると判断するのがいちばん正しいことになるだらう。それは無目的にただ存在して、その存在の記念として長方形がいろいろの色で染められ、それが風にひるがへつたり、ちぎれて泥にまみれたりする(p.340)
などと、ものすごいことに行き着くんだが、そこんとこを、相手に「日本といふのは特にそんな感じのする国ですね。ただ存在する……」なんて言われちゃったりするのはドキッとする。
とは言え、堅苦しい理屈を並べてるだけの小説ぢゃあなくて、たとえば、麻雀をしながら昔の旦那とのいきさつをうまく語る老女が、話につりこまれるメンツを相手に勝っちゃうとこなんかは、うまいなあと思う。
こういうとこあるから、私はこの作家が好きになったんだっけ、って気がしてきた。
うん、見つけて、読むことができてよかった。平成28年11月の収穫。
どうでもいいけど、箱のなかのカバー画は、ちょいと純文学書下ろし特別作品らしくはない感じだね。(装幀は和田誠だが、この装画はアントニオ・ロペスというひと。)
(これ記憶にないから、やっぱ私はカバーのかかってない図書館の本読んだんだろうな。)

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三省堂国語辞典のひみつ

2017-04-01 18:50:37 | 読んだ本
飯間浩明 平成二十九年二月 新潮文庫版
2月の末に、書店で積んであったのを手に取った文庫。
サブタイトルは「辞書を編む現場から」。そのとおり、国語辞典編纂者のエッセイ。
ちなみに、編集委員は5人、そのほかに外部執筆者を入れても、全部で10人くらいでつくっているということですが。
つかったことないと思うけどね、私は、三省堂国語辞典。
(いまウチにあるのは、広辞苑の第四版と、岩波国語辞典の第二版1977年8刷、古っ。)
本書によれば、三国こと三省堂国語辞典は、「『要するに何か』が分かる辞書」、「『すとん』と胸に落ちる語釈」を目指しているそうで、たしかに挙げられてる例をみれば、そうみたい。
あと、「現代の日本語をできるだけ広く集めて載せる」、「『辞書に漏れていた意味』を見つけようとする」っていう方針だそうで。
特に、古くからある言葉でも最近の使われようが違ってきていれば、そのへんフォローしようという姿勢は、改めて読まされると、たいしたもんだと思う。
あとがきに、「かなりPR色の強いものになりました」ってあるけど、うん、買ってもいいかなという気にはなります、上手なことに。
第1章 『三省堂国語辞典』はこんな辞書
第2章 誤りと決めつけてはいけない
第3章 新しいことば・古いことば
第4章 気がつきにくいことばと意味
第5章 語釈を書くのはむずかしい
第6章 『三国』の使い方の極意
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