町山智浩 二〇二〇年六月 集英社インターナショナル新書
タイトルの「動機」は「ワケ」と読みます、映画にはワケがある。
サブタイトルは、「「最前線の映画」を読むVol.2」ということで、そのシリーズ前著がけっこうおもしろかったもんで、読んでみることにした。
なんかねえ、町山さんはときどきおかしな騒動の当事者になってるらしいけど(名前を見かけるだけで詳しくは知らない)、映画評はむちゃくちゃおもしろいことはまちがいないから。
これは何からの引用とか、あの作品に影響を与えたとか、そういうのいっぱい教えてくれるところが私のようなシロウトにはうれしい。
そんなに映画観るわけぢゃないんだが、私は。今回は本書の帯をみたら「『シェイプ・オブ・ウォーター』のヒロインはなぜ口が利けないのか?」ってあったんで、それは知りたいぞ、と思ってしまったわけだ。
ちなみに本書は12の映画をとりあげてるけど、私がみたことあるのは『シェイプ・オブ・ウォーター』と『スリー・ビルボード』の二つだけだった、困ったもんだ。
『シェイプ・オブ・ウォーター』は中年女性と半魚人のラブストーリーなんだけど、よくわからんのだ私には、なぜにそんなことを、って言いそうになる。
そしたら、ギレルモ・デル・トロ監督が少年時代にみた映画に『大アマゾンの半魚人(1954年)』というのがあって、そっから物語の原型みたいのがきてるんだという、知らんかった。
物語の舞台は1962年なんだが、このあいだなにかで読んだんだけど、1962年を舞台にした映画ってのは多くて、『ドリーム(2016年)』(私はこれけっこう好き)や『グリーンブック(2018年)』とかがいずれも1962年の話で、古くは『アニマル・ハウス(1978年)』(ジョン・ベルーシ!)なんかも1962年なんだという。
で、問題の、ヒロインである軍の研究所の清掃員の女性が、なぜ声を出せないのかについては、監督自身の説明があるんだけど、意外とシンプルって感じがした。(私としてはネタバレご遠慮申し上げて、こんなとこ書かない。)
それよか、帯に「ヒロインはなぜ口が利けないのか?」って書いといて、なんで本編のタイトルは「なぜストリックランドは手を洗わない?」なんだろうね、まあ帯にストリックランドって書かれても、それがときに半魚人を虐待する悪役の名前だなんてわからないけど、私も。
それはそうと、『未来世紀ブラジル』から影響を受けてるって言われると妙に気になるんだけど、その『未来世紀ブラジル』に影響与えたのがオーソン・ウェルズの『審判』だってのは、先月町山さんの解説で仕入れたばかりのナマワカリな知識だったりする。
コンテンツは以下のとおり。
第1章 なぜストリックランドは手を洗わない?――『シェイプ・オブ・ウォーター』
第2章 なぜ暴力警官は「チキチータ」を聴くのか?――『スリー・ビルボード』
第3章 なぜ観ているとこんなに眠くなるのか?――『ツイン・ピークス シーズン3 The Return』
第4章 なぜ牧師は教会を爆破するのか?――『魂のゆくえ』
第5章 なぜバス運転手は詩を書くのか?――『パターソン』
第6章 なぜデザイナーはハングリーなのか?――『ファントム・スレッド』
第7章 なぜスパゲティを汚らしく食べるのか?――『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』
第8章 なぜ少年の顔に蠅がたかるのか?――『君の名前で僕を呼んで』
第9章 なぜ母は最後にベランダに出たのか?――『ラブレス』
第10章 結局、犬殺しの正体は誰だったのか?――『アンダー・ザ・シルバーレイク』
第11章 最初と最後の女性は誰だったのか?――『マザー!』
第12章 なぜ父は巨大な車を押し込むのか?――『Roma/ローマ』
辻󠄀静雄 1994年 文藝春秋
丸谷才一の『男もの女もの』のなかの「東西食器論」という随筆のなかで触れられていたのが、この本。
正確には、丸谷さんはこれの文春文庫版が出たときに、その大岡信さんによる解説がよかった、といってるわけだが、文庫をみつけられなかったので、とりあえず単行本の古本を買った。
著者は辻󠄀調理師専門学校の創設者なんだが、最初は大阪読売新聞社の記者で、料理は素人だったのに結婚した相手の父親がそういう関係だったらしく、転職すすめられて建物ひとつつくってくれて、適当にやれと言われて研鑽をつんだらしい、すごい生き方だ。
で、そういうひとが、「味に究極などというのはありえない」という。
特に料理を作る側からすると、100%いいものができたと言ってしまったら職人はおしまい、常にもっといいものできるはずと考えているのが職人なんだという。
安易に「味がわかる」ようなこと言うな、ってスタンスが基本で、しかも料理っていうのはその時その場かぎり一回だけのものだし、料理を言葉で表現するのはある程度まではできたとしても最終的には不可能だって言う。
>この楽しみは、先ほども述べましたように、主観的なものですから、これを客観的に記述しようというのは、そもそも無謀な試みです。
>本屋の店頭に並ぶ数多くの食べ物屋ガイドの大半は客観的記述を装っていますが、あれはみな主観の塊です。だから、それぞれの人々が求めている美味しいものを食べる楽しみの参考には、あまりならないはずです。(p.11)
ということになる、ふーむ、そうなんでしょう。
そこで驚かされるのは、料理の世界に入って自分がうまくやってこられたのは金銭哲学によるものだ、という宣言。
>つまり、金がなかったら料理はつくれないということ。金をもってくる客がいなかったら、料理人なんて陸にあがったカッパと同じ。(略)だから、私は学校を始めて以来、今日に至るまで、生徒にいっている。
>「君らね、何はともあれ客を呼ぶことが先だぞ。俺の料理がうまいとか、どこがうまいとか、そんなことをいうのは後の話だ。(略)いくらもうけて、どうやって客にごますって、どういうふうに知ったかぶりする客をごまかして、残り物を、あんたのためにとっておいたといって煙にまき、食わせてしまうかが大事なんだぞ」(p.36-37)
なんて言われちゃうと、調理師学校ってそういうこと教えてくれるとこだったの、と目からウロコである。
ブラックユーモアなんぢゃないかと思っていると、
>だから、私にもし功績があるとしたら、巣立っていった生徒たちにお金が大切だということを教えたことだと思う。技術ではない。技術というのは、金があってこそ、客がいてこその技術であって、金がなかったら何をかいわんやである。(p.38)
って念を押しているんで、マジなんだろう。
そんなことばっか言ってるひとに教わったひとの料理は大丈夫なんだろうかと心配になりかけるんだが、自身の料理研究への自負はすごく、
>私の場合は、結果的に食べ歩きになっただけであって、今皆さんのやっている食べ歩きとは違う。お金をもって食べにいく人たちとの料理とは違う料理を私は食べていたのだ。(略)
>お金のある人が「吉兆」さんへ行って食べているとよくいう。しかし、あれは私が食べている料理とはまるで違うはずだ。というのは、料理の味を分らない人間に食わせてもしようがないからなのだ。料理というものは、そういうものなのである。
>それがつまるところ、お金では買えないもの、ということになる。(p.39)
っていうんで、えらい豪語するなと思いつつ、ちょっと安心する、金ぢゃ買えないもの知ってたうえで、この世は金だと言ってるんだと。
さらに、もうちょっと後のほうまで読んでくと、パリで食事に呼ばれると、迎える女主人だけぢゃなく他のお客もみんな教養あるひとで、そういう場ではどんな話でもできるようになりたいって話をして、
>料理というのは、そういう会話の媒介だと思うのです。会話、つまり人間ですね、やっぱり。そういう人と人との出会いをつなぐものが、料理なのです。(略)仲のよい気のおけない友人と楽しむのが、料理。おいしければ、なお良い。楽しいな、一緒にいてよかったな、そう思える相手と食事をすることが、「本当においしい」ということです。(p.82)
みたいな、まあ料理の先生に言ってほしかったようなこと書いてあるんで、そこでホントに安心することができた。
著者は、料理のなんつーか真実を追い求める一途さからなんだろうが、歴史もよく研究していて、食べ物にはそれほど興味ない私だがそういうのはおもしろいと思って読んだ、ほら、人類学っていうか文明史っていうか、そういう感じなんで。
でも、記憶に残るのは、ルイ十四世は贅沢を重ねているけど、ネコ舌で、好き嫌い多いが、オレンジが入っていれば何でもよかった、みたいなどうでもいい話だけだったりする。
コンテンツは以下のとおり。
食の美は、はかなさにあり――まえがきに代えて
I 美味づくりの旅
西洋料理の受容
贅沢の人間学
汗
くやしい
会食の至福――辻󠄀静雄リヨンを歩く
II 食卓・西と東
自己完結型の満足
東西食卓学〔対談=熊倉功夫〕
味をつくる人々
食卓の比較文明論〔対談=梅棹忠〕
III ヨーロッパ料理の変遷
バッハの食生活
ヨーロッパの料理とその変遷
『高雅なる悦楽と健康』――フランス料理のルネサンスを招いた名著
西ヨーロッパの食生活
料理の未来
あとがきに代えて 辻󠄀芳樹
*
弔辞 丸谷才一
(出版前の1993年3月に著者は亡くなっているので、最後に親しい友人の丸谷さんの弔辞がある。)
村上春樹 平成十四年 新潮文庫版
最近また新しいものを読んで、やっぱおもしろいじゃん村上春樹、なんて思ってるんだが。
持ってないもの一応さがしとくか、って中古で買ってきたのがこれ。
小説とちがってエッセイって、タイミング合わないと見逃すことがあるんだよな、なぜか。
なかみはスコットランドとアイルランドをウィスキーをテーマに旅したときのことを書いたもの、自宅で酒瓶ながめてるだけぢゃないのが、さすがだ。
一緒に旅行した奥さんの撮った写真もいっぱい、2ページ文章あったら2ページ写真くらいの半々のわりって感じ。
パブでウィスキー飲むだけぢゃなく、蒸溜所の見学とかにも行ってる。
アイラ島でシングル・モルトをいろいろ飲むとか、まあうらやましい。
ラフロイグの味について、
>文章でいえば、たとえばアーネスト・ヘミングウェイの初期の作品に見られるような、切れ込みのある文体だ。華麗な文体ではないし、むずかしい言葉も使っていないが、真実のひとつの側面を確実に切り取っている。誰の真似もしていない。作り手の顔がくっきりと見える。(p.62)
なんて言ってるんだが、ヘミングウェイなんて読んでない私でも、あーうまいこと言うなーと思ってしまう。
アイルランドではウィスキーだけぢゃなく当然スタウト(ビール)飲んだりもするんだが、
>(略)結局のところ、同じ味のするビールなんてひとつもないということになってしまう。それはときによって、イングリッド・バーグマンの微笑みのようにそっとクリーミーになったり、モーリン・オハラの唇のようにハードに引き締まったり、あるいはローレン・バコールの瞳のように捉えどころのないクールさを浮かべたりもする(略)(p.93)
なんて、またうまいことを言う、私は映画にでてる女優の顔なんてろくに見分けもつかないけどね。(イングリッド・バーグマンは『サボテンの花』って映画がおもしろくて好き。)
どうでもいいけど、酒の味自体の話よりも、私が気になったのは、アイラ島では生牡蠣にシングル・モルトをかけて食べるっていうやりかた。
案内人に「それがこの島独特の食べ方なんだ。一回やると、忘れられない」と言われて、村上さんは「殻の中の牡蠣にとくとくとたらし、そのまま口に運ぶ」ということを実行して、「至福である」と言っている、やってみたい。
丸谷才一 2007年 文春文庫版
丸谷さんのこの文庫本はずいぶん前に買った中古、いまふりかえってみたら去年の二月だった、例によって長く放っておいたのを最近やっと読んだ。
単行本は2004年らしいが、あとがきによると、丸谷さんが書こうと発想したものぢゃなくて、編集者が考えてくれた企画で、講演(挨拶を含む)、対談など、話をしたものばかり集めてつくろうというもの。
テーマはもちろん日本語で、あとがきで「とりわけ巻頭の日本語論二篇は力がこもつてゐて、まあ、わたしなりの憂国の論であります」というくらい、話し言葉だからわかりやすそうではあるが、実は気合の入った内容。
冒頭の「日本語があぶない」では、文部省は日本語を使ってものを考えるということは国語教育だけぢゃなくあらゆる教育の基礎であるという認識がない、って厳しく指摘したあと、テレビが読み書きの能力を急低下させたという意見を述べる。
テレビ画面では登場する人物が、声のほかに表情やしぐさをみせる、声にしても大小強弱イントネーションをつけて出す、
>そのために、言葉それ自体が抽象的に表出されるのではなくて、いはばコンテクスト(文脈)を持つてゐて、前後関係を説明する補助的な要素をともなつて出てくる。(p.43)
そういうコンテクストが膨大な言葉なので、文章を読むのとは違うという。
>昔の子供は、小さいうちから字面だけのテクストと対面して、テクストを読み取る能力を自分で養つてきた。ところが、今の子供はその訓練を経てゐない。文字を習ふ前から、テレビで、コンテクストがびつしりついてゐるテクストを見てゐるために、テクストとつきあふ能力をかなり弱められてしまつたのではないだらうか。
>文章とは、抽象的な、中立的な読者を想定して書かれるものだし、また、そのやうにして書かれなければならない。ところが、テレビ時代にはいつて成長した人々には、テクストがさういふものだといふことを知らない人が多いから、さういつた文章を書きにくくなつた。(p.44)
って、問題の重要性を指摘、こういう時代だからこそ、読書の訓練、作文の訓練はいっそう重要なのに、文部省はその認識がないってまた攻撃するんだけどね。
つづく「ゴシップ的日本語論」は、なにがゴシップ的かというと、いきなり、昭和天皇が皇太子だったときに受けた教育には重大な欠陥があった、なんてすごい話から始まる。
まわりが、事なかれ主義的な教育方針をとったせいで、「言語能力の面で非常に問題のある方になつた」なんて言う、いや丸谷さんの戦争・軍隊嫌いは知ってるけど、そんな戦前戦中に言えなかったようなこと、いま持ち出してどうするのってちょっとハラハラしちゃう。
で、政治家とか軍人とか学者なんかと社交的に親しく話をする習慣がなかった昭和天皇を、昭和24年になって、侍従に呼ばれた辰野隆、徳川夢声、サトウ・ハチローの三人が馬鹿っ話をしにいって喜ばせた、っていう記事が文藝春秋に載ったというんだけれども。
当時の編集局長が、この記事の企画がもちあがったときに、編集部内のインテリぶったイヤな奴が猛反対したんで、「待てよ、あーゆー奴が反対するなら、普通のひとは喜ぶかもしれない」って思ってゴーサイン出した、っていうのもゴシップ的。
まあ、そういう逸話をまくらにしてんだけど、言ってることはきわめてまとも。
ほかにも、メーカーの製品マニュアルの文章はひどいと、メーカーもわかってて新機種発売すると、マニュアルの問い合わせ対応にコールセンターに社員増員したりしてる、そういうことを、
>なぜかといふと、文章なんてものは大したことぢやないんだ、いざとなれば口で説明すればいいんだ、といふ発想が根強くあるわけです。文章で伝達しようといふ心がまへが根本的にない。遠い所にゐる人への伝達を原則にしてゐない。つまり村落的人間の生き方なんですね。(p.70)
と指摘して、日本文明はそういうところが弱い、政治家だって言うことの内容がまず無いし、何言ってるかわかんないし、技巧がなくて、表現力が乏しい、それぢゃ民主政治になんないよと憂う。
それはそうと、そういうコミュニケーション力みたいな言語論よりも、やっぱ文学に関することのほうが丸谷さんの論はおもしろい。
泉鏡花論では、近代日本文学(日露戦争以降?)では、小説のロマネスクな魅力ってのがなくなって、自然主義と私小説が主流になって、
>(略)文学といふものの性格を自然科学とごつちゃにして、自然科学的な真実の探求が文学だと考へたわけですね。必然的に人生の暗黒面を探ることに熱中しがちであつた。その探り方も単純になりがちだつた。さういふ狭苦しい自然科学的文学観に対して泉鏡花ははつきりと抵抗し、「違ふ、文学はもつとお祝ひのやうな、お祭のやうなものなのだ」といふことを示したのです。(p.155)
って言って、泉鏡花の偉大さをたたえているんだけど、まあ、泉鏡花賞受賞の挨拶だということを差っ引いても、いい意見だ。
小説論については、瀬戸内寂聴さんとの対談で源氏物語の話から、
>小説というものは、個人主義的な文学だと、みんなが思い込んでいる。一人の作者の自己表現でなければだめだ、そうでないのは非文学だと思い込んでいる。だから、紫式部が一人で書いたということにしたいし、その一人ということも、ごく純粋な一人ということにしたいと思っている。
>でも、僕はそうじゃなくて、もっと幅の広い一人と考えて構わないし、あるいは複数と考えてもいい。むしろ、そういうものだと小説論的ないし表現論的に考えている。それを現在、我々は一人の作者で、団体性、複数性を兼ねてやっているんですよ。自己表現でありながら、しかも、共同体の表現であるようなことをする。それが現在の小説家の形なんだというふうに僕は思っているわけですよ。(p.203)
って発言をしてるんだけど、これは傾聴に値するというか、考えさせられるものがある文学観だと思った。
ほかにも、木田元・三浦雅士との座談では、現代思想をテーマにして、西洋哲学ってソクラテスこのかた、女性や奴隷は人間として扱わずに考えてきたから人間の概念が狭くて限定的、それに対して二十世紀の精神分析学とか人類学では、女性や子供、原始人や西洋以外の文明の人類を対象にして人間を考えるようになった、みたいな話をしてるのが興味深い。
そこでも、やっぱり、たとえば戦前の哲学の翻訳の日本語はひどいって日本語論とか、自身の『輝く日の宮』について、
>木田 丸谷さんの論理で言えば、丸谷才一という個人が書いているんじゃないことになるような気がしますね。
>丸谷 そうですねえ、木田さんがおっしゃったように、あれは文学の伝統が書いているんですよ。(p.250)
みたいな小説論をちらっと言いつつ、論理とレトリックのきれいに絡み合った書き方を日本人はもっと学ぶべきみたいな意見いうのがとても刺激的だったりする。
コンテンツは以下のとおり。
I
日本語があぶない
ゴシップ的日本語論
II
文学は言葉で作る
折口学的日本文学史の成立
泉鏡花の位置
人間の時間というものを
III
男と女が合作する小説 対談:瀬戸内寂聴・丸谷才一
新しい歌舞伎の時代 対談:中村勘三郎・丸谷才一
思想書を読もう 座談会:木田元・三浦雅士・丸谷才一