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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

深夜の散歩

2021-06-12 18:53:15 | 丸谷才一

福永武彦・中村真一郎・丸谷才一 2019年 創元推理文庫版
これは去年の夏に買った中古の文庫なんだが、ずっと放っておいて最近やっと読んでみた。
副題は「ミステリの愉しみ」で、実は三人の著者のうち私のお目当てである丸谷才一さんのパートの大部分は、すでに『快楽としてのミステリー』で読んだことがある、ってのが読むの後回しにしてたひとつの理由である。
それでも、この本の元々のものは、1963年の出版ということで、丸谷さんの評論のなかでも古い時代のものになるから、持ってたほうがいいなってのが購入した理由のひとつである。
なかみは、もちろん探偵小説のよさについて書かれたものであるが、もとは「EQMM」=「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン日本版」という雑誌(1963年の丸谷さんによれば「現在の日本の娯楽雑誌のなかでの最も高級なものの一つ」だそうで)に連載されたもの。
福永武彦は『深夜の散歩』と題して1958年~1960年、中村真一郎は『バック・シート』という題で1960年~1961年、そして丸谷才一『マイ・スィン』が1961年~1963年。
だから、紹介されてる探偵小説は古いよ、うかつに手に入れたいなんて思い立つと難しいこともあるかもしれないから、あまり興味をもたないように注意して読んだ。
探偵小説って、いわゆる純文学より社会的地位が下だろ、みたいな日本にありがちそうな偏見について、以下のように丸谷さんがただしてくれるとこなんかがいい。
>怪談を書くことは難しい。文章の力だけで亡霊を現前させねばならないからである。(略)
>亡霊を現前させるためには、上田秋成のような、E・T・A・ホフマンのような、泉鏡花のような、みごとな文章家でなければならない。(略)ウォルター・デ・ラ・メアのような、石川淳のような、福永武彦のような、稀有の名文家であらねばならぬ。
>――というふうに純文学の作家たちを例に引いて語ったことは、文章という点に関する限り、娯楽読物の作家についても言えることで、存在しないものを存在するとぼくたち読者が思いこむためには、最高級の映画のカメラマンさえも三舎を避けるほど、精巧で力強い文章でなければならないのだ。(p.344-345「「マイ・スィン」第三回」)
これは、ジェイムズ・ボンドものの『ドクター・ノオ』なんかを読んでいる間に、リアリティを信じられちゃうのが、
>なぜなのか? これほど荒唐無稽なストーリーなのに。
>フレミングの完璧な文体の故である。(同)
と、美しくて的確な文体のせいなのだから、その鑑賞を楽しみましょうって探偵小説の味方をしてる素敵な文章である。
(ちなみに「三舎を避ける」は、「恐れはばかって避ける。相手に一目おく。「三舎」は昔の中国の軍隊の三日間の行程。約六〇キロメートル」(角川・類語国語辞典)の意、丸谷さんはときどきこういう語彙をさらっと使われるので油断ならない。)
探偵小説の魅力については、福永・中村対談で中村真一郎氏が、
>ぼくが一番おもしろいのはかたちがよくできているということ。偉大な小説はかたちが歪んだものが多いが、探偵小説は形式的に整っていることが条件だ。(略)いい探偵小説は章が切れる場合にふつうの小説より必然性がある。それは音楽に匹敵しますね。ぼくは室内楽を聴くのと同じように探偵小説を読むんです。(p.374「しろうと探偵小説問答」)
と語っていて、やっぱ「ふつうの小説」なんかより書き方が上手だと示唆しているんぢゃないかと思う。
中村真一郎氏は、『バック・シート』のある回でアガサ・クリスティーをとりあげて、
>「よく書けている」というのは、どういうことか。それはイギリスの田舎の生活の情景が、生き生きと書けている、ということで、つまり、ジェーン・オースチンの小説が、時代こそ違え、やはりイギリスの田舎の生活を、きめ細かい肌触りで、見事に描きだしているのと同じことである。要するにぼくにとっては、クリスティーはオースチンのように面白いということになる。
>これは大変なことで、(略)ぼくは、イギリスの田舎などは、見たこともないわけである。そのぼくの心のなかに、まるでそこで暮しているような錯覚を与えてくれるほど、生き生きとした生活情景を、文章によって再現してくれているというのは、余程の技倆だということになる。(p.142-143「英国の疎開地で」)
と「よく書けている」ことをほめている。
(私は不勉強なのでジェーン・オースチン読んだことないけどね。『高慢と偏見』?)
それで、日本を知らない外国人に日本の生活の情景を見せることができる作家が今の日本にどれほどいるものか、ってとこから、我が国の文芸は堅苦しいことばかり目指して人生いかに生きるべきかとか思想を問うのが好きなようだけど、小説って違うんだぜってとこに行き着く。
探偵小説は芸術ぢゃないとか言うんなら、ぢゃあどっちが美しい文章書けてるのよ、っていう応援のしかただ。
本書のコンテンツのうち、丸谷才一のパートは以下のとおり。私が読んだことなかったのは、「バスカーヴィル家の犬と猫」と「マイ・スィン」の未収録回でした。
マイ・スィン
 クリスマス・ストーリーについて
 すれっからしの読者のために
 長い長い物語について
 サガンの従兄弟
 冒険小説について
 手紙
 ダブル・ベッドで読む本
 犯罪小説について
 フィリップ・マーロウという男
 美女でないこと
 ケインとカミュと女について
 男の読物について
 ある序文の余白に
 タブーについて
 新語ぎらい
ブラウン神父の周辺
バスカーヴィル家の犬と猫
二次的文学
終り方が大切
「マイ・スィン」未収録回
 「マイ・スィン」第三回
 「マイ・スィン」第五回
 「マイ・スィン」第十二回
 「マイ・スィン」第十六回
 「マイ・スィン」第十八回
 「マイ・スィン」第十九回


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ブラウン神父の秘密

2021-06-06 18:33:21 | 読んだ本

G・K・チェスタトン/中村保男訳 1982年 創元推理文庫版
ブラウン神父ものの短編集を三つ読んだところで、あと二つあると知って、どうしようかと思ったが、やっぱ古本屋で買ってみたのは去年の11月だったか、最近になってやっと読んだ。
原題「THE SECRET OF FATHER BROWN」は1927年の刊行、第四短編集、10篇が入ってるけど、最初と最後はプロローグとエピローグといったとこで事件は起きない。
元泥棒で元探偵のフランボウの暮らすスペインの城を訪ねたブラウン神父は、居合わせたアメリカ人の客人に探偵術の方法を訊かれて、自分が殺人犯の心情になるのだというんだけど、それがタイトルの「秘密」って意味。
一読したなかで、おもしろいと思ったのは「マーン城の喪主」かな。
従弟の死という出来事があってから城に閉じこもって暮らしているマーン侯爵。
侯爵を知るひとびとは面会しようとするのだが、ブラウン神父は、かまわずにおいたほうがよい、余計なことをするとみんなが不幸になると忠告する。
みんなは侯爵が厭世家になったのはカトリック修道僧がいろいろ吹き込んだからだみたいな偏見を持っているけど、過去の事件の真相が明らかになると、主人公のブラウン神父が真に神父らしいところをみせるのがいい。
あとは、殺人事件の動機が復讐であって、それもブラウン神父に言わせると「相手に分相応な形で芸術的」な復讐を企てるという「ヴォードリーの失踪」も読後に印象に残るものがある。
コンテンツは以下のとおり。
ブラウン神父の秘密
大法律家の鏡
顎ひげの二つある男
飛び魚の歌
俳優とアリバイ
ヴォードリーの失踪
世の中で一番重い罪
メルーの赤い月
マーン城の喪主
フランボウの秘密

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ユリイカ 特集マンガ王国日本!

2021-06-05 18:45:52 | 読んだ本

ユリイカ 一九八七年二月号 青土社
これは2月に古本屋のマンガの棚にあったのを見つけて買った、もちろんマンガではないことはわかってて。
「現代マンガの50人」とか、新たな発見があるかもしれないからおもしろそうだもの、現代っていっても1987年時点だけど。
読んだなかでおもしろかったのは、橋本治が『バタ足金魚』を論じたもので、
>望月峯太郎の絵がうまいのは、もう言うまでもない。
から始まって、
>望月峯太郎の絵は、「これは本当だったらマンガにはならない」という質――つまり“本格”という種類の異質なのだ。マンガの一コマである以前に『バタ足金魚』の一コマは独立した一点のペン画であると言った方が分かりやすいかもしれない。
とか、
>マンガというものはやはりストーリーを追って行くものだから、絵はストーリーに対して“従”となる。(略)そのストーリーを平気で素っ飛ばして、描写だけでも物語が出来上がっている――その部分が非常に大きいのだとしたら、そのマンガはかなり異質なマンガだと言えるだろう。『バタ足金魚』とはそういうマンガなのだ。(p.80)
とかって絵のうまさを解説してくれる。
さらに、
>実際のところ、少年を主人公にした少年マンガにはテーマなんか一つしかない。これはもう永遠に一つである。なにかといえば、それはもちろん“可能性”である。少年にはそれしかないんだからしょうがない。少年マンガとは少年の可能性を描くものなんである。これがあれば何をやっても許される、これがなければ何をやってもカスである――そういうものが少年マンガと可能性の関係なのだ。(p.81)
という少年マンガ論を展開する、こんなわかりやすいのは聞いたことがないので感心した。
なおタイトルの「思い通りにいかないコトはぜんぶ認めねーぞ、俺ァ」ってのは、『バタ足金魚』の主人公カオルのセリフで、1巻の81ページに出てくるんだけど、そんな大きな声で言ってる場面ではないので私はこの名セリフを見逃していた。
コンテンツは以下のとおり。
「花ゆめ」の三奇人――川原泉・佐々木倫子・明智抄 伊藤比呂美
マニエリスム漫画の道徳性――花輪和一と寺沢武一についてのノート 加藤幹郎
性別越境の冒険 渡辺恒夫
このレヴェルの低さは尋常ではない 城戸朱理
望遠鏡と顕微鏡――畑中純について 村松友視
思い通りにいかないコトはぜんぶ認めねーぞ、俺ァ――または、妄想としての現在 橋本治
元少女の少女マンガとのつきあい方――高野文子と〈青い鳥〉 松岡和子
共同討議・われらみなマンガの徒――1967~1987のマンガを回顧する 四方田犬彦・米沢嘉博・松枝到
オナニーマンガ白書の手前でイッテしまった ねじめ正一
ドラえもんとカルト・ムービーとコミック 野々村文宏
純文学マンガの行方――つげ義春を中心に 呉智英
花合美少女今昔――春信の系譜 本田和子
夢解体のエクスタシー――マンガの表現、そして伝奇ロマン漫画のリアリズム 浜口稔
蘊蓄とはなにか――大衆文化における漫画的なるものをめぐって 鈴木聡
(ポルノ)グラフィー 大橋洋一
当世少女漫画の源流を尋ねて――一美術史家のより道 高橋裕子
現代マンガの50人 米沢嘉博・編

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