河口俊彦 平成六年 新潮文庫版
こないだ古い羽生さんの新書なんか読み返してたら、なんかやっぱ河口老師のものが読みたくなって、この古本の文庫を買い求めた。
それにしても「新・対局日誌」のシリーズは、昔そろいで持ってたんだが、売ってしまったのは今思うと惜しいことをした、改めて集めて読もうとまでは思わないが。
さて本書は単行本が平成二年で、第一部「新人類の鬼譜」の初出は「小説新潮」の昭和63年から平成元年だという。
どうも近ごろ西暦に直さないと何年前のことだかわからなくなる、1988年から1989年だ。
将棋界では羽生善治のデビュー後から19歳で竜王位を獲得するまでのころの話。
1988年は七つのタイトルを六人で分け合ってる群雄割拠状態なんだけど、勝ちまくってるのは十代の羽生善治、佐藤康光、村山聖、森内俊之ということで、本書でも随所に、少年棋士たちは強いとか、我等が新人類棋士たちがとか出てくる、新人類って言葉、流行ってたからね。
1985年12月デビューの羽生のプロ間での評価はまちまちだったんだけど、1986年8月の対中村修王将戦で真価が定まったという。
>この対戦のとき、となりで名人中原誠が指していた。感想戦を終えた中村と羽生が去ったあと、「谷川君の天下も長くないね」と呟いた。(p.22)
っていう証言を採取してんだけど、こういうのがおもしろい。
河口老師は、よくこのテの言葉を拾うもんで、たしか渡辺明の評判を聞いた中原誠が「ぢゃあ羽生くんはその子にやられるんだ」とか言ったのを聞いて、こういう発言は記録する価値があるなんて書いたものがあったと思う。
まあ先人からすると、十年に一人は天才が現れて世代交代していく、ってのは歴史の必然だって達観しちゃってるんで、そういうこと言えちゃうんだが。
困ったことにというかうれしいことにというか、この世代には十年に一人の天才が何人もいるんで、話題にことかかない。
関西の将棋会館では実戦と同時進行の検討をしていると、詰むや詰まざるやの局面になった、内藤九段が詰むに決まってると一目で答えをだすんだが、
>さっそく淡路八段など若手棋士が、具体的な詰み手順を考えるがすぐには見つからない。
>そのうち淡路は棋士室へ行き、すぐ戻ってきた。
>「向うでは、詰まんいうてますよ」
>「そんなアホな。詰まんはずないやろ」
>「村山君が、詰まん、というんです。詰まない方へ一万円いきます。どうでっか」(p.41-42)
って「終盤は村山に聞け」伝説である。
本書第二部の「運命の棋譜」は、主に名人戦の対戦などを振り返っての昭和将棋史って雰囲気がある。
そうなると主役になるのは、著者が史上最強とする大山康晴名人ってことになる。
>将棋には、勉強すればわかるようになる部分と、いくら努力してもわからない部分とがある。たとえば、終盤の勝敗の決する場面で、相手はどんなことを考えているか、なにを怖がっているか、などを瞬間に読み取るのは才能である。その種の才能にもっとも恵まれているのは大山で、不利になったら、盤上最善の手ではなく、相手がいやがっている手を指す。すると相手は動揺し、逆転劇が生れるのである。(p.216-217)
とか、
>このようにして、大山は初防衛に成功したのだが、これは、将棋は盤上最善の手を指して勝つべきものだ、との升田の理想主義的な行き方に対する、大山の、人間はかならず過ちを犯す動物だ、いい手は指さなくとも、悪手を指さなければ勝てるのだ、の現実主義の勝利ともいえよう。(p.232)
とかって、大山流の勝負術が解説されている。
あのころはねえ、将棋は人間の勝負だったから、いまみたいにコンピュータソフトがベストの手を示したりする時代ぢゃなかったし。
ほかにも、大山名人より二回り下でもやっぱ旧人類である中原名人についても、
>(略)中原、米長の将棋には美学がある。その美学の持つ弱点を若手棋士達に狙われて、二人は勝てなくなったのだが、中原が中村に苦戦しているとき「米長さんや谷川君とは、お互いに強さを認め合っているから指しやすい」と言ったそうだ。(p.237)
みたいな話を披露してくれてる、おもしろい。
美学とか信用とか、そういうのが水面下に滔々と流れてたころの勝負は見ててドラマチックなものあった。
本書第三部の「待ったをしたい棋譜」は、強いはずのひとがやらかしたポカなどをとりあげたもの、ポカっていっても詳しく解説してくれてないと何がポカなのかとはわからないんだけどね。
コンテンツは以下のとおり。
新人類の鬼譜
恐るべき子供たち
羽生にはかなわない
無表情な天才
羽生の試練
村山少年の天才ぶり
先崎学には美学がある
女性棋士の感情
勝負の「思いやり」
付き合いが悪い
島朗六段の生活と意見
今年の将棋界はどうなる?
急所の勝負運
反射神経と持時間
チャンスの処方
名人の器
情報の功罪
いじめの構図
世代の明暗
交代劇の一瞬
ここ一番で何故負ける
日浦五段の突っ張り
自己表現も技のうち
ある種の頼りなさ
将来を占う
運命の棋譜
待ったをしたい棋譜
P・G・ウッドハウス/森村たまき訳 2006年 国書刊行会
5月下旬ころだったか地元で買った古本。
原題「The Code of the Woosters」は1938年の刊行。
タイトルのウースターは、主人公バートラム・ウースターの家名なんで、ジーヴスものだとは思ったんだけど。
長篇で、前に読んだ『よしきた、ジーヴス』のつづきになってた、順番に読んでたからよかったようなものの、前作知らないと話が通じない長篇ってのは苦手分野かな、やっぱ短篇集のほうが私には好みだな。
さて、ウースター家の掟とはなんぞやということだが、
>あなた前にあたしに、ウースター家の掟とは〈決して友達をがっかりさせないこと〉だって言ってらっしゃらなかったかしら?(p.333)
って女友達に指摘されてるように、そういうことだ。
友達のためなら自らの危険をもかえりみず一肌脱ぐオトコ気は友人たちにも有名で、もし恐れおののいてしり込みするところを見せると、
>これが僕が学校時代に崇拝していたバーティー・ウースター――僕らが〈命知らずのバーティー〉と呼んでいたあの少年のなれの果てか?(p.148)
なんて言われちゃう。
そう言ったのはバーティーの友人の、ガッシーことオーガスタス・フィンク=ノトルで、前作に続いての登場。
このガッシーがマデラインという女性と婚約してるのは前作からのつづきなんだが、なんだかんだケンカばかりしてて、すぐ婚約解消って騒ぎになる。
この二人のあいだをとりもってやろうってのが、バーティーのひとつのミッションになる、それは友だち甲斐ってだけぢゃなくて、いろいろあって二人が結婚しないと、マデラインのほうがバーティーと結婚したいとか言い出すから、それを回避するためである。
もうひとつのミッションは、バーティーにとってのいい親類であるダリア叔母さんが、銀のウシ型クリーマーをくすね取ってこいと無理難題を命令してくる。
ダリア叔母さんの夫のトム叔父さんが買うはずで取り置きしてあったのがアクシデントで買えず、ほかの人が買ってしまったのだというが、それを買ったのがマデラインの父親のサー・ワトキン・バセットなんだけど、このパセット氏が治安判事で、かつて「刑の代替はこれを認めない」という短篇で警官のヘルメットを盗もうとしたバーティーに罰金刑を言い渡したという因縁の人物。
かくしてバーティーは、彼のことを忌み嫌っているバセット氏の邸へ、客人として乗り込んで行くことになるんだが。
着いてみると、友人のガッシーは、他人の侮辱的悪口を書き溜めた手帖を紛失してしまったとか言って、新たなトラブルが発生している。
それを拾ったのは、バーティーの女友達で、マデラインの従姉妹のスティッフィーなんだけど、このスティッフィーの婚約相手が、副牧師のハロルド・ピンカーといって、これがまたバーティーの親友のひとり。
それはそうと、このスティッフィーって女性がまたぶっ飛んだ性格をしてて、やたら事態を悪化させることばかりしでかす。
地元の巡査が気に入らないから、婚約者のハロルドにはあの警官のヘルメットを盗んできてよと命じるし、バーティーには騒動のネタになる手帖を返してほしければ銀のウシ型クリーマーをくすね取ってきてよと命じる。
かくして、銀のウシ型クリーマーとガッシーの手帖と警官のヘルメットをめぐって、サー・ワトキンの田舎の邸宅で騒動が繰り広げられる。
どうでもいいけど、本人は舞台にあらわれないのに、事件全体に大きな影響力をもつ人物がいて、それはダリア叔母さんのところのコックのアナトール。
ダリア叔母さんはバーティーに対して、言うことをきかないならウチにおまえを呼ばないからアナトールの料理を食べられなくなるよとか脅すし、サー・バセットはトム叔父さんに対して、銀のウシ型クリーマーとアナトールを交換しようなんて取引を持ちかけるし。
銀のウシ型クリーマーを手に入れるのはもちろん、唯一無比の芸術家とまで称されるアナトールをダリア叔母さんのもとに残せるかってのも重大な問題になってくる。